日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第四話

組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労動労を離れ、鉄労に移籍することとなっていくことになるのですが、この辺は、次回に書かせていただきます。

と書かせていただきましたが、その前に生産性運動に関するエピソードの中から、幾つか興味をひくものをリストアップさせていただこうと思います。
生産性運動は当初は、実効性が何処まであるのかという思いもあったようですが、その成果は燎原の火の如く広がっていったようで、中央鉄道学園や、地方の鉄道学園でも指導者自らも積極的に生産性運動に参加しており、生産性運動は、成功するかのように見えました。
以下、中央鉄道学園長や地方の鉄道学園の事例などを挙げさせていただきました。

中央鉄道学園長の場合
中央鉄道学園学園長として着任した、山岸勘六学長の場合は、自らも研修に参加し、生産性運動の先頭に立つことを自ら宣言しています。

青年対象の生産性運動に無理矢理参加した中高年の管理者の場合
福知山鉄道管理局の鉄道学園、吉岡教頭と労働課河本課長と呼ばれる二人の中高年者が、生産性本部主催の生産性青年大会に参加したというエピソードです。
 民間企業280人、国鉄からも16人の若手職員に混じって、参加していたそうで、生産性本部では、若手でないと困ると何度も断ったそうですが、自ら年休を取って現地に押しかけ、若者に混じって10日間のキャンプ生活をしたと記録されています。

さらに、これに感化されたのか、福知山鉄道学園長は下記のような行動をしたそうです、「国鉄を売った官僚たち 大野光基著」から引用してみたいと思います。

引用ここから

 又、福知山鉄道学園長もジッとしておれなくなり
「お前、私を学園長室に閉じこめて、この歴史的一ページに何の関係もなかった"額縁"長で終わらせるつもりか。私は実践教育の先頭に立ちたいんや」
とエライ気合いで、中央鉄道学園の第一回生産性指導員研修に参加したほどだった。


引用終わり

といった具合で、生産性運動の当初は、現場そして地方の鉄道学園などでは生産性運動が大きなうねりとなりつつありました。

研修を受けた職員も大いに生産性運動の理念に共感して、生産生運動の理念を多くの人に伝えようと生産性運動の話をする頼もしい職員もいたそうで、「いま俺たちがやらなければ!」ということで、演説する人等、現場の推進役になってくれる人もいる反面、当然批判する人もいるわけで、その辺の事情を、再び「国鉄を売った官僚たち 大野光基著」から引用してみたいと思います。

引用ここから

 中央や地方学園で研修を受けた人たちの多くは、職場に帰ると手当たり次第に仲間に生産性の話をする。松本車掌区車掌・H氏(本では氏名が出ているが省略)は30人の仲間を集めて
「いま俺たちがやらなければ!」
と一発ぶち上げたという。また、大阪宮原電車区では150人の全職員【民青もいた】を集めた前で、生産性指導員研修から帰ったばかりのAがぶち上げた。場内は静まりかえり、ヤジ一つなかったという。翌日の「民青新聞」に
『聴いているうちに背筋が寒くなってきた・・・・」
と書いてあったらしい


引用終わり

と言うことで、国鉄の現場では、生産性運動は浸透しつつありましたが、上意下達に慣れてしまっている国鉄の組織では、まだまだ生産性運動を学んだものとそうでないものとの間の温度差はありましたし、国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第三話

昭和44年から試験的に始められた生産性運動は、順調に進められることとなり、昭和45年だけで約二万人が研修を受けることとなりました。
その反面、国労動労も生産性運動を批判的に考えていました

生産性運動は現場では積極的に開催されることに

生産性教育講師の研修を受けた人たちは、現場に帰るやいなや、生産性教育を始めるところが有ったと書かれていますが、こうした状況に対して、国労動労はよい顔をしませんでした。

さらに、現場での研修が開始されるに伴い、管理局の部長クラス研修が強く言われるようになり、昭和45年10月17日から4泊5日の行程で第一回部長研修を生産性本部に委託して行うことになったとされています。
さらに、23動力車区の研修も現場長の研修はほぼ終わり、今度は25歳以下の職員だけを集めた研修が、行われたとされています。

管理局への生産性運動研修は浸透せず
若手の研修は、比較的上手く行ったようですが、管理局の部長研修はあまり進まず、本社幹部や管理局長クラスへの生産性運動は浸透することはありませんでした。
これは、本社の真鍋職員局長が、生産性運動自体にあまり乗り気ではなかったことが影響しています。
ただ、昭和45年の生産研修は多くの研修が行われており、約二万人が生産性教育を受けています。


国鉄監査報告書昭和45年版から引用

組合による生産性運動に関する分析

また、現場長などが地方での生産性運動に対して熱心に取り組むことに対して、組合側はあまりよい顔をしないのですが、組合側はその理由を下記のように分析しています。

高等小学校を卒業して、国鉄に入った純粋培養の現場長に、職場がなくなったらと言う恐怖心を吹き込まれ、それを救えるのはマル生運動(生産性運動)であると、洗脳教育を受けているからだと、批判していますが、若い労働者に対して、反マル生教育をするのも同じだと思うのですが、彼らの論理は下記のようなものでした。

松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車(三一書房刊)から引用したいと思います。

 国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、・・・中略・・・国鉄の職場ほど自己閉鎖的な職場は、他に類を見ないと言っても過言ではない。・・・中略・・・。
  国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。


組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労動労を離れ、鉄労に移籍することとなって行くことになるのですが、この辺は又次回に書かせていただきます。

 

 

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生産性運動導入から、中止まで 第二話

管理局への生産性運動の導入
生産性運動は、先にも記しましたように、昭和45年4月11日から始まるのですが、生産性運動の理念を理解した職員が現場に戻っても、肝心の管理局に生産性運動を理解していないと、元の木阿弥になってしまうことから、研修生の中からも管理局のバックアップを望む声が大きくなってきました。

国鉄を売った官僚たちから引用させていただこうと思います。

引用開始・・・・


ところが、現場だけが生産性教育をやっても、管理局に生産性運動の理解者がいなければ困る事態が方々で発生してきた。研修生の中からも管理局のバックアップを望む声が強くなった。そこで、5月8日から13日にかけて第一回生産性指導者研修会(PCコース)を実施し、本社・管理局の係長クラス及び学園講師を参加させた。私も一研修生としてこの研修会に加わった。

・・・引用終わり

管理局の課長クラスが参加した生産性運動

その後、第二回は7月10日から15日かけて行われ、課長クラスの研修を求める声が管理局から強くあり、全員管理局の課長が受講したそうです。
更に、8月には二回に分けて課長クラスの生産性教育を行い、そのスタートは順調に思えました。
実際、長野局のI人事課長は、土曜日朝から15:00頃まで人事課員を集めて生産性理念を熱く語り、翌週から松本運転所などを精力的に回るなど、数多くの管理局の管理者が生産性の理念を熱く語ったと言われています。

このように、生産性教育は、燎原の火の如く広がっていき、更なる生産性教育の拡充を行うこととなり、指導者の養成を含めて行われることとなりました。
再び、引用してみたいと思います。

引用開始・・・・


 昭和45年8月17日に職員局長名をもって、『生産性教育について』という通牒を全国の全機関に発送した。その内容は、今後全ての講習会、研修会議において生産性研修を行うという画期的なものであった。そのために9月から翌年の3月にかけて、中央鉄道学園で約600人の生産性教育の指導者を養成するというものだった。このため、能力開発課・丸山補佐が中心となって『生産性指導員研修テキスト(国鉄専用)』が作成された。
 第一回生産性指導員研修は、9月24日から10月3日まで10日間連続コースで行われた。と
ころが、地方学園の中にはこの大たちが研修を終わって帰るやいなや、早くも10月6日から地方研修を始めたところがある。

・・・引用終わり

とうことで、生産性運動は予想以上の好調なスタートを切ることになりました。

続く

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生産性運動導入から、中止まで 第一話

生産性運動が正式にスタートしたのは、昭和45年4月11日で、現場の意識改革と言うことで生産性本部の協力を得てスタートするのですが、概略を最初に述べさせていただきます。

生産性運動の開始から終焉までの概略

1) 生産性運動を行おうとした背景
そこには、昭和30年代から続く、過激な組合運動とその対策として、何らかの意識改革が必要であると考えられていました。
2) 現場長も学園も、本社も消極的でした
意識改革と呼ばれるものは何処もそうですが抵抗されるものであり、現場長による研修でしたが、受講後は意識が変わって行った〔これが後にマル生運動を崩壊させる根拠となった可能性もあります〕
3)生産性教育ボトムアップを期待する改革、そのために発行された日刊、「能力開発情報」
4以降は、次回に書きますが、概要だけ記述しておきます。
4)生産性運動の本社・管理局への上部展開
5)生産性運動の現場からの浸透と組合の反発
6)組合による、マスコミを利用した反マル生運動政策
7)中止に追い込まれる生産性運動
8)更なる現場の疲弊と物言わぬ中間管理職たち

1)生産性運動を行おうとした背景

生産性運動を行おうとしてきた背景には、職場の荒廃がありました。
昭和30年代に入りますと、組合運動が先鋭化し。違法なストライキも続き、国鉄本体としてもその流れを変えていきたいという思いもありました。
石田総裁辞任後、副総裁であった磯崎叡が6代目国鉄総裁として就任することになりました。
国鉄生え抜きの人材ですので、国鉄の現場の荒廃などをよく見てきていますので、何とかしたいという思いはあったかと思います。
国鉄を売った官僚たち」を執筆された、大野氏の回想によるますと、それまでの「養成課」という名称を変更するように指示したのは、磯崎総裁であり、大野氏が「能力開発課」と言う名称に変更したいと案を出したところすぐOKと言われたとされています。

2) 現場長も学園も、本社も消極的であった

当初は現場も消極的であり、意識改革など出来ないという先入観があったように思います、これに関しては、以下の大野氏の「国鉄を売った官僚たち」の記述が参考になるのでは無いでしょうか。
国鉄を売った官僚たち」から引用したいと思います。

生産性教育に最後の望みを託す
ところが、開校初期直後の座談会では、一人の区長はこう言った。
「われわれは事故防止が第一で、生産性を上げる予知なんかない。それに、二十三区だけが生産性向上やって何になるのか我々だけ生産性向上をやったら損ではないか」
また、ある区長は
「教育なんかより、信賞必罰だ。私の区でも4、5人悪いのを首を切れば良くなる。この忙しい時に4日も区を上げるのは勘弁してくれ、区に帰りたい」と言いだす始末であった。そこでわたしはこう言った。
「とにかく4日の研修を受けて欲しい、そして、もう一度こういう検討会を開く、その時、再び今と同じような話が出るならば、この教育はやめましょう」

ということで、否定的な面々が多かったのですが。

と書かれているように、決して協力的ではありませんでした。
しかし、4日の研修を終える頃には、以下のように、その意識が変わっていったのでした。
4日の研修を終える頃になりますと、助役の地人たちの意識が変わったのでした、その辺りの状況を、再び、引用させていただこうと思います。

 「今まで私たちは他の動力車区と進まず遅れず、歩調を合わせていけばよいと思っていた。間違いでした。良いと思ったことは、横を見ずに、これからはどんどん前に出ます」
 「今までの自分の甘さを痛感した。外部の人があれほど国鉄を憂えているのに、私たちはどうか。
知らぬふりを続けてきたのだ」
 「私は変わった。組合に囲まれても彼らと激論を闘わす自信がついた」
 「これまでは井戸の中の蛙であった。明日から死ぬ覚悟でやる」
 「これはでかいことをやるんだということが途中から分かった」  


とあるように、今までとは真逆の感想が得られたことになりました。
この結果を受けて、最初に選定された23の動力車区にあっては、生産性本部が引き続き月2回程度の割合で実施することになったと書かれています。

また、本格的な生産性運動が始まる前の2月2日から、3泊4日の日程で中央鉄道学園において駅現場幹部研修会が開始されました。
これは、悪名高い23駅の職場改善を目指すということで、動力車区と競争させてみようという腹づもりだったと回想しています。(23というのは偶然であったとされています)
駅現場幹部研修会は、もちろん、生産性運動ではありません。
こちらも一定の成果を得られたようで、6月頃から生産性運動に移行しています。

3)生産性教育ボトムアップを期待する改革、そのために発行された日刊、「能力開発情報」

国鉄本社でもユニークな取組が行われました。
それは、「能力開発情報」日刊の記事でした。

機関紙というかチラシが「能力開発情報」でした。
能力開発情報は日刊で、現在のようにパソコンなど無い時代ですからもちろん手書きのガリ版刷りと書かれていますが、今から見れば貧弱なものですが、これが現場の生産性運動を奮起させる大きな原動力にもなったそうです。このような機関紙を発行しようとした理由を、大野氏は下記のような記しています。

再び「国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

私は、3月12日から14日にかけて行われたソニー常務取締役・小林茂の講演を聞いて大変な感銘を受けた。小林の話は要約すると次のようなことだった。
「従業員の心にキラキラ輝く旗を立てなければならない。権力によって支配し、命令に従順であることだけを求める組織では従業員の心に決して旗は立たない」〔下線部は筆者注記〕
キラキラ輝く旗は『情報』によって立つ。お客にモノを売り込む情熱と手法を従業員に使うべきである。答えだけを下部に流すやり方を改め、これからは、本社は正確な『情報』を下部に流すことを務めるべきだ

と言った内容であったそうで、出来るだけ正確な情報を下部に流すことで従業員が自発的に動く組織を作るべきだと書かれているわけです。
 本文はもう少し続くのですが、長くなりますので引用することは控えますが、要約しますと、立派なものでなくてよい、むしろガリ版刷り、手書きの方が親しみがわく、一ページで良いから毎日発行する、読むのを強制しない〔いわゆるチラシですから〕という今までであれば、通達であるから読んでおくように・・・的な押さえつける発想では無く、全く反対のアプローチを取っているのが特徴です。
実際に、「能力開発情報」は、ガリ版刷り一枚モノの日刊として発行されることになったそうです。

若い人にガリ版刷りと言ってもぴんとこないと思いますが、ガリ版と呼ばれる、鉄の板の上にろう紙をおいて、鉄筆と呼ばれる、ペン先が尖った金属の鉛筆様のもので、手書きしていくものでした。

当初は、誰も見向きもしない・・・そんな状況でしたが、やがて管理局からも情報が上がってくるようになり、情報の大きなうねりが起こって行ったのでした。

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画像は、『国鉄を売った官僚たち』からキャプチャした「能力開発情報」の一部

 

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生産性運動導入前夜、民間で先行した生産性運動

生産性運動は、昭和45年当時、民間では殆どの会社が参加していた
生産性運動の理念は、繰り返しになりますが、富の再配分であり、労働者からの搾取というものではないことは、すでに書きました。
そして、全繊同盟、新産別、全国自動車、鉄鋼労連など、春闘を今までリードしてきた組織も積極的に生産性運動に取り組むようになり、昭和45年時点で620万人達すると言われ、参加していないのは、官公労系を中心とした組合に限られるといった状況になっていました。
この頃から民間のストライキへ減少し、昭和30年代にみられた労働争議は、徐々に減っていきました。
まぁ、その中で国鉄と、郵政は派手な闘争、郵政省の場合は郵便に全逓組合員が多かったので、ブツ溜め闘争と呼ばれる順法闘争(区分の時間を遅らせる、配達の時間を遅らせて、超勤拒否による持ち帰りを繰り返して郵便物の配達を故意に遅らせる)と言ったことが行われていました。
特に年賀はがき前の繁忙期などにその闘争を行うことがあり、管理者が全員駆り出されて、慣れない手つきで区分したりする姿が見られたと言われています。
私が入局したころにはそこまできつい闘争はありませんでしたが、管理者に対する威圧的な行為はありました。

さて、再び生産性運動の話に戻りますが、最初に試験的に行われた研修は、「運転指導者研修カリキュラム」であり、生産性本部が直接行ったもので、下記のように非常に成果を上げることが出来ました。
そして、この成功を受けて、本格的に昭和45年から生産性運動の研修が始まることになりました。

大変大きな成果を上げた、最初の研修
生産性運動は、試験的に昭和44年11月19日22日の4日間で「運転指導者研修カリキュラム」が実施されました、この研修は1回40人ずつ、12月20日までに計5回開催され、延べ人数で197人が研修を受けたとされています。
この研修は、目をみはるものがあり、一種の興奮状態の中にあったと書かれています。
その辺を、再び「国鉄を売った官僚たち」から引用します。

◎現場で職員の指導上もやもやしていたものが、いっぺんに拂拭されたような気がする
不屈の闘志と根性が湧いてきた。
国鉄不沈艦意識について痛いところを徹底的につかれ、覚悟を新たにすることができた。
◎老齢の冷えた血も再び燃える思いです。二、三日の徹夜でも平気である。われわれは現場に帰って生産性向上のため、相互に連絡を取りながら教わった内容を実現したい。


賛成派もいれば反対派も・・・
そして、実際に、現場で積極的に生産性運動を批判する勢力も動き出したのでした。
当然、これに反論する動きも出てきて、動労静岡支部で生産性運動、反対の動きが起こりました。
「全国的に繰り広げている生産性運動=つまり合理化に協力する労働者つくり=を粉砕しよう」
「青年講座、中堅職員研修に反対しよう」

をスローガンに2月16日から20日にかけて職場集会が実施されたと記録されています。

最初に23の動力車区が選定された
昭和45年4月11日から全国23動力車区第1回生産研修が正式に開催されました。
区の体質改善を図るために、少なくともその区の10%の職員に同じ教育を受けさせる必要がある、いわゆる「職場ぐるみ教育」として全国220の動力車区のうち、評判の悪い区を集中的に行うとして23を選択したと、「国鉄を売った官僚たち」には書かれています。
再び、引用してみたいと思います。

 四月十一日から全国二十三動力車区第一回生産性研修が正式に開始された。なにしろ日本生産性本部には、三ヵ年で四千人程度の研修能力しかないということだった。四千人を全国二百二十の動力車区にバラまいたのでは効果はない。区の体質改善をはかるには、少なくともその区の一〇パーセントの職員に同じ教育を受けさせる必要があると考えたわけである。いわゆる「職場ぐるみ教育」をやらなければ教育の効果はないという考えから、二百二十の動力車区から二十三区を選んだわけである。
 二十三区の選び方であるが、とにかく全国でもっとも札つきの悪い区をまず教育することにした。そこで私は、管理局総務部長に直接電話してそれを選定した。

この研修も大きな成果を上げるようで、当初は批判的であった、参加者も研修最終日には、その趣旨をよく理解してくれていたと記されています。
なお、第1回の研修は区長が参加となっていますので、区長以下助役が参加していた事がわかります。

研修後の成果はどのようなものであったのかは、次回に書かせていただきます。


続く

 

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マル生運動は何時から始まったのか?

生産性運動は、昭和45年3月国鉄本社内で議論され、3月24日に常務会で最終決定がなされ、3月25日に日本生産性本部に文書で3箇年計画書と共に送付されましたので、3月24日を国鉄生産性運動のスタートとみることが出来ます。

なお、生産性運動というと不当労働行為の象徴のように言われたり、国鉄の負の部分だとする意見も多いのですが、生産性運動の基本的な考え方はむしろ、労働者を守る事に主眼がおかれたものでした。

その辺は誤解が多い、というか「生産性運動=不当労働行為」から入る論調が多いためであり、「国鉄を売った官僚たち」 大野光基氏の著書を見ますと、元々の生産性運動の概念は、フィラデルフィア宣言をよりどころにしていると書かれています。

当該部分を引用したいと思います。

生産性運動の基本的な考え方は、国際労働機構(ILO)の宣言をよりどころにしている。
ILOは、1944年4月アメリカのフィラデルフィアで総会を開き、有名なフィラデルフィア宣言を採択したが、その冒頭で「労働は商品ではない」と言うことを謳っている。
当時、労働力は市場において一般の商品と同じように、需要供給によって値段がつけられ売買さえるものだと思われていた。
これに対して、ILOは労働力とは人間そのものであり、人間が売買される商品ではあり得ないことを世界に向かって宣言したのである。この意義は極めて大きい・・・・以下は省略

さて、ここでフィラデルフィア宣言都はどのようなものであったのか、その全文の一部を抜粋したいと思います。


国際労働機関の目的に関する宣言

フィラデルフィア宣言)

 国際労働機関の総会は、その第26回会期としてフィラデルフィアに会合し、1944年5月10日、国際労働機関の目的及び加盟国の政策の基調をなすべき原則に関するこの宣言をここに採択する。

 1 総会は、この機関の基礎となっている根本原則、特に次のことを再確認する。
  (a) 労働は、商品ではない。
  (b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
  (c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
  (d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。

2~5は省略



余談ですが、戦前の日本にも、労働=商品であると言う意識が根強くあり、戦前の野田醤油争議などもありましたが、ことごとく資本家階級に圧殺され、プロレタリア文学に見られるような、労働=商品と言った考え方がありました。
マル生運動から大きく脱線してしまったので、再びマル生運動の話に戻りたいと思います。

この導入までには、かなり生産性本部との間で国鉄当局側の意向と生産性本部の考え方が異なっていたのですが、当時の真鍋職員局長の英断で生産性運動は、昭和45年4月から正式に開始されることになりました。
前回の内容と一部被りますが、前回の内容の詳細と言うことで見ていただければと思います。

この辺の事情を、再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用したいと思います。

深沢の言った次の一言は、、胸を突き刺すほどの衝撃だった。
国鉄には哲学がない。国鉄の職場に充満しているのは組合の理念ばかりだ」 
 そして深沢は、四年前から企業単位の生産性研修を始めたこと、アメリカから教育訓練の技法が輸入されたが、いずれも行き詰まり、理念教育がいろいろな企業で行われるようになったことなどの話をした。
 私は早速、このことを真鍋職員局長に報告し、真鍋を入れて三人でもう一度話し合うことにした。
 昭和四十四年九月中旬に深沢は、労働部職員一人をつれて職員局長室に現れた。
 「国鉄の教育を引き受けるについては三つの条件がある。一つは卜。プが不動の信念を持つこと、第二は少なくとも三泊四日が必要なこと、第三は鉄道施設(例えば中央鉄道学園)以外で教育を行うこと、以上の三つは絶対の条件である」と彼は力説した。
 私と真鍋の事前打ち合わせは、中央鉄道学園教育の中に数時間、場合によっては一日程度、生
性教育を挿入しようということだったが、深沢は、
 「それでは絶対に引き受けられない」
 と言って、帰ってしまった。
 私は真鍋に、
「あんな難かしいことを言うのならやめましょう」
 と言った。ところが真鍋は、
「いや、やろう」
と、はっきり言い切った。
 国鉄再建のために生産性教育を導入する方向が次第に固まっていったのは、深沢と会ったのち、しばらくしてからである。それにしても、一体どういう教育なのか、私自身にもまだ見当がつかなかった。私は他社の教育を見学させてくれと頼んだが、社員教育に見知らぬ人が入ってくるのは困る、ということで断わられてしまった。
 そこで、テストケースとして昭和四十四年十一月十九日から三泊四日の運転指導者研修(第一回)を実施した。次ページの図表のようなカリキュラムで東京・代々木のオリンピック記念青少年総合センターで実施された。
 対象は動力車区の助役および指導機関士とし、一回に約四十人ずつ、十二月二十日までに計五回、百九十七人について行われた。

ここで出てくる、深沢という人物は、日本生産性本部労働部長・深沢敏郎氏です。

なお、この生産性教育前に試験的に行われたのが前回に書かせていただいた

「テストケースとして,昭和44年11月19日22日の4日間で運転指導者研修カリキュラムが行われました。」という話になるわけです。

併せてこちらもご覧ください。

国鉄労働組合史詳細解説 34-1



国鉄労働組合史詳細解説 34-2


併せてご覧いただければ、より理解が深まると思います。
更に、より深く理解いただけるように調査研究を続けて参ります。

 

 

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マル生運動が導入された背景は?

国鉄はどのような経緯でマル生運動を導入したのでしょうか。

マル生運動を理解するためには、何故マル生運動が必要になったのかと言うことで、昭和30年代までさかのぼる必要がありそうです。

国鉄の労使関係は、昭和40年だから一気に悪化したと言う印象を持たれている方も多いのですが、実際には昭和30年代から強力な闘争が行われていました。
ただし、当時は当局側もしっかりしており、現場管理者をバックアップする体制が出来ており、さほど大きな問題にならなかったと言うことです。

昭和30年代の闘争というと、三井三池闘争等が目立っていますが、国鉄でも幾つかの大きな争議は行われており、今回は特に、「新潟闘争」と呼ばれる闘争を取り上げてみたいと思います。
この闘争は、結果的には、国労内の分裂を生むだけで徒労に終わることに成るのでした。

国鉄では新潟闘争が一つのきっかけ

新潟闘争について、wikipediaに「概略が書かれていますので長いですが、全文引用したいと思います。

1957年に、前年から続いた公共企業体労働組合協議会(公労協)の処分撤回闘争に国労・機労も参加したものの、国労新潟地域本部を中心に抜き打ち的なストが行われ(新潟闘争)乗客や荷主が反発。
一時は国労本部と国鉄当局との話し合いで事態を打開する動きがあったものの、地本が独断で駅長を吊し上げたりストを打ったりしたことから事態が泥沼化。
このことから新潟地本の中で闘争方針に批判的な非現業職員や民同右派を中心に国労を脱退し、新組合を結成。この動きは全国的に広がり、国鉄職能別労組連合会(国鉄職能労連)を結成するに至る。
さらに1959年に社会党の最右派が離脱して民主社会党(のち民社党を経て21世紀現在は民社協会)を結成すると、予てから関係が深かった民同右派も同調。
こちらは地域毎に労働組合を組織化し国鉄地方労組総連合会(国鉄地方総連)を結成、1962年には新国鉄労働組合連合(新国労・後に鉄道労働組合=鉄労)として両者は統合し全日本労働組合会議(全労)→全日本労働総同盟(同盟)に参加。第二組合として国労動労と対峙した。

 新潟闘争は、国労としても拠点として強力な闘争を戦わせたものの結果的には、更なる処分者を出すだけの一人負けとなり、更には、組合の分裂(民同右派を中心とした離脱)を招くだけでした。

以下キーポイントを列記します

1) ここで、国労からは労使協調路線を主とする、民同右派のグループが鉄労を結成しますが、この鉄労がマル生運動では一つのキーとなりますので覚えておいてください。

 2) さらに、国労では当局に対して階級闘争に基づく反発を強めることとなり、「職場の問題は 職場で取り上げ、職場で交渉し、職場で解決する」運動の開始し、「職場に労働運動を」と言うスローガンを掲げ行動することとなりました。
これは、昭和43年から全国的に現場協議制としてスタートすることとなり、これが現場を荒廃させる元凶となるものでした。
現場協議制も、当時の国鉄を理解するためのキーとなりますので覚えておいてください。


3) 国鉄にマル生運動を導入したのは、石田総裁の後を継いで、副総裁から昇格した磯崎叡総裁でした。
久々に生え抜きの総裁として着任するのですが、磯崎氏の評判は、国鉄を売った官僚たちの大野氏によると、大変厳しい評価を下しています。
磯崎氏は、荒廃した現場のことをよく知っていましたので、就任当初は「職場に人間性を回復しよう」というスローガンを唱え行動するのですが、最終的には官僚特有の保身から、現場の管理者のはしごを外す形で、陳謝し収拾を図ることとなり、物言わぬ管理者が増えて更に職場は荒廃、荷主はストライキばかりの国鉄に愛想を尽かしトラックに流れていくこととなりました。

マル生運動とはどんな運動だったかと進めたかったのですが、長くなりそうなので、マル生運動の歴史は次回にさせていただこうと思います。

続きます。

 

 

参考:

blackcat-kat.hateblo.jp

 

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