日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第九話

> 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。  

現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動

当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。

そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなりました。

生産性ニュース マル生運動

生産性ニュースが昭和46年4月25日に創刊号が発行された、国鉄を売った官僚たちから引用

国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

4月25日(創刊号) 蕨駅に生産性運動推進チーム(二〇数人)が誕生した
5月10日号 仙台運転所の生産性推進グループは現在24グループ(511人)である。東京西厚木駅に「国鉄再建同志会」(69人)が4月23日に結成、その補遺か宿河原駅国分寺駅武蔵小杉駅、西国立駅立川駅、原町田駅相模原駅、東飯野駅などでも結成された
東京南局の浜川崎駅、神田駅、品川機関区、蒲田電車区などで結成。旭川局の富良野線助役18人は4月28日に「国鉄を愛する会」を結成。青函局運転部有志53人による「明るく新しい国鉄にする会」が結成された。
中略
 6月10日号 大阪局の姫路車掌区では5月1日に「生産性運動推進チーム」(170人)を結成。
水戸局施設部係長(34人)は「施設部係長会」を結成。東京西局の機関区、電車区、客車区の事務職員(101人)は「運転事務再建会」を結成。同局の四方津駅武蔵新城駅上野原駅三鷹車掌区に「国鉄再建会」誕生。東京南局の根府川駅早川駅で「国鉄再建会」を結成。関東資材部の「再建同志会」の入会者は5月12日現在、302人。東京北局の本局係長(24人)が「係長会」を結成。仙台局の会津高田駅で4月18日に家族による再建会誕生。釧路局の「あかるい国鉄つくる会」(2000人)は昭和46年度総会を開催した。
 6月25日号 静岡局本局に生産性運動チーム誕生、4人を除く全課員が参加。盛岡局の「国鉄再建運動連絡協議会」の代表8名は5月26日に磯崎総裁に誓書を手渡した。天王寺局は「一職場に最低一つの生産性グループ」をモットーに運動を推進中。旭川客貨車区は全職員が生産性教育受講を強く希望。
 7月10日号 北海道追分駅では4月10日に生産性運動追分駅推進本部が会員69人で発足した。


もう少し続くのですが、冗長になっても行けませんのでこの辺で止めておきます。

生産性運動は、管理局の垣根を越えて

生産性運動を推進していくグループのもっとも頭が痛い問題は国労動労の違法ストや順法闘争に見られるサポタージュ対策でしたが、抗して規模が大きくなってくるとやがて、十分な国労動労に対するいわゆる抵抗勢力として成長していきました。
いわゆる、前述のマル生グループの誕生でした。

こうした中で、こうした生産性運動はやがて燎原の火のごとく、管理局を越えてブロックへ更には全国的な運動へと広がっていきました。
7月29日には、田沢湖高原に盛岡、秋田。仙台の東北三局の生産性運動リーダー43名が集まり、生産性合同討議集会が開催され、「国鉄再建の原動力は東北から」というスローガンの元、2泊3日の最終日に決議文が採択され、全国集会の呼びかけの中心になることが誓われたそうです

もちろん、こうした生産性運動に対して批判的であった国労動労は批判活動を行うのですがそれが、前述の国労新聞などでの批判などでした。
さて、個々で注目すべき事は、前述の生産性合同討議集会もですが、こうした運動は全て自主参加であり、開催の費用などもカンパと参加者の手弁当で行われたことでした。
しかし、抗したことに対して危機感を持った国労動労はその後本格的な反抗を行うこととなり、潤沢な活動資金を使ってマスコミなどへの工作などを行うことになるのでした。

国鉄幹部は生産性運動には無関心

こうして、国鉄の生産性運動は現場で過熱気味と言えるほど盛り上がるなか、国鉄本社でも、昭和46年の経営計画の中に、生産性運動の理念を織り込むことが理事会で決定され、鉄道管理局長、本社局長クラスを対象にした研修が、5月24日(第1回)、6月8日(第2回)に分けて3泊4日の開催されたそうです。
現場の管理局長は極めてその関心も高く、「もっと勉強したい」、「組合と対決する」と言った声が殆どであり。現場を預かるものとして、危機感を感じていたのだと思うのですが、本社はどこ吹く風といった風情であったようです。
実際、場管理局長がほぼ全員参加したのに対して、本社局長は1名のみの参加という状況が、それを如実に物語っています。
その辺の事情を再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用させていただきます。

 四月六日に昭和四十六年度経営計画が理事会で決定されたが、その中に新しい経営理念として、次のように生産性運動の理念が盛り込まれた。
 「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」
 この頃から、国鉄の生産性教育日本生産性本部の委託教育の域を脱して、国鉄の経営と一体の教育=運動に成長しようとしていた。
 第一回本社局長および鉄道管理局長研修が五月二十四日から、同じく第二回が六月八日から三泊四日の日程で開かれた。生産性研修は管理局長に対しても、強い自己反省の機会となった。「組合側に闘争をやらないでくれと当局は頼んでいた」「組合の前に当局は妥協に妥協を重ねてきた」「私自身じくじたるものがある。もっと勉強したい」というような発言が相つぎ、「もはや組合とは対決しかない」というのが、ほとんどの局長の結論であった。
 しかし、この本社局長および鉄道管理局長研修の参加状況は、管理局長は東京南鉄道管理局長の原田種達ほか数人が欠席しただけだったが、本社局長の参加は僅か一人にすぎなかった。自主参加とはいえ、いかに本社局長クラスは無関心であったかが分かるというものだ。

ということで、本社の生産性運動に関する関心はこの程度で有ったと言うことが窺えます。
冷静なのではなく、自分たちには関係がないという事であったかと思います。
これが、昭和50年以降の国鉄再建計画(再建のための再建計画ではなく、再建計画のための再建計画、再建が上手くいかなくても再建計画と言う計画を書いたので誰も責任を問われないという、そんな事態が続くことになります。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第八話

本日も、生産性運動導入から、中止までの第八話として。お話を進めさせていただこうと思います。

参照しているのは、「国鉄を売った官僚達たち」、鉄労編纂の「国鉄民主化への道」などを参照しながら。書かせてもらっていきます。

マル生運動の成果?スト破りする国労動労組合員

生産性運動は、職員の意識改革が大きかったようで、国労動労に所属したまま、スト破り(ストライキに参加しないこと)を行う組合員もいたそうで、生産性運動を受講して、自らの意識として、国労の運動について行けないと感じる組合員が一定数いたと言うことになります。
実際、昭和46年5月20日には首都圏でストライキが行われ、旅客列車だけで2,624本の電車が運休しますが、首都圏全体では実に60%の電車が国労動労のストにも関わらず動いたと言われています。

弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように記されています。

国電スト 5/20

調停作業は徹夜で続けられ、20日早朝、峯村調停委員長によって、8%+2,300円の案が提示されたが、労働側の反対で調停は不調となり、仲裁裁定へと移行することとなった
一方、両組合は20日午前0時を期して全日ストに突入し、19時の中止命令までに、東京の国電を始め、中部、関西、東北の各地で、旅客計2,624本、貨物計1,724本、客貨合計4,348本の運休を含め、ダイヤの大騒な乱れを生じた

鉄労+マル生運動グループが運転を確保

その理由は、鉄労組合員の働きと。職制(管理者)による運転が行われたこともありますが、スト指令を受けながらもスト破り(ストライキに参加しない動労国労の組合員)があった事実も注目しておく必要がありそうです。

このように、マル生運動では不当労働行為が行われて、鉄労に加盟させることを職分としたした助役がいたとか、当局が組織ぐるみで不当労働行為をさせたと言った記事をよく見かけますが、実際はこのように違っていたと言うことにも注目していただきたいと思います。

さらに、国鉄職員が組合を変わるのは自由意志であるため、生産性運動が始まる前後くらいから自発的に、組合を変わる人が増えていったそうで、その後生産性運動により、その動きが加速したわけです。

国労が、マル生グループが(電車を)運転しているんだと指摘

実際、マル生資料集のなかでの座談会で、国労中央執行部の幹部は、下記のように回想しています。

あの時は、電車が動いたからね。だからオレは東京地本に文句を言って「おまえらストライキでも電車動かすのか」と言ったら「動かすんでなく動いているんだ」(笑声)「動いているんなら、止まるまでストライキだ」と言ったことがあるけどね。職制とマル生グループが動かしておったですからね。

ということで、鉄労とは言わず、「マル生グループ」と言う点に注目してください。
すなわち、国労動労でも、生産性教育を受けた組合員がスト破りをしたことを暗に認めていたと言えそうです。

更にこれを裏付ける話としては、東京三局の発表によると、東京北局で41%、東京西局で56%、東京南局が43%、東京三局併せて約五三〇〇〇人のうち、実に45%にあたる約25000人がストライキ反対の意思表示をしたと発表しています。

国鉄民主化への道」からその部分を引用してみたいと思います。

 当局三局の各総務部長が記者会見して「北局が18,925人中41%、西局が12,706人中56%、南局が22,140人中43%、3局合わせて53,771人のうち、45%にあたる24,292人がスト反対の意思表示をした」と発表した。このうち、鉄労組合員6,500人を除くと、国労37%、動労17%がスト反対の意思表示と言うことになる。

となっています。
少し話は前後するのですが、上述のように、国労から徐々に鉄労への移籍が進んで行くのですが、国労も組合員が減少していくことをただ指をくわえてみていただけではありませんでした。

反論に躍起となる国労執行部

昭和46年1月から機関紙の「国労新聞」には、「クタバレ生産性運動」(後に、「ウソだよ生産性運動」に改題)を連載、生産性運動自体を潰そうと考えたようです。

少しその例を挙げてみますと、下記のようなものがあったようです。

「生産性運動とは?一に洗脳。二に盲従、三,四で搾られ、五で追われ」とか

「赤く咲くのはけしの花、白く咲くのはゆりの花」と歌った漫画(宇多田ヒカルの母親、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」と言う歌をもじったというか、そのまま流用したもので、赤く咲く=労働者、白く咲く=資本階級(ここでは当局)であるとして、労働者階級はどこまでも搾取されるだけと言ういわゆる階級闘争を訴えたかったものいえます。

実際に、50代後半の方であれば、この曲を直接耳にしたことがある方も多いのではないかと思いますが、非常に暗くどちらかというと人生終わった・・・的な雰囲気を感じさせる歌でした。
まぁ、ネットで「人生オワッタ」・・・的に書くような感じではなく、本当に悲壮というか、明日すらないというイメージで歌われていたものでした。
その辺を上手く、取り込んで、国労は、資本家(当局)は、我々労働者階級はただただ搾取されるだけの存在であるという刷り込みを図っていたようです。

当局自らも賃金も運賃値上げも決定できないわけで、資本家でも何でも無いのですが、国労の執行部としては、当局は資本家の手先であるとしないと、具合が悪かったのでしょう。

実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。

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生産性運動導入から、中止まで 第七話

今回も、生産性運動に関して、今回も大野氏の本を底本として、私なりの解説などを加えさせていただこうと思います。

生産性運動は、現場の若手を中心に盛り上がりを見せ、鶯谷駅における朝ラッシュ時、鴬の声を流すのは、当時の駅員からのアイデァであるとされており、そのきっかけは、生産性運動であったことは、前回書かせていただきました。

生産性運動は、国鉄の中で浸透
そんな風に、国鉄の現場では、それこそ熱狂的とも言えそうです。

① 自主的勉強会
② 生産性掲示板や生産性大看板の掲出
③ 生産性職場報の自主発行
④ 生産性推進チームの結成
⑤ 違法ストへの不参加・反対運動など
⑥ その他具体的な実践活動

等に分類できると書かれており、実際に自主的勉強会は、いわゆる「カイゼン」活動であり、現場ならではの工夫などが披瀝されたそうです。

少しだけ引用してみたいと思います。

引用ここから

勉強会の一つである池袋電車区の模様を、昭和46年1月28日付の「交通新聞」は次のように書いている。
「仕事の終わった時間を見計らって勉強会が始まるのだが、三階の講習室に集まってくるのは油だらけのナッパ服の検修掛や制服の胸にまだ「運転士」の名札を付けたままの乗務員などだ。
討論が始まると室内はたちまち熱気をおびてくる、『パンタグラフの除雪方法』 『電車の折り返し時のドアスイッチの取扱方』 『増収対策としての車内広告』など、さすが現場だけに細かい具体的なテーマが多いが、いずれも事故防止、営業開発など債権の柱とも言うべき大きな問題ばかりである」


引用終わり

生産性運動推進グループが誕生
また、生産性運動推進グループが全国各地で誕生したそうです。
私の父親が勤務していました、天鉄局でも、多くの生産瀬運動拠点が誕生したようで、生産性ニュース8月25日号には、下記のように書かれていました。
鳳保線区に「大鳥会」が誕生、他にも「8月2日に生産性運動和歌山連絡協議会」が誕生、さらに、亀山客貨車区、熊取駅、串本、紀伊勝浦連区に生産性グループが誕生、天王寺駅では、7月31日に生産性大会を開催した・・・
他には、釧路局の上士幌保線支区に「しゃくなげ会」釧路保線区に「いちい会」が誕生、門司局の本局に「明門会」【会員1000人】が7月17日に、門司港駅に「みなと会」が誕生した。・・・というふうに全国的に多くのこうしたチームが誕生しました。

こうした生産性活動は徐々に広がりを見せ始めました、その中でももっとも頭を痛めていたのは、国労動労の違法スト及び順法闘争と言われたサポタージュに対する対策であり、また国労動労は組織として、生産性運動の批判を行ったわけですが、結果的には、生産性研修を受けた推進チームはやがて国労動労に対する抵抗勢力として、育っていくこととなり、その流れは最早、地区・管理局・地域ブロックと言った枠を越えて広まりつつありましたが、こうした推進チームの活動費は全て手弁当であり、また活動費も資金カンパによる細々としたものであり、労働組合からの潤沢な資金がある、国労動労の反撃には抵抗すべく術もありませんでした。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第六話

前回は、「管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。」
と言うことだったのですが、実際の生産性運動の実践効果はいかほどのものであったのか、再び「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきたいと思います。

生産性運動の実践効果として
① 自主勉強会
② 生産性掲示
③ 生産性職場情報の発行
④ そのほかの具体的実践活動
⑤ 生産性推進チーム(国鉄再建会)の結成
⑥ 違法スト反対・不参加行動
等に分類できます。

そして、生産性運動の中から、具体的な実践運動になった例の一つに鶯谷駅で、朝のラッシュ時にウグイスの声を流しているようですが、これも実は生産性運動の中から生まれたアイデアであったそうです。

その辺を、「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきます。

引用ここから

その各地の職場情報の中から生産性運動が具体的にどのような実践活動となって現れていったかを紹介してみましょう。
「生産性教育を受けた一職員のアイデアでした。鶯谷駅では、ラッシュに放送でがなり立てるより、いっそのこと、鶯の鳴き声の録音テープを流そうと言うことになりました」


引用ここまで

他にも、郡山ヤードの保線支区の支区長が貨車ヤードを眺めていますと、駅の人たちが草取りをしている、本来は草取りは駅職員の仕事なのですが、これを保線区で行うことで、駅職員には営業活動をしてもらってはどうかと言うことを発言したところ、職員も賛成してくれて、ヤード内の草取りは保線区が行うことになった・・・・等々、非常に良好な関係が構築されたと書いています。
このように着実にその成果を上げていく生産性運動は、昭和45年度監査報告書では下記のように高く評価されていました。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行われたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつあります。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。

また、監査報告書では、生産性運動を行っている反面で、違法ストライキなどにより、未だ争議行為が続いているとして、国鉄財政再建に労使一体となって取り組んでいるとは言えないとして、下記のように記述しています。

昭和45年度においては、 近代化、合理化の諸問題の解決が比較的順調に行われ、 実質的には、 労使の歩み寄りに前進がみられたものとしえましょう。しかしながら、 一部においては依然として争議行為等が行われ、 国民の目からは、 労使が一体となって国鉄財政再建に取り組んでいるとはいい難い現状である。



国鉄監査報告書 昭和45年

また、国鉄当局、特に本社などでも、幹部クラスは生産性運動に懐疑的というか、現状維持を図りたいグループがあったようで、秘書課長や文書課長、労働課長といった、最上席課長が、生産性運動の青年職員意見発表会に欠席するなど精彩を欠き、むしろ国鉄の最高幹部層の生産性運動に関する考え方がどのようなものであったのかを物語っていると言えそうです。
そして、こうした、守旧派的な考え方は、国鉄改革時の時にも見えるわけですが、変わることを拒むということは、時には時代に大きな過ちを犯すことになります。

次回は、幹部クラスの非協力と組合の反撃という点でお話をしたいと思います。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第五話

>国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。
しばし開けてしまいましたが、久々に投稿させていただきます。
今回も、「国鉄を売った官僚たち」大野光基氏の本を参照しながら当時の生産性運動を振り返ってみたいと思います

全国行脚を始めた、大野労働課長

生産性運動を導入した、能力開発課長の大野氏は、自らも昭和45年6月頃から中央鉄道学園で週3回程度講演していたそうで、「生産性運動を広めよう」というタイトルで繰り返していたそうです、さらに、7月からは全国に生産性運動の概念を知ってもらうために、全国行脚を始めたとそうです。
そこで、多くの現場の人に話をする訳ですが、上意下達に慣れている人が多く、生産性運動そのものを理解していない人も少なからずいたそうで、「生産性運動も、国鉄再建も自分のこととして考えてください」という話をするらしいのですが、講演会の直後に、「自分には関係ない」とか、「結局、何を講師は言いたかったのだろう」と言った「生産性運動の理念」を理解していない人が多くて困ったと回想しています。
そのような人もいる反面、わずか3時間の講演で自らに落とし込んで行動に起こす人も少なからずおり、そうした人に出会うことを期待して全国に遊説に出かけたそうです。

局長以下全員が感激した金鉄局の講演

金沢では、生産性運動に感激した職員が早速、局長に決心を述べに言ったとか、看板を掲げたという話が出てきますので、少しその部分を引用してみたいと思います。

引用ここから

『能力開発情報』第九八号は金沢管理局での後援会の模様を次のように書いている。
「大野・丸山両氏が講演したとき、500名になんなんとする聴講者の半数の両眼は光っていた。局長も男泣きしました。そして翌日、糸魚川、青海、親不知の各駅長はあまりにも嬉しくて(こんな話は就職以来初めて聞くすごい話と)局長のこところに『わしがやらにや誰がやるんだ』と決心を述べにいきました。また、糸魚川運輸長は、この講演の翌日『糸魚川運輸長室』の看板の横に同じ大きさで『生産性運動糸魚川支部』の看板を掲げました」

引用終わり

という風に、生産性運動は徐々に広がりつつあり、金沢管理局管内のように話が進みやすい職場もありました。
また、昭和45年11月14日に鉄道管理局能力開発課に配置となった青年課員の会議が本社で行われ、そこに磯崎総裁がサプライズ出演したそうで、ここにも当時の総裁の意気込みが見えそうです。
青年課員に対して、「諸君が新しい国鉄の管理組織を作るのであり、新しい労使関係の起爆剤になってくれ」と発言しています。
ということで、管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第四話

組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労動労を離れ、鉄労に移籍することとなっていくことになるのですが、この辺は、次回に書かせていただきます。

と書かせていただきましたが、その前に生産性運動に関するエピソードの中から、幾つか興味をひくものをリストアップさせていただこうと思います。
生産性運動は当初は、実効性が何処まであるのかという思いもあったようですが、その成果は燎原の火の如く広がっていったようで、中央鉄道学園や、地方の鉄道学園でも指導者自らも積極的に生産性運動に参加しており、生産性運動は、成功するかのように見えました。
以下、中央鉄道学園長や地方の鉄道学園の事例などを挙げさせていただきました。

中央鉄道学園長の場合
中央鉄道学園学園長として着任した、山岸勘六学長の場合は、自らも研修に参加し、生産性運動の先頭に立つことを自ら宣言しています。

青年対象の生産性運動に無理矢理参加した中高年の管理者の場合
福知山鉄道管理局の鉄道学園、吉岡教頭と労働課河本課長と呼ばれる二人の中高年者が、生産性本部主催の生産性青年大会に参加したというエピソードです。
 民間企業280人、国鉄からも16人の若手職員に混じって、参加していたそうで、生産性本部では、若手でないと困ると何度も断ったそうですが、自ら年休を取って現地に押しかけ、若者に混じって10日間のキャンプ生活をしたと記録されています。

さらに、これに感化されたのか、福知山鉄道学園長は下記のような行動をしたそうです、「国鉄を売った官僚たち 大野光基著」から引用してみたいと思います。

引用ここから

 又、福知山鉄道学園長もジッとしておれなくなり
「お前、私を学園長室に閉じこめて、この歴史的一ページに何の関係もなかった"額縁"長で終わらせるつもりか。私は実践教育の先頭に立ちたいんや」
とエライ気合いで、中央鉄道学園の第一回生産性指導員研修に参加したほどだった。


引用終わり

といった具合で、生産性運動の当初は、現場そして地方の鉄道学園などでは生産性運動が大きなうねりとなりつつありました。

研修を受けた職員も大いに生産性運動の理念に共感して、生産生運動の理念を多くの人に伝えようと生産性運動の話をする頼もしい職員もいたそうで、「いま俺たちがやらなければ!」ということで、演説する人等、現場の推進役になってくれる人もいる反面、当然批判する人もいるわけで、その辺の事情を、再び「国鉄を売った官僚たち 大野光基著」から引用してみたいと思います。

引用ここから

 中央や地方学園で研修を受けた人たちの多くは、職場に帰ると手当たり次第に仲間に生産性の話をする。松本車掌区車掌・H氏(本では氏名が出ているが省略)は30人の仲間を集めて
「いま俺たちがやらなければ!」
と一発ぶち上げたという。また、大阪宮原電車区では150人の全職員【民青もいた】を集めた前で、生産性指導員研修から帰ったばかりのAがぶち上げた。場内は静まりかえり、ヤジ一つなかったという。翌日の「民青新聞」に
『聴いているうちに背筋が寒くなってきた・・・・」
と書いてあったらしい


引用終わり

と言うことで、国鉄の現場では、生産性運動は浸透しつつありましたが、上意下達に慣れてしまっている国鉄の組織では、まだまだ生産性運動を学んだものとそうでないものとの間の温度差はありましたし、国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第三話

昭和44年から試験的に始められた生産性運動は、順調に進められることとなり、昭和45年だけで約二万人が研修を受けることとなりました。
その反面、国労動労も生産性運動を批判的に考えていました

生産性運動は現場では積極的に開催されることに

生産性教育講師の研修を受けた人たちは、現場に帰るやいなや、生産性教育を始めるところが有ったと書かれていますが、こうした状況に対して、国労動労はよい顔をしませんでした。

さらに、現場での研修が開始されるに伴い、管理局の部長クラス研修が強く言われるようになり、昭和45年10月17日から4泊5日の行程で第一回部長研修を生産性本部に委託して行うことになったとされています。
さらに、23動力車区の研修も現場長の研修はほぼ終わり、今度は25歳以下の職員だけを集めた研修が、行われたとされています。

管理局への生産性運動研修は浸透せず
若手の研修は、比較的上手く行ったようですが、管理局の部長研修はあまり進まず、本社幹部や管理局長クラスへの生産性運動は浸透することはありませんでした。
これは、本社の真鍋職員局長が、生産性運動自体にあまり乗り気ではなかったことが影響しています。
ただ、昭和45年の生産研修は多くの研修が行われており、約二万人が生産性教育を受けています。


国鉄監査報告書昭和45年版から引用

組合による生産性運動に関する分析

また、現場長などが地方での生産性運動に対して熱心に取り組むことに対して、組合側はあまりよい顔をしないのですが、組合側はその理由を下記のように分析しています。

高等小学校を卒業して、国鉄に入った純粋培養の現場長に、職場がなくなったらと言う恐怖心を吹き込まれ、それを救えるのはマル生運動(生産性運動)であると、洗脳教育を受けているからだと、批判していますが、若い労働者に対して、反マル生教育をするのも同じだと思うのですが、彼らの論理は下記のようなものでした。

松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車(三一書房刊)から引用したいと思います。

 国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、・・・中略・・・国鉄の職場ほど自己閉鎖的な職場は、他に類を見ないと言っても過言ではない。・・・中略・・・。
  国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。


組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労動労を離れ、鉄労に移籍することとなって行くことになるのですが、この辺は又次回に書かせていただきます。

 

 

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