日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一四話 国労のマスコミ操作と新組合の結成

国鉄の生産性運動は、現場レベルで盛り上がりを見せており、以前から国労を脱退して、鉄労にと言う流れはありましたが、【動労も同様】生産性運動以降はその流れが顕著となりつつ有りました。

今回は、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」を参考に書かせていただこうと思います。

生産性運動反対派の主流は「反戦青年同盟」

生産性運動が実施された昭和46年頃は、組合の中でも一つの世代交代の波が押し寄せた時期でした。

総評全体もそうですが、昭和21年~27年の第一次ベビーブームと呼ばれた赤ん坊が18歳から24歳くらいであり、こうした若者の中には、反戦青年委員会*1【昭和40年に総評・社会党を中心に結成されたグループ】に属する戦争を知らない世代と、戦争を経験している戦中派グループとの断絶があり、国労内でも、反戦青年委員会のグループの活動には困惑していたようです。

事情は動労も同じですが、国労反戦青年委員会を抑え込もうとしたのに対し、動労は松崎【後の動労委員長】等が、革マル派の力を後ろ盾に、反戦青年委員会を育成する方針をとっていました。

いずれにしても、青年部の勢いは強く、反戦青年委員会派が中心となって、マル生運動批判を行なっていくようになるのでした。

日本における出生率の推移

日本における出生率の推移

新聞社が行なった、ヤラセ投書

新聞の投書欄にやらせの投稿があったというお話しです。

労働評論家の有賀宗吉氏が昭和46年3月14日付の交通新聞に、「生産性運動と国鉄各組合」という記事の中で、新聞への投書で、国労組合員が上司の説得でやむなく鉄労に移籍したと投書しているが、嫌がらせで国労役員が偽名で行なったのではないかと言う内容のことが書かれていたのですが、これに対し、3月28日付の国労新聞で反論したとなっています。

実際には、国労役員による偽名で行なった疑惑があるとして鉄労は批判しているものです。

少し長いで「国鉄民主化への道」から引用させていただきます。

(前略)有賀氏は1月23日付の「朝日新聞」に掲載された、国鉄職員の当初をお読みだろうか。当局や鉄労は「あれは国労組合役員が偽名でやった」と宣伝していたが、その後の調べで実在していることを確認している。(中略)国労→脱退→鉄労のコースを歩まされ、やりきれない気持ちから偽名で投書したというのが妥当だろう(後略)。

と書いていた。

朝日新聞』の投書は、「私は最近、国労から鉄労に移籍しました」ではじまり、「職場の上司の強い説得に耐えきれず移籍」とか、「自宅に職場幹部が来て妻に立ち会わせて」とか言うのである。投書したのは、安中市、五十嵐喜久二(国鉄職員36歳)とあった。

「鉄労新聞」2月2日付けでは「高崎地本で調査したが、安中市には五十嵐喜久二なる人物は存在せず、全くの作り事であると判明した」と書いている。国鉄当局は、朝日新聞社へ行なって問い合わせたが、納得にく説明は得られなかった、という。色々の人の証言から判断すると、どうも『朝日新聞』のいわゆる"ヤラセ"だったような気がする。

ということで、朝日新聞によるねつ造と言いますか、国労からの言い分をそのまま受け入れて、投稿欄に投稿したのかも判りません。」

国労の活動部隊結成とさらなる新組合結成の動き

国労では、「マル生粉砕」の中心部隊となる「国労中央反合理化研究会」(国労反合研

)と呼ばれる組織が3月15日に結成され、鉄労への暴力行為などを行うことになるのですが、このようにして、国労による反撃の体制は整えられていくようになりました。

さらに、国労を脱退した、施設関係の組合員が3000人が全国鉄施設労働組合(全施労)を昭和46年4月27日に結成するなど、国労の中でも再び生産性運動の中で、分裂の動きが起こってくるのでした。

全施労自体は、保線などの限定されたグループであったことから、規模としては小さなものでしたが、それでも

綱領では、「政党支配を排除し、組合民主過ぎに徹して、屋外で働く労働者の提携により作業安全、労働衛生の向上に努力する」としており、保線区の職員が対象でした。

 

続く

 

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*1:社会党や総評系の青年部が中心となって結成された組織で、その後新左翼【いわゆる過激派】が参加する形で構成される

生産性運動導入から、中止まで 第一三話 盛上がる生産性運動

生産性運動は確実に国鉄の職場で定着しつつあったが

国鉄当局の生産性運動は、順調に進み、生産性運動を受けた職員が職場に帰り、自ら実践し、そして周りの人を巻き込んでいくようになったとしています。

その辺は、昭和45年度の国鉄監査報告書に下記のとおり書かれています。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行なわれたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつある。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。

昭和45年度監査報告書 から引用

として、生産性運動が国鉄としても一定の成果を上げつつあったことがうかがえます。

こうして軌道に乗ってきた生産性運動教育は一定の成果を見せ始め、「国鉄を売った官僚たち」のP178には、生産性運動の様子について下記のように書かれていますので、少し引用してみたいと思います。

また、深草勝己・監査委員は生産性運動についてこう述べている。

「学園で教育を受けた人が、また職場へ行っていろいろと働きかけておるというようなことで、私はこれは一種の国鉄の”精神革命”だと思う。機関車乗務員、操車場の人と二手に分かれて、学園で教育を受けていたが、朝の4時頃まで討論していた。この運動は非常に人間性に根ざしているということで、単に職場管理という立場ではなくて、一般常識人というか、そういう意味から私は受けたのだと思う。」

 と書いているように、生産性運動の研修に参加した、若手の職員は非常に熱心に生産性運動に真摯に取り組んでいたと言えます。

しかし、このように職場の中でその存在感を増していくと、当初は傍観していた国労動労も対策を考えていくのですが。

中々決定打と言えるものはありませんでした。

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国労動労の反転攻勢

動労は、マル生運動に対して

  1. 労働運動に支配介入するがごとき教育をやっている
  2. 使用者に都合の良い労働者づくりの洗脳教育でであり、労働者の団結権に支配介入するものである
  3. 教育は技術教育に限定すべきである

といった主張を行い、国労も、拠点職場を狙い撃ちした、思想・教育攻撃であると、抗議交渉を行うのですが、生産性教育を洗脳であるとか、技術教育以外は当局は行ってはいけないというのは、かなり無理がある話と言えるわけです。

国労は、当局のマル生教育に対する対抗手段として下記のような方針を打ち出しました。

再び「国鉄を売った官僚たち」P183から引用したいと思います。

9月13日付の国労機関誌「国鉄新聞」は、

「本質的に生産性運動とその本部の社会、世界観が特定の思想を背景としたものであることは、誰しも否定できない。これは国労動労への組織攻撃に他ならない。このような教育は"再建"に名を借りた労働組合への背信行為である、その一方で、再建を目的とした『合理化』に協力して欲しいと言われても、絶対に協力できない」として、ただちに中央段階の「合理化」交渉をストップしたと報じている

しかし、国労動労が、いくら組織に対する攻撃であるとか、思想攻撃であるとしても、裏を返せば、国労動労も、階級闘争を前面に打ち出し、当局は資本家階級であり、プロレタリアートにすれば打破すべき階級であるという教育をしているわけですから、自己矛盾と言われても仕方が無いわけで。

組合とすれば、階級闘争という根本が崩れるとして、そこは譲れないという背景があったと言えましょう。

しかし、本来の生産性運動が、成果の再配分を謳っているように、労働生産性を高めることでその利潤は労働者に配分させることを求めていくのが本来の筋だと思いますし、民間労組は80年代にはそうした方向に大きく舵を切り、特に私鉄総連などは国鉄ストライキをすることで、私鉄が儲かる、儲かった分を手当として配分することを要求する代わりにストライキを行わないとして、実質的な賃金獲得に成功しているわけですから、国鉄当局も、そして国労動労も本来気づくべき時点で気づかなかった、もしくは敢えて気づかないふりをしたのか・・・その辺は今後更に自ら研究する必要もあろうかと思いますが。多少なりとも疑問は残るところではあります。

こうして着々と進められる生産性教育に対して、なすすべもないというのがでした。

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一二話

幹部は、生産性運動に無関心

管理局の幹部も生産性運動は今ひとつ無関心でしたが、それ以上に無関心だったのは国鉄本社のキャリア組と呼ばれるグループでした。

国鉄の本社採用と言えば、いわゆる官僚コースであり、超スピード出世が約束されている存在で有り、何年間かを問題なく過ごせば栄転できるわけですから、わざわざ危ない橋を渡る必要も無いわけです。

以下は余談ですが、

郵政も同じようなもので、私も郵政局に勤務していましたので、キャリア組と呼ばれる人たちとの接触は、せいぜい部長クラスだけでしたが、ノンキャリアであれば50歳以上で到達する、部長ポスト【本省の課長クラス】に40前後で就任するわけですから。ノンキャリアで郵政局に勤務していても、次席でそろそろ現場に出ようかというときに、大局の【関西であれば大阪中央・京都中央】と言った局の局長とほぼ同格のクラスになるわけですから。如何に、出世が早いか、その反面、十分な人格形成が出来ないままにトップに上がってしまうこと、また、回りがちやほやすることで、天狗になってしまい井の中の蛙になってしまい安いという弊害もあったかと思います。

  

反発する国労とマスコミキャンペーン

生産性運動前から、鉄労への加盟者はありましたが、生産性運動の深度化で、さらに、

国労を脱退して鉄労に加入する組合員が増えていくこことになりました。

そこで、最初は国労は、本社の生産性ニュースに対抗して、生産性運動反論シリーズとして、「ウソだよ!生産性運動」というチラシを作って対抗するものとしました。

 

国労が製作した嘘だよ生産性運動のチラシ
国鉄マルセイ闘争資料集から引用

 

裏面には、生産性運動に関する批判が書かれています。

中々秀逸なものですので、さわりの部分だけご覧いただこうと思います。

第一話 夢はいつひらく

問 この頃どこの職場でも、生産性運動の花ざかりだネ。

答 ウン!すごいネ、歌の文句じゃないが、「本命・穴馬かきわけて、追いつけ、追い越せ生産性運動」だよ。

問 マルセイ運動で、職場も、くらしも、明るくなって、夢を持てると言うけど?

答 とんでもないヨ、マルセイ運動は、当局にとっては明るい希望の持てるものかもしれないが、俺たち労働者にはユメもチボーもないよ。だって、国労の体質改善だ、仕事に根性を持て、と分裂にきちがいじみているだろう。

「どう咲きゃいいのさ、このわたし」だよ。

問 いいじゃないの幸せならば、「昨日よりも明日」とよくなればマルセイ運動は、だんだん良くなっていくのがみりょくじゃないのか?」

答 そこだよ・・・

 

ということで、ここから延々と生産性運動が人間性を奪い、資本家だけが儲かるんだと言うことで、生産運動の反論を続けることになります。

国労はその潤沢な資金を使って、マスコミに対してキャンペーンを行うこととなりました。

 

私より上の年代の方なら、「本命・穴馬かきわけて、追いつけ、追い越せ」とか「どう咲きゃいいのさ、このわたし」と言うフレーズを聞いてうなずかれる方も多いかと思うのですが、当時流行った歌の文句ですよね。

本命・・・は言わずとしれた、走れコータロー【ソルティシュガー】、どう咲きゃいいのさ・・・藤圭子の、圭子の夢は夜開くですよね。

ということで、当時の流行歌などを巧みに取り入れて、読ませる工夫をしていましたし、少なくとも組合員からすればマルセイ運動は自分たちにとっては害悪なのだと思い込ませるのには十分な破壊力があったように思います。

 

 国鉄当局の生産性ニュースが手造り感満載であったのに対して、国労のチラシは中々リキの入ったものであったことは間違いなさそうです。

 

続く 

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一一話

ながらく間が空いてしまったのですが、本日も生産性運動の頃のお話を、「国鉄を売った官僚たち」、大野光基氏の本を参考に、当時の様子などを語っていこうと思います。

生産性運動は、国鉄のあり方を変える?

国鉄の生産性運動は、それこそ最初の頃は、少し首を出した亀のような感じでスタートしたわけですが、昭和46年には、国鉄の生産性運動教育は、日本生産性本部の委託教育から国鉄の経営との一体教育となりつつありました。

前述しましたが、良くも悪くも純粋な人が多い国鉄ですので、当然と言えば当然と言えましょう。

この頃の様子を、動労の松崎委員長は

 国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、・・・中略・・・国鉄の職場ほど自己閉鎖的な職場は、他に類を見ないと言っても過言ではない。・・・中略・・・。
  国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。

引用:松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車(三一書房刊)から引用

ただ、皮肉なことに、この言葉は、松崎自身が昭和57年の国鉄減量ダイヤの頃から、労使協調路線に大きく舵を切る時に、組合員に対して取った手法と同じと言えるわけで、歴史の皮肉と言えるかも知れません。

官僚的人事制度を改正すると発言するが?

 再び大野氏の、国鉄を売った官僚たちからの引用となりますが、昭和46年度経営計画が発表されました、新しい経営理念として生産性運動の理念が盛り込まれたそうですので、該当部分を引用してみたいと思います。

我々は、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある

と書かれており、国鉄本社としても生産性運動を前面に出して、国鉄再建をアピールしたかったのだと思われます。

元々、磯崎総裁は、政府の評価は高いほうではありませんでした、さらに、国鉄で育った純粋培養のキャリアゆえに、政治家には弱く、部下にはめっぽう高圧的な態度をとる傾向にあったことが、複数の資料などから読み取れます。

磯崎国鉄総裁

磯崎国鉄総裁

直接生産性運動の話とは関係ないのでこの辺でやめておきますが、こうして経営計画の中に生産性運動が理念として明記されたことから、管理局長並びに本社の局長の研修が行われることとなり、昭和46年5月24日~27日、第1回の研修が、さらに6月8日~11日に2回目の研修が行われました。

この研修では、管理局の欠席がほぼなかったの対して、本社局長の参加はわずか1人だけという寂しさであり、本社がいかに生産性運動を重要視していなかったことが伺えます。

こうした中で、大野氏は著書の中で、次のようにも述べています。

再び引用してみたいと思います。

6月24日に関東地区の主要現場長百数十人を集めて関東鉄道学園評議会が開かれた、私はそこで人事制度の大改革を、次のように訴えた。

「人事制度の抜本的な改革が必要です。問題は本社採用学士の処遇です。

僅か20歳代で管理局課長や現場長という重要なポストに発令されるという慣行があります。・・・・・中略・・・・その大半の原因は1,2年じーっとして事故を起こさなければ、トコロテン式に必ず栄進できるという人事制度に根本的な欠陥があると思います。

自らも本社採用の現職の本社課長が人事制度の改革を訴えるわけですから、どんな官僚組織もそうですが、壊そうという勢力に対しては当然のことながら強い圧力がかかるものです。

この発言の裏には、前述の磯崎総裁の就任関係が関係しているようで、磯崎総裁は就任直後から、

「有資格者(いわゆる本社採用(キャリア組))でないと、生涯勉強してもトップには上がれない官庁的人事を直していきたいと発言し、実際に昭和44年12月には、本社内に人事委員会を作っているのですが、結果的にはどうなったかというと人事制度を変更したら有能な人材が来なくなるかという理由で改革そのものを止めてしまったという。

何のことはない、結局こうした発言もいわゆるポーズでしかなかったわけです。

「人事改革するよ・・・でもだめだと言われたからごめんね、これ、みんなの意見だから」

的なイメージでしょうか。

仮に本気で変える気があるのであれば、そうした発言が出た時点で、総裁によるリーダーシップが発揮できるのですが、それをしていないわけで。

政府への人気取りでしかなかったと言えそうです。

最終的には、生産性運動の終焉に際しては、大野労働課長に責任を押し付ける形の終息を

 監査報告書では生産性運動の取り組みを大いに評価

昭和45年の監査報告書を参照しますと、生産性運動の取り組みを以下のようにおおいに評価しています。

以下に、昭和45年、国鉄監査報告書から引用させていただきます。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行なわれたこともあって、 職員の聞に国鉄の現状についての理解が深ま り、再建意欲は急速に向上しつつある。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある

国鉄監査報告書から引用

昭和45年度の生産性運動教育実績

国鉄監査報告書 昭和45年

国鉄監査報告書 昭和45年

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一〇話

引き続き、生産性運動運動時代のお話をさせていただこうと思います。
生産性運動に関しては、改めて「国鉄を売った官僚たち」、並びに「国鉄民主化への道」から見ていこうと思います。

生産性運動は、現場管理者に十分理解されていたのか?

この時期、国鉄本社としては生産性運動を国鉄の柱にしたいとして、本社各部局に生産性運動の推進を依頼していました。
ただし、鉄労が指摘するように、一部現場管理者が生産性運動を正しく理解せず、誤った生産性運動を行っているという声も有ったことも事実であったと指摘しなくてはなりません。
これが後に、国鉄当局の不当労働行為だと突っ込まれる余地を作ってしまったといえそうです。
改めて、複数の視点から調べていかないと、誤った判断をしてしまうため、十分な検証が必要です。

 

国鉄本社では、能力開発課長が中心となって、昭和46年3月から4月にかけて本社内各局を回り、生産性運動の推進を根回ししたことで、新しい経営理念の中に生産性運動の文言を入れることに成功します。
これにより、生産性運動は労使一体となって取り組むべき問題であるとして、取り組まれることが国鉄全社的に取り組むことになったと言えます。

国鉄を売った官僚たちから、その辺を引用させていただこうと思います。

「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」

引用終わり

生産性運動の提案は鉄労だった?

なお、生産性運動は国鉄本社主導というイメージが強いのですが、鉄労の運動史を参照しますと、生産性運動の考え方は元々鉄労が以前から提唱してきたものであるとしています、その反面、生産性運動が十分管理者などで理解されず、超過勤務の強制や、分担業務以外の強要といった形でねじ曲げられた運動も見受けられるとして警鐘を鳴らしています。

その辺を「鉄労友愛会議著 国鉄民主化への道」から少し長いですが、全文引用したいと思います。

鉄労は2月22日、3日の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論はほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。
鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄当局も国鉄再建ということで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性運動の理念で、すでに生産性教育をやっていると言っていた。中略、私たちは経営者が生産性教育を実施するのは当然のことだと思いますし、わが国の有識者の手によって、昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやくとりあげたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。それだけに、国鉄当局が進めている生産性教育が、効果的で正しく普及することを期待するものでありますが、現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている事実が、随所に現れつつあります。

国鉄の生産性運動は、粗製濫造?と指摘されていた事実

国鉄の生産性運動は、短期間に燎原の火のように広がっていった背景には、良くも悪くも国鉄職員の純粋性にあったと言えるのではないかと考えてしまいます。
すなわち、国鉄職員の真面目さが扇動されやすいもしくは、染まりやすいと言う性格を生んだと言えるのです。

姉妹ブログで鉄労視点の記事も書いていますが、新潟闘争の時は、組合幹部の指令一下、一斉に業務をボイコットした職員がいました。

その後、新潟闘争の行き過ぎと言う反省から、国労新潟の非現業職員を中心にした組合員が国労を脱退し、新たに国鉄新潟地方労働組合を結成しています。
この話には後日談があって、その後雪崩を打つように現業職員の間でも国労を脱退して国鉄新潟地方労働組合に加入する人が増えたそうです。

良識ある現業職員は国労を脱退して、新組合に加入

下記の記事は、国鉄部内紙の記事から引用したものですが、現業機関である新潟駅(それまでは、国労の革同派(国鉄労働組合革新同志会)*1が強かったと書かれていますが、新潟地本自体が革同の拠点職場として国労本部でも認識しており、新潟闘争は国労新潟地本と国労本部のイニシアティブ争いという視点からも見ることができると言えそうです。

結果的には、地本の暴走を止めるために、本部預かりとしたものの、国労としては大量の解雇者を出すとともに、民同右派を中心とした勢力が国労を脱退するきっかけを作った訳で、機関車労組に次ぐ分裂劇となりました。(仮に、国労全電通全国電気通信労働組合)のように分裂していなければ、その後の国鉄の姿も変わってきたであろうし、民営化関連もまた違った側面を見せていたかもしれません。

実際に、国労から第二組合(国鉄新潟地方労働組合)に駅員が加入する人が増えたという記事を、国鉄線昭和33年9月号、「新潟地区の実態を聞くと」言う座談会の記録から引用してみたいと思います。

豊島
うちの組合は革同に支配されていて、一にもこにも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年7月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常K批判的になって来たのです。げま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は30分から
6時聞にもよりました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、それが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を趨超えています。私の駅でも55%から60%近くがこの批判組合に入っています。(豊島氏は新潟駅駅長)

国鉄線昭和33年9月座談会の記事から抜粋

国鉄線昭和33年9月座談会の記事から抜粋

ここで書かれていますが、新潟地本全体で20%程度の職員が、国鉄新潟地方労働組合に加入(新潟駅では、半数以上が加入)したとされています。

今回は、生産性運動の話というよりも、鉄労の前身、国鉄新潟地方労働組合の話が中心となってしまいましたが、良くも悪くも純粋な職員が国鉄を支え、生産性運動の時にも同様に、現場を支えたのはこうした純粋な人たちであったわけです。

その反面、国鉄本社の幹部連は残念ながら理念は作ったものの、それはそれ、これはこれということで、積極的に取り組むという姿勢を示すことはありませんでした。

その辺は、改めて次回書かせていただきます。

 

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*1:共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しないグループで、極めて共産党に近いこともあり過激な運動が行われていた

生産性運動導入から、中止まで 第九話

> 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。  

現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動

当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。

そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなりました。

生産性ニュース マル生運動

生産性ニュースが昭和46年4月25日に創刊号が発行された、国鉄を売った官僚たちから引用

国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

4月25日(創刊号) 蕨駅に生産性運動推進チーム(二〇数人)が誕生した
5月10日号 仙台運転所の生産性推進グループは現在24グループ(511人)である。東京西厚木駅に「国鉄再建同志会」(69人)が4月23日に結成、その補遺か宿河原駅国分寺駅武蔵小杉駅、西国立駅立川駅、原町田駅相模原駅、東飯野駅などでも結成された
東京南局の浜川崎駅、神田駅、品川機関区、蒲田電車区などで結成。旭川局の富良野線助役18人は4月28日に「国鉄を愛する会」を結成。青函局運転部有志53人による「明るく新しい国鉄にする会」が結成された。
中略
 6月10日号 大阪局の姫路車掌区では5月1日に「生産性運動推進チーム」(170人)を結成。
水戸局施設部係長(34人)は「施設部係長会」を結成。東京西局の機関区、電車区、客車区の事務職員(101人)は「運転事務再建会」を結成。同局の四方津駅武蔵新城駅上野原駅三鷹車掌区に「国鉄再建会」誕生。東京南局の根府川駅早川駅で「国鉄再建会」を結成。関東資材部の「再建同志会」の入会者は5月12日現在、302人。東京北局の本局係長(24人)が「係長会」を結成。仙台局の会津高田駅で4月18日に家族による再建会誕生。釧路局の「あかるい国鉄つくる会」(2000人)は昭和46年度総会を開催した。
 6月25日号 静岡局本局に生産性運動チーム誕生、4人を除く全課員が参加。盛岡局の「国鉄再建運動連絡協議会」の代表8名は5月26日に磯崎総裁に誓書を手渡した。天王寺局は「一職場に最低一つの生産性グループ」をモットーに運動を推進中。旭川客貨車区は全職員が生産性教育受講を強く希望。
 7月10日号 北海道追分駅では4月10日に生産性運動追分駅推進本部が会員69人で発足した。


もう少し続くのですが、冗長になっても行けませんのでこの辺で止めておきます。

生産性運動は、管理局の垣根を越えて

生産性運動を推進していくグループのもっとも頭が痛い問題は国労動労の違法ストや順法闘争に見られるサポタージュ対策でしたが、抗して規模が大きくなってくるとやがて、十分な国労動労に対するいわゆる抵抗勢力として成長していきました。
いわゆる、前述のマル生グループの誕生でした。

こうした中で、こうした生産性運動はやがて燎原の火のごとく、管理局を越えてブロックへ更には全国的な運動へと広がっていきました。
7月29日には、田沢湖高原に盛岡、秋田。仙台の東北三局の生産性運動リーダー43名が集まり、生産性合同討議集会が開催され、「国鉄再建の原動力は東北から」というスローガンの元、2泊3日の最終日に決議文が採択され、全国集会の呼びかけの中心になることが誓われたそうです

もちろん、こうした生産性運動に対して批判的であった国労動労は批判活動を行うのですがそれが、前述の国労新聞などでの批判などでした。
さて、個々で注目すべき事は、前述の生産性合同討議集会もですが、こうした運動は全て自主参加であり、開催の費用などもカンパと参加者の手弁当で行われたことでした。
しかし、抗したことに対して危機感を持った国労動労はその後本格的な反抗を行うこととなり、潤沢な活動資金を使ってマスコミなどへの工作などを行うことになるのでした。

国鉄幹部は生産性運動には無関心

こうして、国鉄の生産性運動は現場で過熱気味と言えるほど盛り上がるなか、国鉄本社でも、昭和46年の経営計画の中に、生産性運動の理念を織り込むことが理事会で決定され、鉄道管理局長、本社局長クラスを対象にした研修が、5月24日(第1回)、6月8日(第2回)に分けて3泊4日の開催されたそうです。
現場の管理局長は極めてその関心も高く、「もっと勉強したい」、「組合と対決する」と言った声が殆どであり。現場を預かるものとして、危機感を感じていたのだと思うのですが、本社はどこ吹く風といった風情であったようです。
実際、場管理局長がほぼ全員参加したのに対して、本社局長は1名のみの参加という状況が、それを如実に物語っています。
その辺の事情を再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用させていただきます。

 四月六日に昭和四十六年度経営計画が理事会で決定されたが、その中に新しい経営理念として、次のように生産性運動の理念が盛り込まれた。
 「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」
 この頃から、国鉄の生産性教育日本生産性本部の委託教育の域を脱して、国鉄の経営と一体の教育=運動に成長しようとしていた。
 第一回本社局長および鉄道管理局長研修が五月二十四日から、同じく第二回が六月八日から三泊四日の日程で開かれた。生産性研修は管理局長に対しても、強い自己反省の機会となった。「組合側に闘争をやらないでくれと当局は頼んでいた」「組合の前に当局は妥協に妥協を重ねてきた」「私自身じくじたるものがある。もっと勉強したい」というような発言が相つぎ、「もはや組合とは対決しかない」というのが、ほとんどの局長の結論であった。
 しかし、この本社局長および鉄道管理局長研修の参加状況は、管理局長は東京南鉄道管理局長の原田種達ほか数人が欠席しただけだったが、本社局長の参加は僅か一人にすぎなかった。自主参加とはいえ、いかに本社局長クラスは無関心であったかが分かるというものだ。

ということで、本社の生産性運動に関する関心はこの程度で有ったと言うことが窺えます。
冷静なのではなく、自分たちには関係がないという事であったかと思います。
これが、昭和50年以降の国鉄再建計画(再建のための再建計画ではなく、再建計画のための再建計画、再建が上手くいかなくても再建計画と言う計画を書いたので誰も責任を問われないという、そんな事態が続くことになります。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第八話

本日も、生産性運動導入から、中止までの第八話として。お話を進めさせていただこうと思います。

参照しているのは、「国鉄を売った官僚達たち」、鉄労編纂の「国鉄民主化への道」などを参照しながら。書かせてもらっていきます。

マル生運動の成果?スト破りする国労動労組合員

生産性運動は、職員の意識改革が大きかったようで、国労動労に所属したまま、スト破り(ストライキに参加しないこと)を行う組合員もいたそうで、生産性運動を受講して、自らの意識として、国労の運動について行けないと感じる組合員が一定数いたと言うことになります。
実際、昭和46年5月20日には首都圏でストライキが行われ、旅客列車だけで2,624本の電車が運休しますが、首都圏全体では実に60%の電車が国労動労のストにも関わらず動いたと言われています。

弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように記されています。

国電スト 5/20

調停作業は徹夜で続けられ、20日早朝、峯村調停委員長によって、8%+2,300円の案が提示されたが、労働側の反対で調停は不調となり、仲裁裁定へと移行することとなった
一方、両組合は20日午前0時を期して全日ストに突入し、19時の中止命令までに、東京の国電を始め、中部、関西、東北の各地で、旅客計2,624本、貨物計1,724本、客貨合計4,348本の運休を含め、ダイヤの大騒な乱れを生じた

鉄労+マル生運動グループが運転を確保

その理由は、鉄労組合員の働きと。職制(管理者)による運転が行われたこともありますが、スト指令を受けながらもスト破り(ストライキに参加しない動労国労の組合員)があった事実も注目しておく必要がありそうです。

このように、マル生運動では不当労働行為が行われて、鉄労に加盟させることを職分としたした助役がいたとか、当局が組織ぐるみで不当労働行為をさせたと言った記事をよく見かけますが、実際はこのように違っていたと言うことにも注目していただきたいと思います。

さらに、国鉄職員が組合を変わるのは自由意志であるため、生産性運動が始まる前後くらいから自発的に、組合を変わる人が増えていったそうで、その後生産性運動により、その動きが加速したわけです。

国労が、マル生グループが(電車を)運転しているんだと指摘

実際、マル生資料集のなかでの座談会で、国労中央執行部の幹部は、下記のように回想しています。

あの時は、電車が動いたからね。だからオレは東京地本に文句を言って「おまえらストライキでも電車動かすのか」と言ったら「動かすんでなく動いているんだ」(笑声)「動いているんなら、止まるまでストライキだ」と言ったことがあるけどね。職制とマル生グループが動かしておったですからね。

ということで、鉄労とは言わず、「マル生グループ」と言う点に注目してください。
すなわち、国労動労でも、生産性教育を受けた組合員がスト破りをしたことを暗に認めていたと言えそうです。

更にこれを裏付ける話としては、東京三局の発表によると、東京北局で41%、東京西局で56%、東京南局が43%、東京三局併せて約五三〇〇〇人のうち、実に45%にあたる約25000人がストライキ反対の意思表示をしたと発表しています。

国鉄民主化への道」からその部分を引用してみたいと思います。

 当局三局の各総務部長が記者会見して「北局が18,925人中41%、西局が12,706人中56%、南局が22,140人中43%、3局合わせて53,771人のうち、45%にあたる24,292人がスト反対の意思表示をした」と発表した。このうち、鉄労組合員6,500人を除くと、国労37%、動労17%がスト反対の意思表示と言うことになる。

となっています。
少し話は前後するのですが、上述のように、国労から徐々に鉄労への移籍が進んで行くのですが、国労も組合員が減少していくことをただ指をくわえてみていただけではありませんでした。

反論に躍起となる国労執行部

昭和46年1月から機関紙の「国労新聞」には、「クタバレ生産性運動」(後に、「ウソだよ生産性運動」に改題)を連載、生産性運動自体を潰そうと考えたようです。

少しその例を挙げてみますと、下記のようなものがあったようです。

「生産性運動とは?一に洗脳。二に盲従、三,四で搾られ、五で追われ」とか

「赤く咲くのはけしの花、白く咲くのはゆりの花」と歌った漫画(宇多田ヒカルの母親、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」と言う歌をもじったというか、そのまま流用したもので、赤く咲く=労働者、白く咲く=資本階級(ここでは当局)であるとして、労働者階級はどこまでも搾取されるだけと言ういわゆる階級闘争を訴えたかったものいえます。

実際に、50代後半の方であれば、この曲を直接耳にしたことがある方も多いのではないかと思いますが、非常に暗くどちらかというと人生終わった・・・的な雰囲気を感じさせる歌でした。
まぁ、ネットで「人生オワッタ」・・・的に書くような感じではなく、本当に悲壮というか、明日すらないというイメージで歌われていたものでした。
その辺を上手く、取り込んで、国労は、資本家(当局)は、我々労働者階級はただただ搾取されるだけの存在であるという刷り込みを図っていたようです。

当局自らも賃金も運賃値上げも決定できないわけで、資本家でも何でも無いのですが、国労の執行部としては、当局は資本家の手先であるとしないと、具合が悪かったのでしょう。

実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。

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