日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一九話

今回から、大幅に時間を戻して、再び昭和46年3月まで時間を巻き戻したいと思います。

今回も、鉄労編纂、「国鉄民主化の道」を参考に、関連する資料等があれば、それも併せてアップしていきます。

生産性運動はどのような経緯で導入されたのか?

国鉄が生産性運動を導入した背景にはどのような経緯があったのでしょうか。

この点を明らかにしないと、生産性運動だけが一人歩きしてしまいます。

生産性運動に関しては、国鉄当局としては、止むにやまれず導入した経緯があると言えそうです。

生産性運動=国鉄当局の不当労働行為だった・・・終わりでは、何故そうなったのかという部分が全く見えてきません。

国鉄が生産性運動導入に踏み切った背景には、国鉄財政再建問題がありました。

さらに、磯崎氏自身が、総裁に就任するための言ってみれば実績を上げたかったという点もあったかと思われます。

これは、昭和44年に一回目の国鉄財政再建計画が策定された事が呼応していると言えます。
実際には、その後、昭和48年、更に昭和51年にも再建計画が策定されることになるのですが、いずれも取りあえず制度だけを作ると言ったいわば官僚の作文になっていました。

この辺は、葛西氏が「未完の国鉄改革」で下記のように発言しています。

そのとき先輩から「この再建計画は2年もつように作られている,二年経ったら新しい計画を作る」と聞いた。10年計画のうち、当面の1~2年は収入も経費も現状に近い形で堅めに見積もってあるので計画との乖離はすくない。もちろん、現状は赤字であるからそのままではどうしようもない。そこで、当初の1~2年は現状に近い線でスタートするが3年目くらいから設備投資によるサービスの質的・量的改善の効果が現れはじめ、収入が伸びるという筋書きにしなければならない。

未完の国鉄改革 第2章 赤字転落・借金漬け経営へ 37ページから引用

 

他にも、磯崎総裁就任前後には、支社制度の廃止と、再建計画が策定されていることにまず注目していただきたいのです。

さらに、就任後も全国行脚と称して,東京南局を皮切りに,一週間に一回の割合で現場を訪れ現場長との対話を行いましたが、これも、磯崎氏なりのアピールであったのではないかと思われる節がその後多々出てくるのですが、詳細は省略させていただきます。

磯崎氏の総裁就任は,消極的な理由から

実は、磯崎氏が、矢継ぎ早に施策を打っていった背景には、政府当局に対する磯崎氏の評判が芳しくないことも一つに挙げられるかもしれません。

特に、新聞報道されていたにも関わらず、待ったがかかって一週間ほど就任が遅れたというのは前代未聞であったと言えそうです。

その辺の事情を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

運輸相の原田は、財界人をあきらめ、第6代国鉄総裁に磯崎叡を昇格させることにし(もちろん首相の了承も得て)5月20日閣議で正式に決定する、と新聞発表した。・・・・中略・・・・ところが、20日閣議では決まらなかった。23日の閣議でも決まらなかった。・・・中略・・・本当は自民党の一部から、「磯崎は社会党と親しく、組合にも甘いと聞く。これでは国鉄の再建はおぼつかない」というクレームが付いた、と言うことらしかった。

 こうした背景があったことから、前述したように、就任直後の現場行脚や、生産性運動の導入などで、焦りと言いますか、頑張っているアピールをしたかったのではないかと考えてしまうのです。

実際、生産性運動を導入したのも、そうした批判に対するポーズとも取れますし、第一回目の再建計画策定が、総裁就任直後というのもいたずらに符合しているとも言えないでしょうか。

磯崎総裁とはどんな人?

磯崎氏は、生粋の国鉄官僚であり、強きに弱く、弱きに強い、典型的な官僚でした。

その経歴をwikipediaの記事を参照しながら列記してみたいと思います。

  •  1935年   鉄道省に入省
  • 1939年1月   大臣官房人事課配属
  • 1941年1月   広島鉄道局運輸部貨物課長、後に、興亜院事務官この時、大平正芳等若手事務官で「九賢会」を作ったことが後に政界とのパイプとして役立つこととなる
  • 1949年6月~ 下山定則総裁下で職員課長
  • 1950年     加賀山之雄総裁下では文書課長国鉄スワローズ設立の推進役となる
  •  この間   弘名鉄道管理局長
  • 1956年8月~  本社営業局長
  • 1960年1月   常務理事昇格
  • 1962年   国鉄退職
  • 1963年   国鉄復帰、副総裁として石田総裁を支える
  • 1969年5月27日、石田総裁退任に伴い、第6代国鉄総裁に就任

更に注目すべきは、十河氏とは折り合いが悪かったという点で、営業局長か常務理事まで昇進するのですが、1962年には十河総裁から解任通知を出され、その後石田禮助氏が国鉄総裁に就任すると、社会党の受けも良かったこともあり、各方面から、磯崎氏を副総裁にと言う声が多くて、1963年5月には再び副総裁として国鉄に返り咲くこととなったのでした。

ただし、社会党や組合の受けが良いということは前述の通り、総裁に相応しいのかという点で大きく問題視されたことも事実でした。

  

 という点を指摘されたことが、総裁就任直後の現場行脚であり、生産性運動の導入であり、第一回再建計画の導入などに繋がっていると思われます。

結果的に、磯崎氏としてみれば、頑張っているアピールをしたかったのでは無いかと思えるわけです。

  

国鉄生え抜きの鉄道総裁

 

総裁の全国行脚と生産性運動の本音

磯崎総裁は、就任後東京南局を皮切りに、全国の現場を訪ねたのですが、実際にはこの対話集会と言う名の現場行脚も、結果としては取りあえず実施してみました・・・的な雰囲気であったと、「民主化の道」には書かれています。

そのあたりを再び引用させていただこうと思います。

この総裁との対話集会に出席した現場長に感想を聞いたら、「膝を交えて話し合うなどという雰囲気ではなかった。何でも思うことを話せ、と言うが、局の総務部長や意地悪な課長が陪席しているのだから、本音を話したら、すぐお目玉だ。第一、最初から実情を説明したり、決意を披瀝する人が、局の指名で決まっていました」と言っていた

 と有るように、管理局でも現状は十分把握していたとしても、それを覆い隠す雰囲気が合ったこと、そしてその辺も十分総裁も承知していたと思われます。

実際、現場の職員の一部に反国鉄分子がいるが他の職員は優秀で善良だ。これら善良な職員をまとめて、反国鉄分子に対抗する力に育てるのが現場長の責任だが・・・そのためにはどうすれば良いかが問題だ」と発言しており、これが生産性運動を導入させる伏線になると思うのですが、前述したように、管理局も現場の恥を外に出さないという雰囲気が有ったわけで、どこまでも、本当の現場の実情を総裁が把握できたのかはいささか疑問に思えてしまいます。

 

f:id:whitecat_kat:20201203002144j:plain

未完の国鉄改革



続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。
 

日本国有鉄道 労働運動史(別館) - にほんブログ村

にほんブログ村 政治ブログ 社会学へ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 鉄道ブログ 国鉄へ
にほんブログ村


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
******************************************************** 

 

生産性運動導入から、中止まで 第一八話

鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。

本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。

はじめに

今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。

ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。

なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、その提言をおこなったのは、当時国鉄監査委員を務めていた、西野嘉一郎氏で有り、氏が国鉄監査委員長を務めていた石田礼助氏(十河総裁の後任総裁)に提案して、それが実現したそうですが、石田氏が退任後、磯崎総裁は支社制度を廃止してしまいます。

磯崎氏と言うよりも国鉄幹部の考え方が、中央集権的な考え方に凝り固まっていた事が原因とは思われますが、いわゆる大企業病に侵されていたと言うべきかもしれません。

当時の支社制度導入に関しては、国鉄部内誌、国有鉄道1982年4月号 「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」で、以下のように書かれていますので引用したいと思います。

国鉄再建の途は分権化よりほかないと考え石田委員長に進言した。
当時の国鉄は北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていたが、総支配人には何の権限もなくすべて中央集権であった
何十万人かの職員を有する大国鉄を1人の総裁と数人の常務理事で運営することは至難のわざである。とくにそのころの中央幹部の仕事はスト対策等労務管理に大部分の時間が費やされていたのである。
私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念することであった。

中略

君のいう支社制度の案は大変よい。早速十i河さんにいって実施しようではないか。」ということで,この制度はただちに実施されたのである。

 

f:id:whitecat_kat:20201115225410p:plain

国有鉄道昭和57年4月号からキャプチャ

支社制度の廃止がもたらす本社の問題

国鉄当局が全国的に生産性運動を広めようとしていたとき、当局では昭和32年4月に発足した、支社制度を廃止して、本社→管理局という昔ながらの中央集権制度に改めることになりました。

支社制度は、全国を9支社(発足当初は6支社)を設置、本社権限を大幅に降ろした地方分権制度にすることで意思決定の迅速化などを目指したものでした。

支社制度とはどのようなものであったのか、以下に概要を示してみたいと思います。

  • 従来の本社直轄組織でとして地方6カ所に駐在して居た、総支配人制度を廃止し、新たに地方機関として全国に6支社を設置する。
  • 地方機関である支社には、本社の権限を大幅に降ろすことになる。
  • 経営単位として支社に権限を与え、管理局毎の収入目標などをもし者において責任を持たせる
  • これにより、本社から支社に以下のように権限が降ろされることとなりました。
  1. 現場機関・職場の設廃(ただし、旅客車が利用する駅の設置は従来通り本社権限、引き続き仮乗降場は支社権限)
  2. 連絡運輸に関する事(私鉄との連絡運輸は支社長の権限とする(共同使用駅の使用料や、他社との連絡運輸による乗入れ等の承認
  3. 急行券・特別2等車、寝台券の割り当て枚数の決定
  4. 旅客運賃・料金の後払い承認を支社内相互発着の場合は支社長権限とした
  • 輸送関係では、準急・快速列車以上は本社権限は引き続き変わらないが、他支社に影響を及ぼさない普通列車及び貨物列車は支社権限とするほか。臨時列車についても準急以上の優等列車は不可だが、普通列車などは支社権限で実施できる
  • 他支社に影響を及ぼさない、準急・快速列車の指定
  • 他にも人事関係なども支社に権限が降ろされ、管内の課長以下の転勤、賞罰等の権限が支社に降ろされる

など、これでもかなり端折った内容ですが、従来のお飾り的であった、総支配人制度と異なり、支社長にかなりの権限が降ろされることになりました。

こうした権限を大きく下ろした支社制度でしたが、

昭和45年8月20日は、支社制度が廃止されてしまい、総局、輸送計画室が新設されることになります。これにより四国は総局に移行、九州・北海道支社も管理局機能を統合した総局に改組されました。

当初は、九州・四国は西部支社に、新潟は関東支社でした 支社制度発足

支社制度発足

支社制度は何故廃止されたのか?

その原因を支社幹部の人事権を本社が握っていたことが原因ではないかと指摘しています。

その辺を、「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を,本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2.3年すれば本社勤務になる、というようなことでは、支社制度のうま味ははっきできない。運輸調査局理事長の石川達二郎(元国鉄常務理事で昭和50年退職)は『運輸と経済』の58年3月号に「巨大組織の克服」という論文の中で、支社制度が廃止されたことについて、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「支社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指導し運営管理する経営管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。

ここで書かれているように、国鉄本社の権限を支社に中々下ろそうとしなかったと書かれていますが、実際に権限を下ろしたとは言え、かなり末節な部分が多く、重要な所は本社で持っていたことも事実でありましたが、その背景にはもう一つは、それだけの分権するための胆力が総裁になかったと言えそうです。

少なくとも、本来であればさらに権限を本社から移していって、本社が調整機能を持たせるだけとなっていたならば、場合によっては中国支社と四国支社の統合といった形で、比較的自由に動けたのではないかと思いますが、旧態依然とした中央集権体制に戻してしまったことは、本社内の空気は,生産性運動などの改革、興味がなかったと言えるのではないでしょうか。

その辺は、さらに磯崎氏の行動などを詳細に調べてみる必要がありそうです。

支社制度廃止と、国鉄諮問委員会らの提言

昭和45年12月21日は、国鉄諮問委員会から、「国鉄経営についての意見書」が提出され、新規採用者の抑制や地方宇ローカル線の廃止もしくは、地域への委譲が提言されていました。

以下は、弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21

国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、

  1. 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
  2. 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
  3. 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する

などとなっている

 さらに、国鉄の赤字を圧縮するために、「徹底した生産性向上に努めて昭和53年度までは新規採用を殆ど行わず、要員規模を11万人縮減して人件費を抑える」としていましたが、それでも45万人の職員は、当時の輸送量からしても過剰と言えるものであったと言えます。

しかし、合理化を進めることは、当然のことながら国労動労を強く刺激することとなり、生産性運動の反対は、反合理化闘争と絡めて大きな運動となっていくのでした。

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
******************************************************** 

 

生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

久々に更新になります。

今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。

今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

生産性運動と鉄労

鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。

昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。

その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論は、ほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。

 鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄再建と言うことで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。

当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性の理念で、既に生産性教育をやっている。と言っていた。

と有りますように、鉄労としては、昭和37年の新国労時代から生産性運動に取り組んできたと言うことを主張しています。

元々生産性運動は、昭和30年には確立した理論で有り、当時から国鉄当局も取り組もうとしましたが、導入することが出来ないまま、組合との対立が続き、国鉄を取り巻く環境は更に悪化したわけです。

その中で、当局もやっと生産性運動を取り入れたと主張しているわけです。

実際に、新国労発足当初から雇用安定協約を率先して締結するなど、国労動労が、どちらかというと、力で権利を奪い取ろうと考えていたのに対し、主張すべきところは主張するが、よりよい条件を引き出して妥結するという意識が見え隠れしています。そうした意味では、どんどん左傾化していく動労や、国労とは常に一線を画する組合でありました。(動労左傾化については、改めてどこかのタイミングで取り上げたいと思います)

当局の実施する生産性運動を遅きに失したと発言

そして、鉄労は現在当局が進めている生産性運動に対しては一定の評価をしつつ、遅きに失したとして、下記のように批判しています。

再び引用してみたいと思います。

昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやく取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。・・・中略・・・現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている

 この指摘は、非常に重要です。

当局の生産性運動自体が変節してしまっている、もしくは中間管理職と言われる人たちに正しく伝わっていないことを示しています。

実際、生産性運動も当初は、日本生産性本部に委託する形で行われていましたが、途中から国鉄当局自身で行う生産背運動も増えており、結果的に劣化コピーの生産性運動を生んでしまったように見えます。

そこで、鉄労としては、自らが正しい生産性運動の理論を身につけるべきだと主張しています。

そして、生産性運動が進められていた頃、国労動労を脱退して、鉄労に加盟する組合員が増えており、当時は8万5千人に達していました。

国労、生産性運動反対を確認

国労は、2月24日・25日に広島の尾道で中央委員会が開催されたそうですが、生産性運動に関しては当然のことながら反対という事で、生産性運動に関連して、鉄道学園での教育。昇給・昇格・昇職に差別的扱いの報告がなされ、総括として、「的の国家権力を背景とした攻撃に対して、組織の総力をあげるため、どう団結を図っていくかにある。・・・中略・・・全員が討議に参加する方法に改めたい」とし。

国労としては、マルクス階級闘争を組合員に浸透させていく事を強調していました。

なお、動労もそうですが、反戦青年委員会*1が参加して、盛んにヤジを飛ばすなど議事の進行を邪魔するのですが、国労は、反戦青年委員会を排除する方向に動いていたの対し、動労はむしろ育成に努めているところが有り、やがて鬼の動労と呼ばれる萌芽がこの頃からでていたと言えそうです。

動労も生産性運動反対を確認

動労中央委員会は、3月5日・6日、千葉県茂原市の日立労働会館で開催されました。

成田空港建設反対闘争が厳しい時期で有り、三里塚では、2月下旬から機動隊と国際空港建設反対同盟が衝突するなど緊迫した事態となりました。

動労でも生産性運動に対し質問等が投げ出されてくるのですが、ここでもこうした反対の急先鋒は、反戦青年委員会のメンバーが中心でした。

動労では、マル生運動とは言わず、生運研(生産性運動研究会?)と呼ばれており、彼らが中心になって運動が進められていました。

この頃の、動労反戦青年委員会を育成の方向を目指しており、国労とも反目することも多く、国労が彼らを押さえ込もうとしていた事と対照的な動きが見られました。

職場での報告としては、「生運研参加者を除名せよ」とか生産性運動参加者を村八分的にしていると言った報告もあったそうです。

このように動労も、国労も生マル生運動に対して批判的では有ったものの、どのように取り組んでいくかという点にあっては、未だに答えが出せない状況であったのも事実でした。

国労は、鉄労がマル生運動を利用していると批判

鉄労視点ばかりではなく、国労側の視点ということで、国鉄労働組合四〇年史から再び引用したいと思います。

国労としては、生産性運動は鉄労の育成であると位置づけ、下記のように記しています。

そして鉄労は、総裁の提起した労務管理政策が、生産性向上運動の名のもとに管理局から現場に向かって浸透しはじめたとき、「生産性運動ーーそれは鉄労の躍進につながる。組合結成以来、絶好の好機が到来した」として、積極的にその性格に追随したのであった。まず、はじめの役割分担は現場管理者の手足となって、「マル生」グループの結成とその育成に努めることであった。そのことが、国労動労の切り崩し、鉄労の組織化育大につながる。

と書かれています。

鉄労は、結成当初から提唱していた生産性運動を当局が導入したと言い、国労は、鉄労が当局と結託したとしています。

もっとも、組合に限らず組織が拡大を図るのは自明の理で有り、まして複数の組合に一人の職員が加盟できない以上、いわゆる組合員の拡大はどこかが増えれば、どこかが減少するゼロサムゲームのようなものですから、仕方が無いことでしょう。

ただ、個人的な見解を述べさせていただければ、国労動労もこの時点では、生産性運動ではなく、国労ではマルクス階級闘争を浸透させることが大事であるとして、また動労は更に左傾化して。反戦青年委員会等のメンバーが中心となった活動をしており、どこまでも対立するという視点だけで進めているのは、後付けの知恵で考えると、大事な時点で引き返すべき時に引き返せなかったのではないかと思ってしまうわけです。

実際、国鉄貨物が壊滅的に減っていくのは、この1970年頃からで有り、経済が発展しているにも関わらず、国鉄の貨物輸送だけが当初予測を覆して一人負けしていく背景には、国鉄の度重なるストライキの結果で有り、高速道などの開通も相まって、そのシェアはどんどん落としていくことになるのですが、その辺は国労動労も気づいていなかったように思われます。

f:id:whitecat_kat:20201007105726j:plain

今回参考にした、国鉄民主化の道並びに、国鉄労働組合史40年史

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
******************************************************** 

*1:ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会

生産性運動導入から、中止まで 第一六話 鉄労組合員の増加と国労

長らく間が空いてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。

今回も、鉄労友愛会議編纂の、国鉄民主化への道と、国鉄労働組合40年史を参考に書かせていただこうと思います。

最初は意識もしていなかったマル生運動

国労としても当初は、マル生運動を、得体の知れない運動ではあるが、大きな影響を及ぼさないであろうと考えていたような節があります。

実際どの程度に考えていたのかは、もう少し複数の資料を探す必要があろうかと思いますが。国鉄労働組合四〇年史を参照しますと、下記のように、マル生運動開始初期には、さほど重要視はしていなかったと書かれています。

以下、国鉄労働組合四〇年史から引用したいと思います。

「マル生」運動が、従来とはちがった得体の知れないドス黒さをもって、「国労組織の崩壊」にねらいを定め。着々と実施されていたことについて、国労は1970年の秋頃までは。それほど深刻には受け止めていなかった。もちろん、第九一回中央委員会(70.10.29~30)では、当局の「組織攻撃の多様性」にたいする「キメ細かい組織対策」の必要性、・・・中略・・・「マル生」運動にたいし、「非人道的、人権無視の行為・・・国労に対する全面的な組織破壊の挑戦」であるとの認識は、いまだ明確ではなかった。

 ところが、70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては。かなりショッキングな出来事がいくつかの地本で相次いで起こった

 国労四〇年史、P180~引用

ショッキングな出来事とは、国労組合員が集団で離反し、鉄労に加盟しているという事実でした。

実際、当時の鉄労は、10月1日現在で7万9,672人であり、当時の合い言葉は、来年までに組合員を10万人に持って行こうということで、鉄労としてはかなり意気軒昂であったのではないかとも容易に推測できます。

実際、この頃から国労の集団脱退、さらには鉄労への集団加入が全国的規模で拡大していったわけで、翌年の10月には10万人を突破することになりました。

国労のマル生運動への反撃

当事、国労は「スト権奪還」をテーマに。「権利討論集会」を全国で開催していたが、中央執行部の役員を急遽呼び戻し、マル生運動の対策を取るべき行動に移したと書かれています。

当時の生産性運動は、すでに他のところでも述べましたが、大きなうねりとなっており、国労自身が認めていますが、生半可な反対運動などでは到底対応できない状況に置かれていました。
そこで、国労としても、本腰を入れなければならないとして「総戦力の結集」すると書かれています。

その辺を再び、国鉄労働組合40年史から引用したいと思います。

ちょうどその頃、国労は全国各地において、「スト権奪還」をテーマに「権利討論集会」を開催していたが、・・・中略・・・やがて、その討議を経て、磯崎体制による組織攻撃は、「いまや理屈抜き、どんな小手先の対策をうってみても、対策にならない」、「今や組織の問題こそ真剣に、そして深刻にうけとめて、原則的な組織運動をすすめていく決意に立たなければならない・・・われわれの生命は組織である。国労組織に手を出す者には容赦なく、対決するキゼンたる根性を持つ必要がある」との意思統一がなされた

ここで強調されたのは、組合員に対して、「階級闘争」を全面的に打ち出してきたことでした。
従前から言われてきた良き伝統でもある、「国鉄一家」という流れを断ち切り、組合員として、階級を意識させることに注力したと書かれています。

個々で言う階級というのは、いわゆる資本家階級と労働者階級の戦いであるとして、当局側を資本家階級と見做して、組合員は労働者階級であり、搾取される側の人間であるという意識付けを行ったのでした。

こうした運動により、国労では階級闘争の意識を強烈に再認識させたと記述しています。その辺を再び、国鉄労働組合40年史から引用したいと思います。

そうした反省の上に立って、この討議では「総戦力の結果」が決意された(「生産性向上運動とわれわれはいかに闘うか」国労中央労働学校討議資料、71.1.7)から少し長いですが全文引用します。

この時期に、「組合内部における役員相互間の不団結」をみずからいましめ、「一人ひとりの組合員の階級意識」を啓発しながら、「総力戦」への意思統一がはかられたことは、少なくとも二つの重要な意義を持っていた。すなわち、この意思統一は、「柔軟策」で対応し、当局の攻撃をすり抜けようとする企業内組合にありがちな方法をとることなく、従業員意識(国鉄一家」意識)の払拭を呼びかけ、階級意識にたった労働組合運動の継続発展の方針を今一度再確認したものであった。したがって、それはまた、階級的な自覚の形成を基礎に、一人ひとりの仲間にたいする期待と信頼、さらにそれを結集した「組織の力量」にたいする期待と信頼を意味した。

「階級的組合運動」は国鉄再建の「障害物」であるとされ、「全面否定の攻撃」がかけられているさなか、その対象者である一人ひとりの組合員と国労組織が、何をもってすれば反撃に転じうるか、なんといってもそれは、仲間と組織にたいする熱い期待と信頼以外にはない。それを確認した右の意思統一は、その後の「マル生」闘争の"質”を基礎づけた。

国労四〇年史、P181~182 引用

国鉄労働組合四〇年史

国鉄労働組合四〇年史

鉄労の生産性運動に関する考え方は、後ほど詳述します。

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

 

生産性運動導入から、中止まで 第一五話 全施労結成

今回も、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道を参照しながら、適宜他の資料も参照しながら、お話を進めたいと思います。

国労は一貫して、マル生運動に対して対立姿勢

国労では、昭和45年4月11日から始まった生産性運動は、当初のは無視を決め込んでいた国労ですが、国労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えてきたことなどから、国労としても危機感を抱くようになり、よく昭和46年1月12日には国労本部で、不当労働行為対策会議で組織破壊攻撃(マル生攻撃)への対応策を協議したほか、2月24・25日の拡大中央委員会では、マル生攻撃と戦う職場闘争の強化を決定するなど、組織的な対抗策を考えていきます。

この背景には、国労を退職して鉄労に移籍する組合員が多かったことに対する危機感からでした。

更にもう一つ注目していただきたいのが、組合内における、極端な左傾化でした。
その要素としては、組合なのに育ちつつあった新左翼(いわゆる極左勢力)の台頭で有ったと言われています。

国労動労における、反戦青年委員会の台頭

国労動労内に、反戦青年委員会による台頭もあったかと思われます。

反戦青年委員会とは、*1日韓基本条約の批准やベトナム戦争に反対するために、日本社会党や総評系の労働組合青年部が中心となって、1965年(昭和40年)に結成された組織で、共産党は、革命的であるトロツキスト暴力集団を受け入れられないとして、これを拒否したことから、新左翼諸派に合流していったもので、特に革マル派(革命的マルクス主義)の影響を強く受けていました。

国労は、反戦青年委員会を育成させない方向でいたのに対し、動労は、むしろ育成の方針をとったことから、後に「鬼の動労」と言われるように過激な方向に走ることとなります。
動労が、国労以上に過激になっていく背景にはこうした点があったことも注目していただければと思います。

国労内で過激な活動家によるグループが誕生

話が横道にそれてしまいましたが、こうした反戦青年委員会の組合員が組合の中で育っていくとともに、昭和46年3月15日には社会主義協会系の実戦部隊が、「国労中央合理化研究会」(国労反合研)を結成します。このグループが、鉄労組合員に暴力を振るいマル生粉砕の中心勢力となるわけですが、マル生闘争資料集には、設立されたと年表には記載されていないことから、国労内部でも余り触れたくないのかもしれません。

当時の様子を、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道から引用させていただきます。

これから、約半年後に、鉄労組合員に暴力を振るい、”マル生粉砕”の中心部隊になる「国労中央反合理化研究会(国労反合研)が、三月十五日に結成された。

 国労会館の一室で、「会社は潰れても鉱山は残る」と言う発言で有名な社会主義協会系の向坂逸郎資本論研究会」が四十三年から、定期的に開かれていることは、すでに書いた。この実戦部隊が「国労反合研である」

この研究会の責任者は、新鶴見駅構内作業掛の職員であったが、実質的な責任者は、元三井三池労組書記長が行なっていました。

 

全施労(全国鉄施設労働組合)の誕生

 そのような中で、国労内から再び新しい組合が分裂しました。

それが、全国の保線区などが中心になって結成した、全施労でした。

結成は昭和46年4月27日で、大阪市淀川区にある大阪コロナホテルで、「全国鉄施設労働組合(全施労)」の結成大会が行なわれたそうです。

国労を脱退した、保線を中心とする施設関係の組合員により結成された組合で、委員長に松山保線区の渡辺博、副委員長に大鉄局施設部保線課)福間恭、大分保線区、三浦義正、書記長に尼崎保線区の草刈収を選出とされています。

「政党支配を排除し、組合主義に徹することで、屋外労働者の作業安全・労相衛生の向上に努力する」と謳い鉄労との協調を期待していたが、こうした一連の動きのなかで、名古屋を中心とする国労施設協の組合員が大量に脱退して全施労に移籍するという動きがあり、これに驚いた国労幹部が、国鉄総裁の磯崎総裁に泣きつき、磯崎総裁もこれを了承して、名鉄局長に脱退を思いとどまるように指示をしたと書かれています。

この話が本当ならば、片方でマル生運動を進めながら、組合員の移動に対して当局が介入したことになり、不当労働行為のそしりは免れないと思います。

実際には、その後組合側からの反撃でもあっさりと、その旗を降ろしてしまい、現場管理者は多くが退職や降格、亦は配置転換(所謂左遷人事)を受けており、当局側の現場管理者に対する裏切りは許されない部分があるかと思われますが。この辺は更に今後明らかにしていくこととしましょう。

この辺の事情を再び「鉄労友愛会議、国鉄民主化への道」から引用させていただきます。

 

 国労施設協議会議長の秋元貞二(施設協のボスなどと言われていた)も、国労を脱退することは確実とみたれ、秋元が脱退すれば。一万人ぐらいはついていくだろうといわれていた。

 更にびっくりする噂が流れた----。名古屋を中心にする国労施設協の組合員が大量に脱退して、全施労に移るという動きがあった。この動きに驚いた国労の酒井と富塚が、国鉄総裁の磯崎に会って談判した、磯崎総裁は国労の主張を了承、直ちに名鉄名古屋鉄道管理局)局長の篠原良男に、手を打つように命令した。そうしたら、脱退の動きがぴたりと止まったという。篠原は国鉄土木のボスである(東大土木を昭和十一年に卒業、後に施設局長、常務理事)

とかかれています。当然のことながら、マル生資料集にそうした記事は出ていません。

国労としては大量脱退を止めたいというの想いは当然のことながらあることはわかりますが、こうした圧力と言えないまでも、労働者脱退を特定組合の意向で当局が動くのは、いかがなものかという疑問は、残ってしまいます。

 

国鉄マル生闘争資料集並びに、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道

国鉄マル生闘争資料集並びに、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道 2冊の書籍を参考にしています。

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

*1:正式には「ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会」と言う名称で呼ばれている。

生産性運動導入から、中止まで 第一四話 国労のマスコミ操作と新組合の結成

国鉄の生産性運動は、現場レベルで盛り上がりを見せており、以前から国労を脱退して、鉄労にと言う流れはありましたが、【動労も同様】生産性運動以降はその流れが顕著となりつつ有りました。

今回は、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」を参考に書かせていただこうと思います。

生産性運動反対派の主流は「反戦青年同盟」

生産性運動が実施された昭和46年頃は、組合の中でも一つの世代交代の波が押し寄せた時期でした。

総評全体もそうですが、昭和21年~27年の第一次ベビーブームと呼ばれた赤ん坊が18歳から24歳くらいであり、こうした若者の中には、反戦青年委員会*1【昭和40年に総評・社会党を中心に結成されたグループ】に属する戦争を知らない世代と、戦争を経験している戦中派グループとの断絶があり、国労内でも、反戦青年委員会のグループの活動には困惑していたようです。

事情は動労も同じですが、国労反戦青年委員会を抑え込もうとしたのに対し、動労は松崎【後の動労委員長】等が、革マル派の力を後ろ盾に、反戦青年委員会を育成する方針をとっていました。

いずれにしても、青年部の勢いは強く、反戦青年委員会派が中心となって、マル生運動批判を行なっていくようになるのでした。

日本における出生率の推移

日本における出生率の推移

新聞社が行なった、ヤラセ投書

新聞の投書欄にやらせの投稿があったというお話しです。

労働評論家の有賀宗吉氏が昭和46年3月14日付の交通新聞に、「生産性運動と国鉄各組合」という記事の中で、新聞への投書で、国労組合員が上司の説得でやむなく鉄労に移籍したと投書しているが、嫌がらせで国労役員が偽名で行なったのではないかと言う内容のことが書かれていたのですが、これに対し、3月28日付の国労新聞で反論したとなっています。

実際には、国労役員による偽名で行なった疑惑があるとして鉄労は批判しているものです。

少し長いで「国鉄民主化への道」から引用させていただきます。

(前略)有賀氏は1月23日付の「朝日新聞」に掲載された、国鉄職員の当初をお読みだろうか。当局や鉄労は「あれは国労組合役員が偽名でやった」と宣伝していたが、その後の調べで実在していることを確認している。(中略)国労→脱退→鉄労のコースを歩まされ、やりきれない気持ちから偽名で投書したというのが妥当だろう(後略)。

と書いていた。

朝日新聞』の投書は、「私は最近、国労から鉄労に移籍しました」ではじまり、「職場の上司の強い説得に耐えきれず移籍」とか、「自宅に職場幹部が来て妻に立ち会わせて」とか言うのである。投書したのは、安中市、五十嵐喜久二(国鉄職員36歳)とあった。

「鉄労新聞」2月2日付けでは「高崎地本で調査したが、安中市には五十嵐喜久二なる人物は存在せず、全くの作り事であると判明した」と書いている。国鉄当局は、朝日新聞社へ行なって問い合わせたが、納得にく説明は得られなかった、という。色々の人の証言から判断すると、どうも『朝日新聞』のいわゆる"ヤラセ"だったような気がする。

ということで、朝日新聞によるねつ造と言いますか、国労からの言い分をそのまま受け入れて、投稿欄に投稿したのかも判りません。」

国労の活動部隊結成とさらなる新組合結成の動き

国労では、「マル生粉砕」の中心部隊となる「国労中央反合理化研究会」(国労反合研

)と呼ばれる組織が3月15日に結成され、鉄労への暴力行為などを行うことになるのですが、このようにして、国労による反撃の体制は整えられていくようになりました。

さらに、国労を脱退した、施設関係の組合員が3000人が全国鉄施設労働組合(全施労)を昭和46年4月27日に結成するなど、国労の中でも再び生産性運動の中で、分裂の動きが起こってくるのでした。

全施労自体は、保線などの限定されたグループであったことから、規模としては小さなものでしたが、それでも

綱領では、「政党支配を排除し、組合民主過ぎに徹して、屋外で働く労働者の提携により作業安全、労働衛生の向上に努力する」としており、保線区の職員が対象でした。

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

 

 

*1:社会党や総評系の青年部が中心となって結成された組織で、その後新左翼【いわゆる過激派】が参加する形で構成される

生産性運動導入から、中止まで 第一三話 盛上がる生産性運動

生産性運動は確実に国鉄の職場で定着しつつあったが

国鉄当局の生産性運動は、順調に進み、生産性運動を受けた職員が職場に帰り、自ら実践し、そして周りの人を巻き込んでいくようになったとしています。

その辺は、昭和45年度の国鉄監査報告書に下記のとおり書かれています。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行なわれたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつある。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。

昭和45年度監査報告書 から引用

として、生産性運動が国鉄としても一定の成果を上げつつあったことがうかがえます。

こうして軌道に乗ってきた生産性運動教育は一定の成果を見せ始め、「国鉄を売った官僚たち」のP178には、生産性運動の様子について下記のように書かれていますので、少し引用してみたいと思います。

また、深草勝己・監査委員は生産性運動についてこう述べている。

「学園で教育を受けた人が、また職場へ行っていろいろと働きかけておるというようなことで、私はこれは一種の国鉄の”精神革命”だと思う。機関車乗務員、操車場の人と二手に分かれて、学園で教育を受けていたが、朝の4時頃まで討論していた。この運動は非常に人間性に根ざしているということで、単に職場管理という立場ではなくて、一般常識人というか、そういう意味から私は受けたのだと思う。」

 と書いているように、生産性運動の研修に参加した、若手の職員は非常に熱心に生産性運動に真摯に取り組んでいたと言えます。

しかし、このように職場の中でその存在感を増していくと、当初は傍観していた国労動労も対策を考えていくのですが。

中々決定打と言えるものはありませんでした。

f:id:whitecat_kat:20150918110036p:plain

国労動労の反転攻勢

動労は、マル生運動に対して

  1. 労働運動に支配介入するがごとき教育をやっている
  2. 使用者に都合の良い労働者づくりの洗脳教育でであり、労働者の団結権に支配介入するものである
  3. 教育は技術教育に限定すべきである

といった主張を行い、国労も、拠点職場を狙い撃ちした、思想・教育攻撃であると、抗議交渉を行うのですが、生産性教育を洗脳であるとか、技術教育以外は当局は行ってはいけないというのは、かなり無理がある話と言えるわけです。

国労は、当局のマル生教育に対する対抗手段として下記のような方針を打ち出しました。

再び「国鉄を売った官僚たち」P183から引用したいと思います。

9月13日付の国労機関誌「国鉄新聞」は、

「本質的に生産性運動とその本部の社会、世界観が特定の思想を背景としたものであることは、誰しも否定できない。これは国労動労への組織攻撃に他ならない。このような教育は"再建"に名を借りた労働組合への背信行為である、その一方で、再建を目的とした『合理化』に協力して欲しいと言われても、絶対に協力できない」として、ただちに中央段階の「合理化」交渉をストップしたと報じている

しかし、国労動労が、いくら組織に対する攻撃であるとか、思想攻撃であるとしても、裏を返せば、国労動労も、階級闘争を前面に打ち出し、当局は資本家階級であり、プロレタリアートにすれば打破すべき階級であるという教育をしているわけですから、自己矛盾と言われても仕方が無いわけで。

組合とすれば、階級闘争という根本が崩れるとして、そこは譲れないという背景があったと言えましょう。

しかし、本来の生産性運動が、成果の再配分を謳っているように、労働生産性を高めることでその利潤は労働者に配分させることを求めていくのが本来の筋だと思いますし、民間労組は80年代にはそうした方向に大きく舵を切り、特に私鉄総連などは国鉄ストライキをすることで、私鉄が儲かる、儲かった分を手当として配分することを要求する代わりにストライキを行わないとして、実質的な賃金獲得に成功しているわけですから、国鉄当局も、そして国労動労も本来気づくべき時点で気づかなかった、もしくは敢えて気づかないふりをしたのか・・・その辺は今後更に自ら研究する必要もあろうかと思いますが。多少なりとも疑問は残るところではあります。

こうして着々と進められる生産性教育に対して、なすすべもないというのがでした。

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************