日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第二十六話 支社制度の廃止と国鉄

久々に更新させていただきます。

直接生産性運動とは直接関係が無いのですが、生産性運動前に廃止された支社制度についても触れておきたいと思います。

支社制度とは

支社制度とは、それまでの総支配人制度に代えて、昭和32年1月16日に発足した制度でした、それまでの総支配人制度は、北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていましたが、総支配人には何の権限もなく、いわば中央の連絡役に過ぎませんでした。

当時の国鉄は、総裁と数人の常務理事で方針が決定されるというもので、特に本社ではスト対策等の労務管理に費やす時間が多かったことから、思い切って地域ごとに権限を委譲するというものでした。

その制度は、十河総裁時代に導入されたのですが、支社制度を進言したのは石田禮助が監査委員長をしていた際に、国鉄監査委員として補佐した西野嘉一郎であったそうです。

以下は、国有鉄道 1982年4月号

「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」

には、以下のように書かれていました。引用してみたいと思います。

私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念する ことであった。

とありますように、支社長に大幅な権限を持たせるというもので、これを聞いた石田禮助監査委員長は早速、十河氏に進言、当初は総支配人室を支社に置き換える形で、六支社体制でスタートすることになりました。

支社制度【画像は九支社時代】

支社制度【画像は九支社時代】

当初は、総支配人室を支社に置き換えたもので、西部は九州と広島・山口が、関西支社は四国を包括していました、新潟支社も関東支社と一体でしたが、昭和34年にそれぞれ各支社から分離しています。

 

支社には、支社間での調整をしない列車の設定や、駅の設置・改廃など順次その権限は、支社長に降ろされることとなりました、更に昭和34年には更にいくつかの権限が支社長に委譲されることになりました。

例えば、支社を跨いで走行する特急列車などは本社の権限ですが、支社管内で完結する列車の場合は、支社長の権限で設定できるとされています。

旅客の営業関係などを参照しますと、普通急行以上は本社権限ですが、支社管内で完結する準急列車は支社長権限で設定できることとなりました。
以下にも、旅客関係で支社長に権限が降ろされた代表的なものをいくつか列挙してみたいと思います。

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権限委譲された項目、昭和34年改正

しかし、こうした権限委譲が何されたとしても、その権限委譲は一部に留まり、運賃割引などの重要事項は本社権限とされたことから、十分な権限委譲がされなかったとも言われています。

 

支社制度は、昭和45年度に廃止されてしまうことに

国鉄の支社制度は、制度自体が肥大化しているとして、昭和45年8月14日廃止されてしまうことになりますが、その理由に関しては、鉄労の国鉄民主化の道では、以下のように記述されています。

支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を、本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2・3年すれば本社勤務になる、と言うようなことでは、支社制度のうま味は発揮できない。運輸調査局理事長の石川達二郎【元国鉄常務理事で昭和50年退職】は「運輸と経済」の58年3月号の「強大組織の克服」という論文の中で、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指揮し運営する管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。

ともありますように、国鉄の本社では、肝心要の予算とか運賃割引などの多くを本社が握ることとなり、結果的に幹部人事も本社での発言となれば、どうしても支社長も本社の意向に沿わせてしまうなど、問題が多かったとされていますが、ここでもう少し踏ん張って、以下のような国鉄査問委員会での意見に関しては、支社単位の方がよりスムーズに話合いも行えたように思います。

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出

更に、昭和45(1970)年12月21日には、国鉄再建の観点から、国鉄諮問委員会は、「国鉄経営の意見書」をまとめ磯崎総裁に提出しています。

この意見書では、国鉄の財政は、昭和53(1978)年度には、償却前で3000億円を上回る赤字となることから、国鉄の近代化体制を確立して、昭和53年度までに財政の健全性を回復することが目標に掲げられていました。

概要は以下の通りです。

出典:国鉄があった時代 昭和45年後半

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21

国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、
  1. 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
  2. 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
  3. 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する
などとなっている

とあり、ここで書かれていますように、生産性を図るとともに。路線の廃止もしくは移管でスリム化を図りたいとしており。更に、徹底した生産性向上と合理化で、昭和53年度までは新規採用も殆ど行わず、要員規模を約11万人削減するというものであり、国労動労からしてみれば、合理化による人員削減は当然のことながら容認できるわけでは無く、強く反発することになるのでした。

こうした捩れが、更に生産性運動の反発へと繋がって言った訳です。

代表的な組合の視点と国鉄再建

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続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第二十五話 鉄労視点による生産性運動の意義

鉄労からみた、生産性運動とは

今回は、国鉄民主化への道から見ていこうと思います。

鉄労による生産性運動

国鉄当局が生産性運動の導入を行う前から、鉄労では独自の生産性運動を組織拡大の一環として取り組んでいたそうです。

国鉄内の地域・職域労組の連合体であった、新国労は1968年10月20日に、単一組織化されて、鉄労に改称していますが。

その2年後、昭和44(1969)年春頃から積極的に組織拡大の一環として、生産性運動に取り組むこととし、各地で「国鉄を守る会」「国鉄を再建する会」「国鉄を明るくする会」などが設置され、組織の拡大に努めていました。

その辺を国鉄民主化への道から引用したいと思います。

当局が生産性教育を開始する頃と同じ頃、鉄労も独自の生産性運動教育を開始した。

会場は伊東市の小室山の麓にある伊東ユースホステルを中心に、都内の今は無いが、飯田橋の富士紡会館等を使用、各回約50名を集めて開催された。こうして鉄労も生産性運動に積極的に取り組んだが、決してそれは当局のそれを全面的に認めてのものではなかった(後略)

当局の生産性運動は昭和44年11月24日から東京オリンピック村で開催された、日本生産性本部の研修会に国鉄の中堅機関士が国鉄として初めて参加したものでしたが、正式に国鉄が生産性本部に委託費を払って導入したのは、昭和45(1975)年度でした。

国鉄は昭和39年以来赤字決算を続け、累積欠損金も食い潰しということで、その状況は待ったなしのところに追いやられていましたが、国労は「日本の国鉄はいま、”経営の危機”であっても、国鉄そのものの危機ではない」と国労の運動方針で示したとされています。

国鉄はそのシェアを奪われつつあった

要は、親方日の丸である国鉄は潰れることはないという意味合いで有ったろうと思われます。

その背景には、三井三池闘争の時に向坂逸郎が「会社は潰れても鉱山は残る」とした発想そのものであり、石炭も過激な闘争が自らの職場を追いやったように、国鉄も自らの運動で、国鉄を追いやっていったのは間違いないでしょう。

国内旅客輸送シェア

旅客輸送シェア

国内貨物輸送シェア

貨物輸送シェア

これを見ても判るように、1960年頃と比べると旅客輸送で50%以上占めていたシェアが70年代には40%を割り込んでいます。実際、この頃には、東京対北海道は飛行機のシェアが鉄道を逆転しており、その後も国鉄の運賃値上げの繰り返しなどで、そのシェアは小さくなるばかりでした。
貨物輸送に至っては、1970年代には20%を割り込む状況になります。
国鉄としても物資別輸送の改善などを行おうとしますが、その一方で組合は独占資本に協力的な国鉄当局とか、大企業優先の格安運賃とか言って、貨物輸送をやり玉に挙げることとなります。

国労動労の問題

国労動労は依然として「独占に奉仕する国鉄貨物」という認識で、ストの時には、まず貨物列車からストップさせ手来たことが、荷主の信頼を失っていったわけで、その辺を国鉄民主化の道から再び引用しますと

国労動労は依然として「独占に奉仕する国鉄貨物」という認識で、ストの時には、まず貨物列車からストップさせた。この年の国労動労は「70年安保を目指す行動の年」と「国鉄16万5千人合理化粉砕」をメインスローガンにしていた。

引用終わり

と有るように、国鉄の運動は国鉄が危機でも国鉄は残るという誤った認識であり、この認識は国鉄改革が叫ばれ出した、昭和57年以降も顧みられることはなかったと言えそうです。

 

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第二十四話 国労による生産性運動に対する本格的反撃

動労視点から見る、生産性運動の闘い

 

国鉄の生産性運動に関しては、決定打と言えるものが見つからず、国労動労もじりじりと組合員を減らしていく、そんな状態でした。

特に動労は、一人乗務反対闘争などでも多くの解雇者を出しており、その救済資金などもあり、財政的にはかなり厳しい状態に追い込まれたとも言われています。

動労は、電気機関車ディーゼル機関車の機関助士廃止を既得権益の剥奪であるとして、強力な運動を続けていましたが、最終的にはEB装置などの導入、ATSの整備などで対応できるとし、当局に押し切られる形となり、むしろその間の処分などで、当時の組合員全員から1.25ヶ月分の臨時徴収をする必要があるほどの資金(解雇者への救済金など)が必要とされました。

その辺を、動労運動史に以下のように記述されています。
少し長いのですが、全文引用させていただきます。

動労30年史(上巻)第二節「マル生」紛争闘争の展開と勝利から引用

国鉄当局は1968年(昭和43年)から69年(昭和44年)にわたる2カ年間に、解雇102人を含んだ3万人に及ぶ大量処分を発令した。それは「機関助士廃止」という大合理化に反対した闘いに対するものであったが、これによって受けた財政上の打撃は、当時の犠救規則を適用するだけでも60億円となり、63,000人の組合員から一人当たり、給料の1.25か月分の臨時徴収を必要とするものであった。

 マル生攻撃は、この財政上の先制攻撃をかけた後に行われた。当局と鉄労は「動労は財政的にもうすぐつぶれる」と大宣伝をしながら、組合員の引き抜き攻撃をかけてきた。事実この財政上の打撃は簡単に再現できるものではなかった。解雇者への打切補償を8年間の分割払いとし、組合専従者は解雇者を充当し、・・・・中略・・・しかも全国各地では組合脱退が相次ぎ、60億円の打撃は組織の維持すらおぼやかしながら大きくのしかかってきたのであった。

と記述されているように、動労はマル生運動前の既得権を守る闘い(機関助士廃止闘争)でかなり疲弊しており、マル生反対運動は正に組織存亡をかけた闘いであったと記載されています。

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動労30年史

国鉄を守る会は鉄労が主導で自発的に誕生した組織

国鉄を守る会」「国鉄を再建する会」など鉄労を中心とするグループが自然発生的に誕生するのですが、動労はこれを当局主導で作られた官制の組織であるとして、これを厳しく非難しています。

さらに、動労は、組合員の自覚を求めるとともに、組織の引き締めを図るため、「小組班」「地域班」の整備と強化や、「独身寮」「学園」の対策強化が打ち出すとともに、毎月16日から22日を「不良職制追放と組織強化のための点検行動週間」とするとともに、毎月29日には「反合理化・不当処分撤回行動日」とすることを決定したとされています。

ここで動労もキーワードとして、「反合理化」という言葉が出てきますが、国労動労も基本的には合理化反対を運動方針に上げていました。

合理化で、仕事の量が減る→合理化による人員の削減→組合員の減少

を危惧したようです。

実際、機関士は、駅員などと異なりその養成に時間がかかることから、国労などと比べて締め付けは厳しかったのではないでしょうか。

こうした運動は、国労以上に動労が過激であり要因となったのではないかと考えてしまいます。

生産性運動に関する動労の見解は?

国労にしろ、動労にしろ生産性運動はいわゆる思想教育であり、いわゆる洗脳であるというのが基本的な考え方でした。

それ故に、昭和46年(1971年)1月25日には、山田副総裁・真鍋労務担当理事と会見して以下のような申し入れを行ったそうです。

「生産性向上運動に名を借りた団結権の侵害や組合に対する不当介入を即時中止せよ」と申し入れるとともに、全国で行われている生産性運動の実態を明らかに地本や各支部をに指示を出しています。

この辺は、鉄労から見る生産性運動とは真逆の立場になりますので、混同されないようお願いします。
国労動労も生産性運動は先述の通り、思想教育であるというのが基本的な考え方であり、鉄労が自発的に、「国鉄を守る会」「国鉄を再建する会」を結成するなど、自主的に再建を目指そうとしていったのとは、真逆の方向性と言えます。

後述しますが、生産性運動は実際には国労動労等が批判しても、脱退していく組合員が多かったわけで、この辺を動労は鉄労による引き抜き攻撃であると批判していますが、少なくとも本気で国鉄を変えていこうという動労内の、「同志会」のメンバーのような人は、生産性運動にはシンパシーを感じていたのではないでしょうか。

実際、生産性運動の本格的導入前の運転指導者研修(昭和44年11月19日から開催されたもので、この研修をベースに生産性運動が本格的に導入されることになりましたが、こうした研修を受けた人たちが、「国鉄を愛する会」メンバー等を中心として「一日会」などが発会と言うことで、鉄労に加盟しやすくなる土壌は出来ていたと思われます。

こうして、現場段階では生産性運動の理念をどのように理解するか、より素直に受け入れた人ほど、動労国労からの脱退を感じることとなり、その反面それを是としない考え方に偏っている人からすれば、こうした行動は完全に潰す(左翼的発言では、粉砕)べきであるとしています。

  

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第二十三話 国労による反マル生運動

長らく間が開いてしまいましたが、本日も生産性運動導入から中止までということでお話を進めたいと思います。

今回は、国鉄労働組合40年史を参照しながら、国労から見た生産性運動という視点から見ていきたいと思います。

国労視点で見る生産性運動は不当労働行為

国労は、左傾化した昭和30年頃から職制の分断という視点から運動を進めていたこともあり、生産性運動のように、職制と一緒になって職場を盛り上げていくと言うことは受け入れられないという雰囲気がありました。

特に生産性運動がある程度浸透してきた1970年代の秋以降は、生産性運動の研修を終えた人たちから自発的に「国鉄を守る会」、「国鉄を明るくする会」などの親睦団体が全国各地に雨後の筍のように、立ち上げられ、その加入者も増えていくのでした。

そうしたことに対して、国労では当局が、「職場管理」「労務対策」という名を借りた不当労働行為が行われたとしています。

実際には、不当なストライキや職場集会をさせないなどごく一般的なことであり、むしろ正常な労務管理だと思うのですが、それを不当だという発言には多少なりとも首をかしげざるを得ません。

また、これにより当局が直接組合を辞めさせると言うことはできませんが、鉄労が現場管理者と協調して、「守る会」などの自発的グループの国労動労組合員を鉄労に加盟させる手助けをしている・・・等々

国鉄労働組合40年史には以下のように、国鉄当局が不当労働行為を仕掛けてきたとして下記のような具体例を書いていますので、その部分を引用してみたいと思います。

天王寺鉄道管理局の「管理体制の強化につて」(これは真鍋職員局長の講義をまとめたものといわれた)は、次のような内容であった。すなわち、「マル生」運動とは、「良識ある職員を育成する運動」である。この運動を通して「職員の意識を変え、労働組合の体質改善に全力をあげる必要」がある、総裁は再建に協力しない職員と労働組合に対決する方針」であるとして、本社のバックアップがあることを明らかにした。*1従って安心して「人事権を存分に活用した管理手段」を用い、「昇給、昇格」で引き締めるなどして「惰性に流れない」、「さらに厳格な組合対策」を講じるよう呼びかけていた。

国鉄労働組合40年史 P165から引用

ただ、管理者が持っている人事権を使って、良識ある職員を育成することはむしろ企業としては当然のことだと思うのですが、その辺が階級闘争で、職制を分断していかなくてはならないという考え方の中では、良識ある職員を育成するのは困るということだったのでしょうか。

再び国鉄労働組合40年史から引用してみたいと思います。

この時期、現場向けの具体的な労務管理の指針としては、全国的に概ね次のような内容の指導が行われた。すなわち、「中間管理者(助役・指導・教導・営業・検査長など)の範囲をさらに拡大」し、特に「助役を増すことにより準管理者層を広げ」て管理体制の強化を図りたい。その管理体制ものとで現場管理の徹底をはかるためい「現場長を通じ調査・系統別部長の個別面接」を行い、「要注意者」を洗い出し。それらに対する「日常行動の監視」を実施し、他方で「良識は職員を中心にした懇談会」を開催しながら「組合の質的変化」をはかる、というものである。*2

国鉄労働組合40年史 P165から引用

 普通に考えれば、大きな問題になるとも思えず、当局としてもマル秘扱いで現場管理者に伝えられたとされていますが、運動の過程で露骨な組合誘導や、昇給・昇格を一つのきっかけとして誘導していた可能性も捨てきれず、それが組合に突っ込まれる遠因となったかもしれません。

少なくとも、磯崎氏にしてみれば財政再建は喫緊の課題であったことは間違いないのですが、いかんせん典型的な官僚型能吏ですので、どうしても政府などに意識がいっていたのではないかと推測されます。

さらに、国労の資料だけなのでなんとも言えませんが、国労の資料によれば、1971年の夏頃には、「マル生運動が何故必要なのか」と言った内容から、マル生グループの育成状況などを報告させる、方向に変わっていったと書かれています。

現場での生産性運動の重要性はどこまで理解されたのか?

たしかに、生産性運動の理念も通り一辺倒では浸透するわけもなく、何度も何度も行って初めて身につくものですので、そうした意味では、生産性運動の趣旨がマル生グループの育成などの管理体制に移行してしまったのではないかという点が気になります。

少なくとも、助役などの準管理者にしてみれば理念を問われるよりも、マル生グループを育成したとか、監視したと言った報告の方が楽ですので、逆に、監視や管理が仕事であると思ってしまう可能性はなきにしもあらずだと思うわけです。

さらに、国労としては、反合理化闘争などを行ってきているわけですから、生産性運動で生産性が上がっても、その差額は当局が吸い上げてしまうとして、生産性運動は、富の搾取だという論理展開を図って組合員を締め付けるのでした。

国鉄当局はこの点について下記のように反論しています。

国有鉄道」という冊子に「生産性運動をめぐる諸問題」という連載記事があり、その第2話で、生産性運動に関して下記のような記述があります。

再び引用してみたいと思います。

生産性運動は、労使が信頼と協力によって生産性を向上し、それをとおして福祉の向上をはかろうとする運動ですから、これに反対をすることは、イデオロギーにもとづく反対を別とすれば本当はおかしいわけで、そこには誤解があるといわざるを得ません。
*****中略*****
また第二の「労使の協力・協議」については、労使は基本的に対立するものであり、労使協議制を通じて、実質的に団体交渉を骨抜きにするものであると主張し、第三の「成果の公正配分」については、国鉄の予算制度の下では、たとえ黒字になっても勝手に賃金をふやすことができない建前になっているし、仮りにそれが可能だとしても、生産性の向上によって大きくなった、パイ、の取り分は常に使用者側の方に大きくなると主張し、三原則のいずれをとっても、国鉄にはあてはまらないものであり、そのような生産性運動は当局の不当労働行為の道具にほかならない、とまで主張しています。

昭和46年8月号 国有鉄道

昭和46年8月号 国有鉄道からキャプチャ


国有鉄道 1971年8月号生産性運動をめぐる諸問題から引用

実は、国労の見解は非常に無理があるのですが、無理を承知で運動を進めてきたのです、というのは国鉄当局は資本家階級でも何でも無いわけです。

民間企業であれば資本家がいて、労務を提供する労働者階級があるとなりますし、資本家階級は自らの利益を自ら処分することが出来ます。

翻って国鉄はどうでしょうか。

国鉄では運賃値上げも、利益の処分も国鉄総裁が行えるわけではありません。

賃上げ一つにしても、交渉権はあっても最終的にそれで妥結しない場合は仲裁裁定という公的機関の決定を持って進められるわけです。

ですから、組合も当然のことながらその辺は理解しているのですが、組合が解禁されて、そこに共産党が入り込んで、労使対決路線(いわゆる資本家階級と労働者階級の分断、ひいては暴力革命による共産党政府樹立)を持ち込んだものですから、どうしても組合としてはその方向で行かざるを得なくなったと言えそうです。

あくまでも、この辺は個人的な見解であることをお断りしておきます。

 

続く

 

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*1:(その後総裁は、国会で陳謝するとともに組合に大幅な譲歩を認めることとなり、真鍋職員局長は左遷の憂き目を追うことになるのは後述)

*2:国労的には、ここが不当労働行為に当たると判断したのかもしれませんが、監視が行き過ぎるのはどうかと思いますが、常識の範囲内は問題はないと言えないでしょうか?)

生産性運動導入から、中止まで 第二十二話 国労による反マル生運動

長らく更新でいてきていませんでしたが、改めて更新させていただきます。

昭和46年春闘に関しては、国鉄当局としては合理化の道筋を立てたいという思いから、わざとストライキに入らせようとした節もあったようで、公労協がスト回避のための調停案を出そうとしたにもかかわらず、当局は組合と交渉を続けており、公労協の合同調停委員会の委員を激怒させたと言った話も残っています。

仲裁裁定と国労

公労協が5月20日に24時間ストを計画していたのでそれを避けるべく、公労委の合同委員会【議長・峯村光郎 国鉄調停員長 金子美雄】両名は、19日夕刻から三公社五現業の賃金調停作業に入ることとなりましたが、肝心の国鉄労使が現れない。

肝心要の、国労動労によるストライキを回避させるための委員会なのに肝心の国鉄の労使が現れなかったそうです。

国鉄からは当然に電話連絡もなく、夜11時になって国鉄の常務理事、真鍋洋が委員会に現れたのでした。その背景には、国鉄としても賃金引き上げだけではなく、合理化をも認めさせたいという思いがあったわけで、「46年度以降の合理化近代化計画の見通しをつけ、要員計画をはっきりさせることが前提だとしたわけです。財政再建の見通しを立てるには勿論いろいろの施策が必要ですが、企業努力としての合理化、近代化は免責のない前提であるとしたわけです。」この言葉に集約されていると言えそうです。

以下は、国鉄部内紙 国有鉄道 1971年7月号 こだま 明るい職場で国鉄の再建をから、少し長いですが、引用させていただきます。

当局は、国労などから合理化の譲歩を引き出したかった

真鍋 物価の上昇はこの数年間4%から7%ぐらいのところですから、賃金のあがり方がはるかにそれを上回っているわけですネ。国鉄の場合も、アップ率は、昨年15.42%、今年は14.26%で消費者物価の上昇率の2倍近くも上っています。
一一国鉄の場合、年間総額どれくらいの増加になりますか...・・。
真鍋 今年のベ・ア所要額は743億円です。このほかに定期昇給があり、これをベース・アップに加えますと1人あたりの増加は月額9,780円となり、人件費のふえ方は年間1000億円という大台になります。これは運輸収入目標の1割近いものに当ります。年々10%以上の増収が続かない限り財政上の辻つまが合わないことになるわけですネ。そうして、経営費のなかに占める人件費の割合も、現在72%ですが、それが75%近くにもなります。
一一一国鉄の労使の交渉では、最初当局側から賃金引き上げの中味をいわれませんでしたネ・・
真鍋 それは昨年もそうであったわけですが、46年度の職員の賃金引き上げを検討するに当つては、組合に提案している46年度以降の合理化近代化計画の見通しをつけ、要員計画をはっきりさせることが前提だとしたわけです。財政再建の見通しを立てるには勿論いろいろの施策が必要ですが、企業努力としての合理化、近代化は免責のない前提であるとしたわけです。そうして.19日の夜、合理化、近代化のメドが立ったと判断した段階で、「賃金引上げについては、この際、他公社、現業との均衡を考えたい」という意向を表明しましたが、それから3公5現の最終調停が始まったわけです
。一一相変らず違法なス卜を組合側はやったわけですが、最後の幕引きに副総裁と国労、勤労の委員長との会談がありましたネ...一
真鍋 両組合は、いわゆるトップ会談を申し入れてきまして、そこで生産性運動をやめるべきである、不当労働行為、差別取扱をしてはならない、今回の闘争による解雇者を出さないようにしてくれといったような主張をしたわけですが、これは結局行き違い議論に終ったということです。生産性の問題にしても、解雇のことにしても、当方としては組合のいうととに従うわけにはいかない。不当労働j行為、差別取扱いは当然やるべきことではないし、やるつもりもない。そういうことで双方それぞれの立場で見解を述べたようなかたちで終ったわけですネ
一一今後仲裁裁定の取扱いはどのようになされますか...
真鍋 今年の予算には5月以降5%の給与費がもり込んであるわけです。これは323億円です。この分は運輸大臣の認可があればベース・アップに使えます。あとは予備費ですネ。昨年の例からすれば190億円程度は予備費の流用が考えられます。そうしても、差引き230. 億円はやはり足らないというととになります。さらにむつかしいととは、いままでは工事経費の中にかなり自己資金がありましたが、今年はそれが全くない。したがって、工事経費を切って給与費にもってく.るといいましても、すべて利子のついている金ですから、借金をそのままもってくることになります。これは再建途上の財政問題としては大変な問題といえましょう。この不足額をどのように措置するか、今年は、これから国鉄として関係方面と十分折衝していかなければならない問題になります。

ここで書かれているように、当局としてはなんとしても合理化への道筋を立てたかった、それ故に公労委の合同委員会をボイコットしたとも言えますし、あえてストライキに突入させて、処分をすることを狙っていたとも言えます。

さらに、注目すべきは、昭和46年の段階で人件費が全体の75%に及ぶという事実に注目しなくてはなりません。

国有鉄道 1971年7月号 真鍋職員局長 明るい職場で国鉄の再建を

国有鉄道 1971年7月号

定期昇給があり、これをベース・アップに加えますと1人あたりの増加は月額9,780円となり、人件費のふえ方は年間1000億円という大台になります。これは運輸収入目標の1割近いものに当ります。年々10%以上の増収が続かない限り財政上の辻つまが合わないことになるわけですネ。そうして、経営費のなかに占める人件費の割合も、現在72%ですが、それが75%近くにもなります。

これだけの賃金上昇が見込まれるとなれば、当然のことながら出を抑えないと破綻するのは自明の理ですから、合理化への道筋を付けさせたいという真鍋職員局長の方針は決して間違っていないのですが、生産性運動中止後に真鍋職員局長は左遷されることとなり、当局は、国労に対して大幅な譲歩をせざるを得なくなり、国鉄の財政は更に悪化していくこととなりました。(その辺は後述)

違法スト中でも電車が動く

このような状況の中、生産性運動を信じて国鉄再建のためにと言うことで、違法ストライキ期間中でも活動するグループがいました。

彼らは、鉄労組合員や、職制*1の他、マル生グループと呼ばれる、国労動労組合員であるがストに参加しない人たちでした。

こうしてストライキ時でも東京の電車は約60%の運転が確保されたと言われています。

その辺を、再び国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

右のように20日には、国労動労が19時間ストを行ったが、東京の国電の60%は運転された。管理者、鉄労組合員は言うまでもなく、国労動労の組合員の中にも、組合指令に従わず乗務する人がいた。

国労編集の「マル生資料闘争集」の中の座談会で、当時国労中執だった細井宗一は、

 あの時は、電車が動いたからね。だからオレは東京地本に文句をいって、「おまえら、ストライキでも電車動かすのか」と言ったら、「動かすんではなく動いているんだ」(笑い声)「動いているんなら、とまるまでストライキだ」と言ったことがあるけどね。職制とマル生グループで動かしておったですからね。

 

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このように、生産性運動中の国鉄では、その意識が少しずつ現場では変わりつつあったと言えそうです。

  

続く

 

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*1:現場の助役など、中間管理職

生産性運動導入から、中止まで 第二一話 国労による反マル生運動

今回も、生産性運動に関するお話を、鉄労の「国鉄民主化への道」並びに、大野光基氏の「国鉄を売った官僚たち」を参考にしながら、他の資料なども参照して、お話を進めさせていただきます。

国労は、マスコミを利用して生産性運動に対抗することに

国労は、昭和45年後半から本格的な反撃に出るのですが、こうした場合、例えば国労の資料だけを見ると国労有利な記述になり、鉄労主体で見ると鉄労有利な記述となり、当然のことながら当局側視点に立つと当局有利となるのはやむを得ないところがあるのですが、どうも時期的な部分や、細かいところで見解が異なる記述があったりして、その整合性をどのように取るべきか少し頭を悩ませています。苦笑

まぁ、そこをどのように整理していくか、もしくは追加の資料を探していくべきかと頭を悩ませています。苦笑

ただ、国労としてもマスコミを使おうとしたことはほぼ間違い無いようで、マスコミ共闘会議を紹介された後に、毎日新聞の記者、内藤国夫が、国労の幹部と会って、新聞沙汰になる記事を引き受けたとするのが、道も流れとしてはすっきりするようです。

  • マスコミ・文化労働組合共闘会議(略称・マスコミ共闘)のメンバーを紹介される。
  • 毎日新聞社の新聞記者が、国労幹部と会った
  • 国労に有利な記事を量産して、他の記者の競争心をあおり立てようとした。

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国労国鉄当局に潰されるという情報をマスコミに流す

最初の、「マスコミ・文化労働組合共闘会議(略称・マスコミ共闘)のメンバーを紹介される。」というのは、国労弁護団と恒例の忘年会席上で出た話が具体化したというもので、国鉄民主化への道で以下のように書かれています。

引用したいとおもいます。

あれはたしか1970年の年末だったと思う、恒例の国労弁護団の忘年会だった。(中略)この私の話を聞いてくださったのが弁護団の一人である小島成一先生である。先生は酒を飲まれなかったようにおもう。その先生が酒を飲みながらの私の話に頷きながら、「酒井さん、それならばいい人を紹介しよう」とのこと。主席から出た話が実を結ぶことになった。それが反マル生闘争の陰で活躍した「宣伝プロジェクト」である。小島先生から紹介されたのは宣伝を本職とするマスコミ共闘の面々であり、その中心がマスコミ共闘事務局長の隅井さんであった。

また、ここで、1億円の闘争費用を出すこととしたとも書かれているのですが、これは多分、「ここが変だよ生産性運動」等の印刷物に使った費用と思われ、記者に金が流れたというわけではなさそうです。

次の、「毎日新聞社の新聞記者が、国労幹部と会った」と有るのは、同じ年〈1970年)の年末に、中川新一国労委員長、酒井一三書記長、富塚三夫企画部長に毎日新聞記者内藤国夫が呼び出されたことが切っ掛けでした。

戦後の労働運動を牽引してきた、国労が潰されかかっていると言われ、内藤国夫が、労働記者クラブの記者諸氏の競争心をあおり立てると言う作戦を展開することにしたと記しています。

その辺を、「国鉄を売った官僚たち」から引用してみようと思います。

戦後の労働運動の牽引車的役割を果たしてきたと自負する国鉄労働組合が、いま、つぶされかかっている、というのだからコトは穏やかではなかった」

そこで、内藤は次のような作戦を立てた。

「まずは毎日新聞が独走することで、労働記者クラブの記者諸氏の競争心をあおりたて、やがて『新聞ザタ』洪水を起こそう、との作戦」(『一人ひとりがつくる労働組合を』より)

引用終わり

とあるように、国労が潰されかかっているというので、マスコミが一肌脱ごうという事になったわけで、早速色々な記事を書いて、謂わば国労に有利になるような記事を書きまくったとされています。

そのときの心持ちは、組合の機関紙に書くような気持ちで書いたと記しています。

再び、国鉄を売った官僚たちから引用させていただこうと思います。

「5月19日の夕刻、上野駅から新聞社に戻った私は、まるで労働組合の機関紙に書くような気持ちで、現場の組合員たちの訴えを記事にした・・・中略・・・一字一句、直されず、私の書いたままの記事が社会面のトップに載っている。私はそのゲラを持って国労本部へとかけつけた

毎日新聞の記者が、完全に国労の走狗となっていたと言えます。

ただし、こうした記事自体は、新聞ザタにはならなかったものの、その起爆剤となった事は間違い無く、朝日新聞がこの作戦に乗ってきたのは、朝日新聞であったそうです。

事もあろうか、ヤラセ投稿を行ったというのです。

架空の人格を作って、自宅まで来て組合を変われと強要されたという投書を「声」欄にとうこうしたわのですが、この投書は、後に、鉄労の調査で、架空の職員であることが判明したわけでした。朝日新聞は知っていながらそのまま掲載したのであろうとされています。 

毎日新聞の記事が起爆剤となって、飛び火

実際に、毎日新聞が殆ど毎日、マル生運動に関する記事を書くとなると、朝日新聞としては書かざるを得なくなるわけで、こうなってくると国労の思うつぼとと言いますか、競争で記事を書こうとするし、積極的に国労に記事を取りに行き、朝日・毎日が続くと、読売もやはり関心を持たざるを得ずという形となり、そこにサンケイが時々加わるというイメージでした。

こうなってくると、各マスコミは、国労の良いように情報をコントロールされる状態になっていったと言えそうです。

多分、この時点で国労は、生産性運動に対する勝機を得たと言えるのではないでしょうか。

毎日新聞が連日、国労に関する記事を出すものですから、朝日新聞も追随することとなるのですが、個々で朝日新聞はあるミスをしてしまいます。
それは、国労が提供した記事をよく検証しないままに、記事にしてしまった(いわゆる誤報)のでした。

新聞が国鉄の生産性運動を、組合対策、神がかり、復古調というように批判的に取り上げた記事だったのですが、中央学園歌として紹介されているのは、明らかに間違っているのに、新聞社は確認もしないでそのまま国労が提供した記事を掲載したと言うことが露見したというものでした。

その辺を『国鉄を売った官僚たち』から再び引用させていただきます。

国鉄の吹き荒れる生産性運動」「われ再建の人柱、オレがやらなきゃだれがやる」「暗夜の儀式」「復古調」「ケチケチ」「組合対策」「対立」と見出しをみただけでも、生産性運動つぶしを露骨に狙った全く意図的な記事であることが分かる。

 特集記事はなんともひどいことに、国労資料をそっくり載せておりながら、あたかも『朝日新聞』が独自に取材したかのようなかきかたをしているのだ。」

として、中央鉄道学園歌として紹介しているのは、鉄道研究社発行の国鉄職員向け雑誌『フォアマン』に掲載された、生産性運動に関する歌をそのまま中央鉄道学園の学園歌として紹介したものであった。

普通に読めば学園で、「再建」とか「生産性」と言った言葉が出てくるわけがない(元々、学園は中立的意味合いが強く、生産性運動に関しても強く難色を示していた)わけで、その原因は、国労からもらった資料の内、国労教育宣伝部発行の『生産性運動の原理と国鉄における実態ー俺がやらねば誰がやる』というパンフレットの中に、「中央鉄道学園の歌詞」として、誤って先ほどの歌が掲載されていたため、そのまま転用してしまったことが原因であったそうです。

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生産性運動導入から、中止まで 第二〇話 国労による反マル生運動

組合員の大量脱退で焦る国労本部

今回は、国労の反撃という点に絞って、何回かに分けてお話をしていこうと思います。

生産性運動は、燎原の火のごとくと表現されるほど、現場に浸透していきました。

国労は、当初は生産性運動に関しては熱心の取り組んでいませんでしたが、昭和45年11月から12月にかけて国労組合員が大量に脱退して、鉄労に鞍替えすると言う事態が発生しました。

これに関しては、国労40年史に下記のように記載されています。

少し引用してみたいと思います。

70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては、かなりショッキングな出来事が幾つかの地本で相次いでおこった。しかもそれは、全国規模で集中的に拡大する様相を呈しはじめた。国労動労)からの集団脱退、鉄労への集団加入であ連日、現場から報告されてくるその実態は、従来の組織攻撃とは、規模においても手段においてもまったく異なるものであった。

 ここにありますように、鉄労は10月1日時点で79,672人であったそうで、来年までに10万人突破が合い言葉であったことからも、その後強力なオルグが行われたことは早々に堅くなく、実際国労を脱退しないまでもマル生グループと言われた人たちにより、昭和45年5月20日の24時間ストでは、東京三鉄道管理局管内では、全列車の役60%が運転され、スト破りの国労動労)組合員もいたようで、彼等のことを、マル生グループとして半ば馬鹿にしていたようですが、こうした人たちが一斉に堰を切ったように、鉄労に移籍したものと思われます。

 

焦る国労本部は対応策を協議

大量の組合員脱退はさすがに、国労本部も驚きを隠せず、正月返上で「マル生」対策討議が行われたと言われています。

かなり過激な意見も出たようですが、組合の存在意義は組合員があってこそである以上真剣に受け止めなくてはならないとして、総力戦で戦うことが確認されたそうです。

その辺りを再び少し長いですが、引用してみたいと思います。

「今や組織の問題こそ真剣に、そして深刻にうけとめて、原則的な組織運動をすすめていく決意に立たなければならない・・・われわれの生命は組織である。国労組織に手を出す者には容赦なく、対決するキゼンたる根性を持つ必要がある」との意思統一がなされた。同時に、「交渉等において哀訴嘆願するようなことがあってはならない」こと、「役員間の不団結の間隙を縫って巧妙にクサビを打ち込んできている例が多い」こと、「中執はナメられているのではないか」等々が冷静に反省・検証された。そうした反省の上に立って、この討議では、「総力戦の結集」が決意された。(「生産性向上運動とわれわれはいかに闘うか」国労中央労働学校討議資料、71・1・7)

国労本部がここで考えた方策は、「国鉄一家」(鉄道の職場の上司を父と慕うといった考え方)からの脱却を図ることであり、職場における階級闘争を継続強化する事を確認したものでした。そして、この方策に従い71年春闘からマル生に対する反対闘争であるという認識がなされました。

そしてこれを受けて、国労では春闘での闘いは元より、1月24日付の国鉄新聞(国労機関紙)でくたばれ生産性運動の掲載が始まったそうです。

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

この根底には、「生産性運動は合理化を推進するてことしての経済運動であるが、同時に組合運動の昂揚(こうよう)を押さえる思想運動であると規定していましたが、こうした運動は早くも頓挫することとなりました。

このチラシは、週刊誌版4ページ、色刷り、漫画入りのリーフレットで15話まで続くもので、その全文は国鉄マル生闘争資料集に記載されています。

国労は、「嘘だよ生産性運動」の冊子などを作成するも

生産性運動の責任者でもあった、大野光基氏は、自身の著書

国鉄をうった官僚たち」で、くたばれ「生産性運動」の中に次のような一節がある、としていますが、マル生運動資料集には収録されていませんので、他のチラシか何かだったかもしれませんが、

「成果の公正配分で、ソ連や中国は生産手段の私的所有がないので生産の成果も、全労働者。全国民のものとなり、生産性を上げれば、成果が公正に配分される、反面資本主義では、資本家に搾取されると言う理論展開をしていました。」

(現在、ソ連は崩壊してロシアとなり、共産党一党独裁中華人民共和国共産主義で有りながら社会資本を導入することで経済発展を遂げ、日本を抜いてGNP第2位の地位に上がってきたのはご存じの通りです。

共産主義=理想の国、日本やアメリカなどは地獄の国というイデオロギーを植え付けようとした考え方は、当時の国労組合員が大量に脱退したことの危機感への裏返しで有ったと言えそうです。

そして、その決意は下記のように、正念場の闘いだと言う認識をしていました。

その辺を再び国労40年史から引用してみたいと思います。

「マル生」運動に対する基本的な取り組み方が決定されたとはいえ、「乾坤一擲の勝負をしなければならない」(春闘体制確立・当面の行動について」指令第16号71・2・2)と言う言葉に代表されるように、国労にとってはこれ以降が組織の浮沈を掛けた正念場のたたかいとなった。

こうして取り組んだのが前述の、「嘘だよ生産性運動」などの冊子で有ったわけですが、組合員一人ひとりが、階級を意識して運動に取り組む、生産性運動は資本家により搾取されるものだという意識付けを図り、分断を図ろうとしましたが結果的には上手くいかなかったのです。

社会党国労の要請を受けて動くも空振りに

昭和46年3月には、国労の要請を受けて動き出し、大野氏は「国鉄における生産性運動」を説明したそうです。

一人の社会党議員は、途中で退席したそうですが、社会党運輸部会の会長久保三郎議員は、生産性運動に賛同、3月2日の衆議院社会労働委員会社会党川俣健次郎議員は、下記のように質問しています。

国会議事録から引用したいと思います。

○川俣委員 
 そこで私は、赤字問題ということとからんで、総裁のほうで非常に苦労しておやりになっているようだが、生産性向上運動、これにからませて質問したいと思います。
 私は、生産性を上げるということは必要だと思います。しかし、当局がやっておる生産性向上運動というのは、どうやら目的じゃなくて、何かの手段というか、その辺をこれから少し質問なり論争していきたいと思います。
 それでは、生産性向上運動というのは、どこの国で生まれていつごろ日本に上陸してきたかということをどのようにつかんでおるか。それから、私たちから見ると、去年、おととしあたりから大国鉄の赤字に対して、生産性向上運動というのがおそい。企業ではもう貿易自由化というので、十何年前から、生産性向上をやらなければならぬ、それで日本の場合もいわゆる日本生産性本部というものができたようです。これに対しても質問します。
 日本生産性本部に対して、国鉄当局はどのように思っておるのか。あれを指導理念を生む一つの機関だと思っておるのか。日本生産性本部というのはどういうような組織体で、どういうような資本でつくられて、どういうような経費でやって、そうしてどういう指導をやっておるのか、こういったところもお伺いしたいと思います。

 

○磯崎説明員 生産性本部の詳細につきましては、担当常務から申し上げさせます。
 ただ、私が現在部内に生産性運動を持ち込みました、これは確かに先生のおっしゃったようにもうおそかったかもしれません。もっと早く、まだ国鉄が黒字だった時分からこういう問題にもっと真剣に取り組むべきだった、この点は私大いに反省しているところでございます。先ほど先生のおっしゃったとおり、私をごらんになっても、民間会社の社長さんとは気魄が違う、赤字に耐えているような顔じゃないとおっしゃった、まさにそのとおりかと私は存じます。その意味で、もっともっと早くからこの生産性運動を私としては真剣に始めるべきだったというふうに思います。
 私どもといたしましては、この生産性運動は一つの精神運動というふうに考えております。生産性本部の三原則その他につきましては、先生が御承知のとおりでございますが、百年たって、このいわば老体化、斜陽化した国鉄を、冒頭に申し上げましたように、二十一世紀に向かってさらに発展させ、要らないものを切って、ほんとうに国民のお役に立つものだけを残して、そうして将来の国民の福祉のお役に立ちたいというふうな姿勢にするためには、やはり部内の気持ちもここで変えなければいけない、いままでのお役所主義の、これは私以下全部でございますが、お役所主義の考え方では、もうこの競争激甚な輸送競争にはついていけないということを考えまして、ここでもって一種の精神の、何と申しますか、躍進と申しますか、改革と申しますか、そういう意味の生産性運動を、これは国鉄職員としてのかまえを私は考えました。

長くなりましたが、一部抜粋の上アップさせていただきました。

質問している、社会党川俣健次郎議員は、国労水戸分会出身の社会党議員で、社会党右派に所属する議員で、国労動労としてみれば脱退者が毎月数千人規模で起こる状況を何とかしてもらいたいとして、社会党に質問をしてもらったわけですが、むしろ生産性運動の導入が遅いのではないかと逆に質問されたとしており、国労動労の面目は丸つぶれとなってしまいました。

こうして、国労の最初の生産性運動に関する取り組みは脆くも失敗に終わったわけでした。

 

昭和46年3月2日 衆議院 社会労働委員会 第8号。磯崎総裁と、川俣健二郎議員の質問に関する議事録部分を全文抜粋しました。

jnr-era.blogspot.com

合わせてご覧ください。

関連 

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