昭和44年から試験的に始められた生産性運動は、順調に進められることとなり、昭和45年だけで約二万人が研修を受けることとなりました。
その反面、国労・動労も生産性運動を批判的に考えていました
生産性運動は現場では積極的に開催されることに
生産性教育講師の研修を受けた人たちは、現場に帰るやいなや、生産性教育を始めるところが有ったと書かれていますが、こうした状況に対して、国労・動労はよい顔をしませんでした。
さらに、現場での研修が開始されるに伴い、管理局の部長クラス研修が強く言われるようになり、昭和45年10月17日から4泊5日の行程で第一回部長研修を生産性本部に委託して行うことになったとされています。
さらに、23動力車区の研修も現場長の研修はほぼ終わり、今度は25歳以下の職員だけを集めた研修が、行われたとされています。
管理局への生産性運動研修は浸透せず
若手の研修は、比較的上手く行ったようですが、管理局の部長研修はあまり進まず、本社幹部や管理局長クラスへの生産性運動は浸透することはありませんでした。
これは、本社の真鍋職員局長が、生産性運動自体にあまり乗り気ではなかったことが影響しています。
ただ、昭和45年の生産研修は多くの研修が行われており、約二万人が生産性教育を受けています。
国鉄監査報告書昭和45年版から引用
組合による生産性運動に関する分析
また、現場長などが地方での生産性運動に対して熱心に取り組むことに対して、組合側はあまりよい顔をしないのですが、組合側はその理由を下記のように分析しています。
高等小学校を卒業して、国鉄に入った純粋培養の現場長に、職場がなくなったらと言う恐怖心を吹き込まれ、それを救えるのはマル生運動(生産性運動)であると、洗脳教育を受けているからだと、批判していますが、若い労働者に対して、反マル生教育をするのも同じだと思うのですが、彼らの論理は下記のようなものでした。
松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車(三一書房刊)から引用したいと思います。
国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、・・・中略・・・国鉄の職場ほど自己閉鎖的な職場は、他に類を見ないと言っても過言ではない。・・・中略・・・。
国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。
組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労・動労を離れ、鉄労に移籍することとなって行くことになるのですが、この辺は又次回に書かせていただきます。
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