鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。
本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。
はじめに
今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。
ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。
なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、その提言をおこなったのは、当時国鉄監査委員を務めていた、西野嘉一郎氏で有り、氏が国鉄監査委員長を務めていた石田礼助氏(十河総裁の後任総裁)に提案して、それが実現したそうですが、石田氏が退任後、磯崎総裁は支社制度を廃止してしまいます。
磯崎氏と言うよりも国鉄幹部の考え方が、中央集権的な考え方に凝り固まっていた事が原因とは思われますが、いわゆる大企業病に侵されていたと言うべきかもしれません。
当時の支社制度導入に関しては、国鉄部内誌、国有鉄道1982年4月号 「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」で、以下のように書かれていますので引用したいと思います。
国鉄再建の途は分権化よりほかないと考え石田委員長に進言した。
当時の国鉄は北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていたが、総支配人には何の権限もなくすべて中央集権であった。
何十万人かの職員を有する大国鉄を1人の総裁と数人の常務理事で運営することは至難のわざである。とくにそのころの中央幹部の仕事はスト対策等労務管理に大部分の時間が費やされていたのである。
私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念することであった。中略
君のいう支社制度の案は大変よい。早速十i河さんにいって実施しようではないか。」ということで,この制度はただちに実施されたのである。
支社制度の廃止がもたらす本社の問題
国鉄当局が全国的に生産性運動を広めようとしていたとき、当局では昭和32年4月に発足した、支社制度を廃止して、本社→管理局という昔ながらの中央集権制度に改めることになりました。
支社制度は、全国を9支社(発足当初は6支社)を設置、本社権限を大幅に降ろした地方分権制度にすることで意思決定の迅速化などを目指したものでした。
支社制度とはどのようなものであったのか、以下に概要を示してみたいと思います。
- 従来の本社直轄組織でとして地方6カ所に駐在して居た、総支配人制度を廃止し、新たに地方機関として全国に6支社を設置する。
- 地方機関である支社には、本社の権限を大幅に降ろすことになる。
- 経営単位として支社に権限を与え、管理局毎の収入目標などをもし者において責任を持たせる
- これにより、本社から支社に以下のように権限が降ろされることとなりました。
- 現場機関・職場の設廃(ただし、旅客車が利用する駅の設置は従来通り本社権限、引き続き仮乗降場は支社権限)
- 連絡運輸に関する事(私鉄との連絡運輸は支社長の権限とする(共同使用駅の使用料や、他社との連絡運輸による乗入れ等の承認
- 急行券・特別2等車、寝台券の割り当て枚数の決定
- 旅客運賃・料金の後払い承認を支社内相互発着の場合は支社長権限とした
- 輸送関係では、準急・快速列車以上は本社権限は引き続き変わらないが、他支社に影響を及ぼさない普通列車及び貨物列車は支社権限とするほか。臨時列車についても準急以上の優等列車は不可だが、普通列車などは支社権限で実施できる
- 他支社に影響を及ぼさない、準急・快速列車の指定
- 他にも人事関係なども支社に権限が降ろされ、管内の課長以下の転勤、賞罰等の権限が支社に降ろされる
など、これでもかなり端折った内容ですが、従来のお飾り的であった、総支配人制度と異なり、支社長にかなりの権限が降ろされることになりました。
こうした権限を大きく下ろした支社制度でしたが、
昭和45年8月20日は、支社制度が廃止されてしまい、総局、輸送計画室が新設されることになります。これにより四国は総局に移行、九州・北海道支社も管理局機能を統合した総局に改組されました。
支社制度は何故廃止されたのか?
その原因を支社幹部の人事権を本社が握っていたことが原因ではないかと指摘しています。
支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を,本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2.3年すれば本社勤務になる、というようなことでは、支社制度のうま味ははっきできない。運輸調査局理事長の石川達二郎(元国鉄常務理事で昭和50年退職)は『運輸と経済』の58年3月号に「巨大組織の克服」という論文の中で、支社制度が廃止されたことについて、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「支社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指導し運営管理する経営管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。
ここで書かれているように、国鉄本社の権限を支社に中々下ろそうとしなかったと書かれていますが、実際に権限を下ろしたとは言え、かなり末節な部分が多く、重要な所は本社で持っていたことも事実でありましたが、その背景にはもう一つは、それだけの分権するための胆力が総裁になかったと言えそうです。
少なくとも、本来であればさらに権限を本社から移していって、本社が調整機能を持たせるだけとなっていたならば、場合によっては中国支社と四国支社の統合といった形で、比較的自由に動けたのではないかと思いますが、旧態依然とした中央集権体制に戻してしまったことは、本社内の空気は,生産性運動などの改革、興味がなかったと言えるのではないでしょうか。
その辺は、さらに磯崎氏の行動などを詳細に調べてみる必要がありそうです。
支社制度廃止と、国鉄諮問委員会らの提言
昭和45年12月21日は、国鉄諮問委員会から、「国鉄経営についての意見書」が提出され、新規採用者の抑制や地方宇ローカル線の廃止もしくは、地域への委譲が提言されていました。
以下は、弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。
国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21
国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、
- 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
- 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
- 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する
などとなっている
さらに、国鉄の赤字を圧縮するために、「徹底した生産性向上に努めて昭和53年度までは新規採用を殆ど行わず、要員規模を11万人縮減して人件費を抑える」としていましたが、それでも45万人の職員は、当時の輸送量からしても過剰と言えるものであったと言えます。
しかし、合理化を進めることは、当然のことながら国労・動労を強く刺激することとなり、生産性運動の反対は、反合理化闘争と絡めて大きな運動となっていくのでした。
続く
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