日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一九話

今回から、大幅に時間を戻して、再び昭和46年3月まで時間を巻き戻したいと思います。

今回も、鉄労編纂、「国鉄民主化の道」を参考に、関連する資料等があれば、それも併せてアップしていきます。

生産性運動はどのような経緯で導入されたのか?

国鉄が生産性運動を導入した背景にはどのような経緯があったのでしょうか。

この点を明らかにしないと、生産性運動だけが一人歩きしてしまいます。

生産性運動に関しては、国鉄当局としては、止むにやまれず導入した経緯があると言えそうです。

生産性運動=国鉄当局の不当労働行為だった・・・終わりでは、何故そうなったのかという部分が全く見えてきません。

国鉄が生産性運動導入に踏み切った背景には、国鉄財政再建問題がありました。

さらに、磯崎氏自身が、総裁に就任するための言ってみれば実績を上げたかったという点もあったかと思われます。

これは、昭和44年に一回目の国鉄財政再建計画が策定された事が呼応していると言えます。
実際には、その後、昭和48年、更に昭和51年にも再建計画が策定されることになるのですが、いずれも取りあえず制度だけを作ると言ったいわば官僚の作文になっていました。

この辺は、葛西氏が「未完の国鉄改革」で下記のように発言しています。

そのとき先輩から「この再建計画は2年もつように作られている,二年経ったら新しい計画を作る」と聞いた。10年計画のうち、当面の1~2年は収入も経費も現状に近い形で堅めに見積もってあるので計画との乖離はすくない。もちろん、現状は赤字であるからそのままではどうしようもない。そこで、当初の1~2年は現状に近い線でスタートするが3年目くらいから設備投資によるサービスの質的・量的改善の効果が現れはじめ、収入が伸びるという筋書きにしなければならない。

未完の国鉄改革 第2章 赤字転落・借金漬け経営へ 37ページから引用

 

他にも、磯崎総裁就任前後には、支社制度の廃止と、再建計画が策定されていることにまず注目していただきたいのです。

さらに、就任後も全国行脚と称して,東京南局を皮切りに,一週間に一回の割合で現場を訪れ現場長との対話を行いましたが、これも、磯崎氏なりのアピールであったのではないかと思われる節がその後多々出てくるのですが、詳細は省略させていただきます。

磯崎氏の総裁就任は,消極的な理由から

実は、磯崎氏が、矢継ぎ早に施策を打っていった背景には、政府当局に対する磯崎氏の評判が芳しくないことも一つに挙げられるかもしれません。

特に、新聞報道されていたにも関わらず、待ったがかかって一週間ほど就任が遅れたというのは前代未聞であったと言えそうです。

その辺の事情を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

運輸相の原田は、財界人をあきらめ、第6代国鉄総裁に磯崎叡を昇格させることにし(もちろん首相の了承も得て)5月20日閣議で正式に決定する、と新聞発表した。・・・・中略・・・・ところが、20日閣議では決まらなかった。23日の閣議でも決まらなかった。・・・中略・・・本当は自民党の一部から、「磯崎は社会党と親しく、組合にも甘いと聞く。これでは国鉄の再建はおぼつかない」というクレームが付いた、と言うことらしかった。

 こうした背景があったことから、前述したように、就任直後の現場行脚や、生産性運動の導入などで、焦りと言いますか、頑張っているアピールをしたかったのではないかと考えてしまうのです。

実際、生産性運動を導入したのも、そうした批判に対するポーズとも取れますし、第一回目の再建計画策定が、総裁就任直後というのもいたずらに符合しているとも言えないでしょうか。

磯崎総裁とはどんな人?

磯崎氏は、生粋の国鉄官僚であり、強きに弱く、弱きに強い、典型的な官僚でした。

その経歴をwikipediaの記事を参照しながら列記してみたいと思います。

  •  1935年   鉄道省に入省
  • 1939年1月   大臣官房人事課配属
  • 1941年1月   広島鉄道局運輸部貨物課長、後に、興亜院事務官この時、大平正芳等若手事務官で「九賢会」を作ったことが後に政界とのパイプとして役立つこととなる
  • 1949年6月~ 下山定則総裁下で職員課長
  • 1950年     加賀山之雄総裁下では文書課長国鉄スワローズ設立の推進役となる
  •  この間   弘名鉄道管理局長
  • 1956年8月~  本社営業局長
  • 1960年1月   常務理事昇格
  • 1962年   国鉄退職
  • 1963年   国鉄復帰、副総裁として石田総裁を支える
  • 1969年5月27日、石田総裁退任に伴い、第6代国鉄総裁に就任

更に注目すべきは、十河氏とは折り合いが悪かったという点で、営業局長か常務理事まで昇進するのですが、1962年には十河総裁から解任通知を出され、その後石田禮助氏が国鉄総裁に就任すると、社会党の受けも良かったこともあり、各方面から、磯崎氏を副総裁にと言う声が多くて、1963年5月には再び副総裁として国鉄に返り咲くこととなったのでした。

ただし、社会党や組合の受けが良いということは前述の通り、総裁に相応しいのかという点で大きく問題視されたことも事実でした。

  

 という点を指摘されたことが、総裁就任直後の現場行脚であり、生産性運動の導入であり、第一回再建計画の導入などに繋がっていると思われます。

結果的に、磯崎氏としてみれば、頑張っているアピールをしたかったのでは無いかと思えるわけです。

  

国鉄生え抜きの鉄道総裁

 

総裁の全国行脚と生産性運動の本音

磯崎総裁は、就任後東京南局を皮切りに、全国の現場を訪ねたのですが、実際にはこの対話集会と言う名の現場行脚も、結果としては取りあえず実施してみました・・・的な雰囲気であったと、「民主化の道」には書かれています。

そのあたりを再び引用させていただこうと思います。

この総裁との対話集会に出席した現場長に感想を聞いたら、「膝を交えて話し合うなどという雰囲気ではなかった。何でも思うことを話せ、と言うが、局の総務部長や意地悪な課長が陪席しているのだから、本音を話したら、すぐお目玉だ。第一、最初から実情を説明したり、決意を披瀝する人が、局の指名で決まっていました」と言っていた

 と有るように、管理局でも現状は十分把握していたとしても、それを覆い隠す雰囲気が合ったこと、そしてその辺も十分総裁も承知していたと思われます。

実際、現場の職員の一部に反国鉄分子がいるが他の職員は優秀で善良だ。これら善良な職員をまとめて、反国鉄分子に対抗する力に育てるのが現場長の責任だが・・・そのためにはどうすれば良いかが問題だ」と発言しており、これが生産性運動を導入させる伏線になると思うのですが、前述したように、管理局も現場の恥を外に出さないという雰囲気が有ったわけで、どこまでも、本当の現場の実情を総裁が把握できたのかはいささか疑問に思えてしまいます。

 

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未完の国鉄改革



続く

 

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