日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第二〇話 国労による反マル生運動

組合員の大量脱退で焦る国労本部

今回は、国労の反撃という点に絞って、何回かに分けてお話をしていこうと思います。

生産性運動は、燎原の火のごとくと表現されるほど、現場に浸透していきました。

国労は、当初は生産性運動に関しては熱心の取り組んでいませんでしたが、昭和45年11月から12月にかけて国労組合員が大量に脱退して、鉄労に鞍替えすると言う事態が発生しました。

これに関しては、国労40年史に下記のように記載されています。

少し引用してみたいと思います。

70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては、かなりショッキングな出来事が幾つかの地本で相次いでおこった。しかもそれは、全国規模で集中的に拡大する様相を呈しはじめた。国労動労)からの集団脱退、鉄労への集団加入であ連日、現場から報告されてくるその実態は、従来の組織攻撃とは、規模においても手段においてもまったく異なるものであった。

 ここにありますように、鉄労は10月1日時点で79,672人であったそうで、来年までに10万人突破が合い言葉であったことからも、その後強力なオルグが行われたことは早々に堅くなく、実際国労を脱退しないまでもマル生グループと言われた人たちにより、昭和45年5月20日の24時間ストでは、東京三鉄道管理局管内では、全列車の役60%が運転され、スト破りの国労動労)組合員もいたようで、彼等のことを、マル生グループとして半ば馬鹿にしていたようですが、こうした人たちが一斉に堰を切ったように、鉄労に移籍したものと思われます。

 

焦る国労本部は対応策を協議

大量の組合員脱退はさすがに、国労本部も驚きを隠せず、正月返上で「マル生」対策討議が行われたと言われています。

かなり過激な意見も出たようですが、組合の存在意義は組合員があってこそである以上真剣に受け止めなくてはならないとして、総力戦で戦うことが確認されたそうです。

その辺りを再び少し長いですが、引用してみたいと思います。

「今や組織の問題こそ真剣に、そして深刻にうけとめて、原則的な組織運動をすすめていく決意に立たなければならない・・・われわれの生命は組織である。国労組織に手を出す者には容赦なく、対決するキゼンたる根性を持つ必要がある」との意思統一がなされた。同時に、「交渉等において哀訴嘆願するようなことがあってはならない」こと、「役員間の不団結の間隙を縫って巧妙にクサビを打ち込んできている例が多い」こと、「中執はナメられているのではないか」等々が冷静に反省・検証された。そうした反省の上に立って、この討議では、「総力戦の結集」が決意された。(「生産性向上運動とわれわれはいかに闘うか」国労中央労働学校討議資料、71・1・7)

国労本部がここで考えた方策は、「国鉄一家」(鉄道の職場の上司を父と慕うといった考え方)からの脱却を図ることであり、職場における階級闘争を継続強化する事を確認したものでした。そして、この方策に従い71年春闘からマル生に対する反対闘争であるという認識がなされました。

そしてこれを受けて、国労では春闘での闘いは元より、1月24日付の国鉄新聞(国労機関紙)でくたばれ生産性運動の掲載が始まったそうです。

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

この根底には、「生産性運動は合理化を推進するてことしての経済運動であるが、同時に組合運動の昂揚(こうよう)を押さえる思想運動であると規定していましたが、こうした運動は早くも頓挫することとなりました。

このチラシは、週刊誌版4ページ、色刷り、漫画入りのリーフレットで15話まで続くもので、その全文は国鉄マル生闘争資料集に記載されています。

国労は、「嘘だよ生産性運動」の冊子などを作成するも

生産性運動の責任者でもあった、大野光基氏は、自身の著書

国鉄をうった官僚たち」で、くたばれ「生産性運動」の中に次のような一節がある、としていますが、マル生運動資料集には収録されていませんので、他のチラシか何かだったかもしれませんが、

「成果の公正配分で、ソ連や中国は生産手段の私的所有がないので生産の成果も、全労働者。全国民のものとなり、生産性を上げれば、成果が公正に配分される、反面資本主義では、資本家に搾取されると言う理論展開をしていました。」

(現在、ソ連は崩壊してロシアとなり、共産党一党独裁中華人民共和国共産主義で有りながら社会資本を導入することで経済発展を遂げ、日本を抜いてGNP第2位の地位に上がってきたのはご存じの通りです。

共産主義=理想の国、日本やアメリカなどは地獄の国というイデオロギーを植え付けようとした考え方は、当時の国労組合員が大量に脱退したことの危機感への裏返しで有ったと言えそうです。

そして、その決意は下記のように、正念場の闘いだと言う認識をしていました。

その辺を再び国労40年史から引用してみたいと思います。

「マル生」運動に対する基本的な取り組み方が決定されたとはいえ、「乾坤一擲の勝負をしなければならない」(春闘体制確立・当面の行動について」指令第16号71・2・2)と言う言葉に代表されるように、国労にとってはこれ以降が組織の浮沈を掛けた正念場のたたかいとなった。

こうして取り組んだのが前述の、「嘘だよ生産性運動」などの冊子で有ったわけですが、組合員一人ひとりが、階級を意識して運動に取り組む、生産性運動は資本家により搾取されるものだという意識付けを図り、分断を図ろうとしましたが結果的には上手くいかなかったのです。

社会党国労の要請を受けて動くも空振りに

昭和46年3月には、国労の要請を受けて動き出し、大野氏は「国鉄における生産性運動」を説明したそうです。

一人の社会党議員は、途中で退席したそうですが、社会党運輸部会の会長久保三郎議員は、生産性運動に賛同、3月2日の衆議院社会労働委員会社会党川俣健次郎議員は、下記のように質問しています。

国会議事録から引用したいと思います。

○川俣委員 
 そこで私は、赤字問題ということとからんで、総裁のほうで非常に苦労しておやりになっているようだが、生産性向上運動、これにからませて質問したいと思います。
 私は、生産性を上げるということは必要だと思います。しかし、当局がやっておる生産性向上運動というのは、どうやら目的じゃなくて、何かの手段というか、その辺をこれから少し質問なり論争していきたいと思います。
 それでは、生産性向上運動というのは、どこの国で生まれていつごろ日本に上陸してきたかということをどのようにつかんでおるか。それから、私たちから見ると、去年、おととしあたりから大国鉄の赤字に対して、生産性向上運動というのがおそい。企業ではもう貿易自由化というので、十何年前から、生産性向上をやらなければならぬ、それで日本の場合もいわゆる日本生産性本部というものができたようです。これに対しても質問します。
 日本生産性本部に対して、国鉄当局はどのように思っておるのか。あれを指導理念を生む一つの機関だと思っておるのか。日本生産性本部というのはどういうような組織体で、どういうような資本でつくられて、どういうような経費でやって、そうしてどういう指導をやっておるのか、こういったところもお伺いしたいと思います。

 

○磯崎説明員 生産性本部の詳細につきましては、担当常務から申し上げさせます。
 ただ、私が現在部内に生産性運動を持ち込みました、これは確かに先生のおっしゃったようにもうおそかったかもしれません。もっと早く、まだ国鉄が黒字だった時分からこういう問題にもっと真剣に取り組むべきだった、この点は私大いに反省しているところでございます。先ほど先生のおっしゃったとおり、私をごらんになっても、民間会社の社長さんとは気魄が違う、赤字に耐えているような顔じゃないとおっしゃった、まさにそのとおりかと私は存じます。その意味で、もっともっと早くからこの生産性運動を私としては真剣に始めるべきだったというふうに思います。
 私どもといたしましては、この生産性運動は一つの精神運動というふうに考えております。生産性本部の三原則その他につきましては、先生が御承知のとおりでございますが、百年たって、このいわば老体化、斜陽化した国鉄を、冒頭に申し上げましたように、二十一世紀に向かってさらに発展させ、要らないものを切って、ほんとうに国民のお役に立つものだけを残して、そうして将来の国民の福祉のお役に立ちたいというふうな姿勢にするためには、やはり部内の気持ちもここで変えなければいけない、いままでのお役所主義の、これは私以下全部でございますが、お役所主義の考え方では、もうこの競争激甚な輸送競争にはついていけないということを考えまして、ここでもって一種の精神の、何と申しますか、躍進と申しますか、改革と申しますか、そういう意味の生産性運動を、これは国鉄職員としてのかまえを私は考えました。

長くなりましたが、一部抜粋の上アップさせていただきました。

質問している、社会党川俣健次郎議員は、国労水戸分会出身の社会党議員で、社会党右派に所属する議員で、国労動労としてみれば脱退者が毎月数千人規模で起こる状況を何とかしてもらいたいとして、社会党に質問をしてもらったわけですが、むしろ生産性運動の導入が遅いのではないかと逆に質問されたとしており、国労動労の面目は丸つぶれとなってしまいました。

こうして、国労の最初の生産性運動に関する取り組みは脆くも失敗に終わったわけでした。

 

昭和46年3月2日 衆議院 社会労働委員会 第8号。磯崎総裁と、川俣健二郎議員の質問に関する議事録部分を全文抜粋しました。

jnr-era.blogspot.com

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続く

 

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