半年以上更新が出来ていませんでしたので、新たな形で仕切り直させていただきます。今回からい「磯崎叡総裁と生産性運動」ということで、生産性運動を語っていきたいと思います。
生産性運動とは
生産性運動は、戦後欧米からスタートしたもので、「産業界の経営者、労働者、学識者が協力し、生産性を向上させることで国民生活の向上と社会の発展を目指す国民運動」であり、日本では1955年【昭和30】に日本生産性本部が設立されました。
生産性運動の3原則は
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雇用の維持拡大の原則・・・生産性向上に伴う合理化などで職場を喪わないようにするという原則
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労使協力と協議の原則・・・労使が対立するのではなく、実情に合わせ労使が協力すると言う原則
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成果の公正分配の原則・・・生産性向上の成果は、経営者、労働者、消費者に公正に分配されると言う原則
を基本とするとされていました。
なお、鉄労【結成当初は新国労】は、設立当初から生産性運動を活動の柱としていました。そのため、一部の助役が「生産性運動=鉄労組合員を増やすこと」と勘違いしたような助役もいました。
生産性運動が起こった背景
いくつかの要因は考えられますが、一番大きな原因は、国鉄の五期連続の赤字決算でしょうか。
赤字の要因は、物価の高騰や、運賃改訂が然るべきに行えなかった【当時の運賃は法定制のため。自由に国鉄の判断だけで行えなかった】事、更には第三次長期計画に伴う資金と言った点も見逃せないであろう。
更に言えば、この設備投資は輸送力増強【線増・複線化等】の言わばインフラ部分の投資であることから、港湾や道路などと同様に公共事業として扱われるべきではないのかと、国労は指摘しています。

実際に、国鉄の第一次5カ年計画からスタートする、長期計画は全て国鉄の自己資金及び借入金でスタートしていたわけです。
その上、国鉄財産のその殆どの固定財産に賦課された地方納付金は、国鉄の財政を圧迫することとも要因の一つと言えます。
地方納付金の話は、労働運動と直接関係無いので今回は割愛させていただきますが、国鉄は昭和49年度で173億7200万円*1もの地方納付金を国庫に納めていること、更にはこうした納付額は国の納付金全体の約半分を占めるものであり、国鉄が分割民営化されるまで、この制度は続くこととなりました。
国鉄としては、財政は独立採算なので収支均衡を図れと言われるし、設備投資の費用は自前で調達しろと言われるということで、国鉄にしてみれば重い荷物をいくつも背負わされていると言える状態であったわけです。

国鉄の意思とは無関係に建設されるローカル線
国鉄当局としても、政府に対する不満はあったとしても、当時は高速道路も、東名・名神高速道が開通しただけであり、旅客の中長距離輸送や、重厚・中距離の貨物輸送等は国鉄に依存する部分は多々ありました。
このように、国鉄自身が自覚するまでもなく、未だ未だ旅客輸送や中距離の貨物輸送などは国鉄が未だ未だ主役を務めているのでした。
しかし、港湾整備や高速道建設などに関しては、公共工事として予算が付けられて実施されることに対し、国鉄は独立採算性の建前から、改良計画にかかる予算は国鉄が自ら用意し、足りない分は市中から借り入れる事とされていました。
さらに、国鉄にはいくつかのしがらみもありました、鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)に対し、出資金として昭和39年度以降も拠出金を払っていましたし、鉄道建設公団が建設される路線には、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)と呼ばれる路線は、鉄道建設公団の無償貸与路線として、国鉄が地方納付金を払う必要は有りませんでしたが、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)は、鉄道建設公団からの有償譲渡路線であり、こちらは地方納付金の対象でもありました。
これにより。国鉄では以下のようなジレンマが発生します。
- 無償貸与路線ということで、線路を貸与されても、貸与された場合は運営せねばならず、多少なりとも固定費は増加する。仮に収支を相償えなくとも。
- 有償譲渡路線は、鉄建公団に賃料を払うほか、地方納付金も発生する。将来的には黒字になる可能性があるものの、譲渡当初は当然のことながら国鉄財政を圧迫する。
と言う状況でした。
これに加えて、当時推進中であった、第三次長期計画などは運輸省が主導したものでは無く、国鉄が主導して行うものである反面、必要な経費は、運賃収入+借入金で賄わねばならず、道路や港湾整備のように公共事業と言う視点では整備されなかった事実にもあります。
このような中で、石田禮介総裁時代に副総裁を務めた磯崎叡氏としては、国鉄の生え抜き総裁として、その辺の国鉄が構造的に抱えている矛盾、そして政府(大蔵省)は、国鉄に対しては比較的冷淡であったことを知っていたと思われます。
時期は忘れましたが、国会の証人喚問で、政府は戦時中に国鉄の特別会計から臨時戦費に回した分だけでも膨大な金額となるのであるが、それを返してもらっていないと皮肉とも取れる答弁をしています。
国鉄総裁への椅子
石田禮介総裁が高齢を理由に引退する栽、後継の総裁として強く推薦したのが、副総裁として二人三脚で働いてきた、磯崎叡氏でした。しかし、自民党内には、礒崎は社会党とよすぎる。八方美人だ」とか、運輸省内にも「佐藤首相とあまりにもツーツー、何をしでかすか判らない」と言った警戒する声が強かったのです。*2政府は財界人に打診をするものの、「権限無し」、「組合が強すぎる」、「事故でも起こせばたちまち叩かれる」」だけの存在に対してあまりにも薄給であり、何一つ魅力は無かったという事なのでしょう。
に指名されるには、国鉄内だけではなく、政府【自民党】の意向も大事になってくるわけです、しかし、自民党内では、磯崎副総裁時代に労務担当であったことも考慮すれば、国労幹部と癒着しているのではないかという噂が、あったtおも言われていました。
こうした背景もあり、対政府に対しては財政再建並びに組合に対して強い態度で臨んでいることをアピールしたかった点が強かったようです。
最終的には、礒崎新総裁と言う流れになる訳ですが、国鉄時代の常務理事が初めて総裁の椅子に付くことになった訳です。
国鉄総裁全国行脚
そこで、就任後現場の声を聞くとして、精力的に動いたのもそうした事の表れだったのです。
7月22日の東京南鉄道管理局管内の主要現場長88人との対話を皮切りに、24日は北九州、28日は名古屋といった具合で全国を回ったとされています。

しかし、この全国行脚は国労などからは、かなり批判的な目で見られていたのも事実でした。
国鉄権利闘争史史では、これが現場長の意識改革、はては、生産性運動の下地造りに大きく貢献したとかなり厳しく批判をしています。
少し長いので巣が、主要部分だけ引用してみたいと思います。
すなわち、現場長は、官僚体制の頂点にある総裁と直接懇談したことにより、「実際に総裁にお会いして国鉄の現状あるいは将来について、心から憂いていらっしゃる姿を見て、本当に胸をうたれ、われわれはもっとやらなければならない」と感嘆した決意を新たにしたのであった。そして、自分が「総裁から受けた感じを同一般の職員に反映する化が次の課題である」と自覚し・「反国鉄分子」なるものへの牽制とともに、一般職員に対してが、「自制して汽車をとめない」ように、「途中で試合放棄」しないようーー野球に例えてーーに諭す一方、部下職員の「結婚式には祝電」を打ち、記念アルバム等を贈呈して・・・省略・・・「国鉄を再建する会」の設立、「鉄道学園への入学を促す」運動が始められたのであった。*3
こうして、総裁の全国行脚で蒔かれた種は「増収意欲」あるいは「再建意欲」となって現場長に浸透し、それをテコに現場職員への洗脳がはかられ、生産性向上推進への下地が作られていったのである。
国労の権利闘争史的には、総裁が直接現場管理者と接触する事に対する警戒心が大きかったことが伺えるわけですが、
ただし、この現場行脚も実際には、管理局幹部などの壁に阻まれ、本音が礒崎新総裁にまでは届くこともなく、結果的にこの全国行脚は形式的なものとなったようである。
そして、開けて昭和45年2月16日には、「国鉄財政再建基本計画」を運輸省に提出するわけですが、この中で大幅な人員削減や、ローカル線の廃止などを提言していくわけですが、これが組合だけでなく、国会議員からも反対の圧力がかかることとなり、国鉄当局としては組合と国会議員という両方からの圧力から、たどり着いた答えは、生産性運動の導入となる訳です。
生産性運動の導入までの経緯等は更に今後詳細に語っていきたいと思います。
続く
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国鉄があった時代 JNR-era
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