日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動と磯崎総裁 第一話

半年以上更新が出来ていませんでしたので、新たな形で仕切り直させていただきます。今回からい「磯崎叡総裁と生産性運動」ということで、生産性運動を語っていきたいと思います。

生産性運動とは

生産性運動は、戦後欧米からスタートしたもので、「産業界の経営者、労働者、学識者が協力し、生産性を向上させることで国民生活の向上と社会の発展を目指す国民運動」であり、日本では1955年【昭和30】に日本生産性本部が設立されました。

生産性運動の3原則は

  •  雇用の維持拡大の原則・・・生産性向上に伴う合理化などで職場を喪わないようにするという原則

  • 労使協力と協議の原則・・・労使が対立するのではなく、実情に合わせ労使が協力すると言う原則

  • 成果の公正分配の原則・・・生産性向上の成果は、経営者、労働者、消費者に公正に分配されると言う原則

を基本とするとされていました。

なお、鉄労【結成当初は新国労】は、設立当初から生産性運動を活動の柱としていました。そのため、一部の助役が「生産性運動=鉄労組合員を増やすこと」と勘違いしたような助役もいました。

生産性運動が起こった背景

いくつかの要因は考えられますが、一番大きな原因は、国鉄の五期連続の赤字決算でしょうか。

赤字の要因は、物価の高騰や、運賃改訂が然るべきに行えなかった【当時の運賃は法定制のため。自由に国鉄の判断だけで行えなかった】事、更には第三次長期計画に伴う資金と言った点も見逃せないであろう。

更に言えば、この設備投資は輸送力増強【線増・複線化等】の言わばインフラ部分の投資であることから、港湾や道路などと同様に公共事業として扱われるべきではないのかと、国労は指摘しています。

昭和39年度決算以降は毎年赤字を計上することに

実際に、国鉄の第一次5カ年計画からスタートする、長期計画は全て国鉄の自己資金及び借入金でスタートしていたわけです。

その上、国鉄財産のその殆どの固定財産に賦課された地方納付金は、国鉄の財政を圧迫することとも要因の一つと言えます。

地方納付金の話は、労働運動と直接関係無いので今回は割愛させていただきますが、国鉄は昭和49年度で173億7200万円*1もの地方納付金を国庫に納めていること、更にはこうした納付額は国の納付金全体の約半分を占めるものであり、国鉄が分割民営化されるまで、この制度は続くこととなりました。

国鉄としては、財政は独立採算なので収支均衡を図れと言われるし、設備投資の費用は自前で調達しろと言われるということで、国鉄にしてみれば重い荷物をいくつも背負わされていると言える状態であったわけです。

過大な負担と冷たい政府

国鉄の意思とは無関係に建設されるローカル線

国鉄当局としても、政府に対する不満はあったとしても、当時は高速道路も、東名・名神高速道が開通しただけであり、旅客の中長距離輸送や、重厚・中距離の貨物輸送等は国鉄に依存する部分は多々ありました。

このように、国鉄自身が自覚するまでもなく、未だ未だ旅客輸送や中距離の貨物輸送などは国鉄が未だ未だ主役を務めているのでした。

しかし、港湾整備や高速道建設などに関しては、公共工事として予算が付けられて実施されることに対し、国鉄は独立採算性の建前から、改良計画にかかる予算は国鉄が自ら用意し、足りない分は市中から借り入れる事とされていました。

さらに、国鉄にはいくつかのしがらみもありました、鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)に対し、出資金として昭和39年度以降も拠出金を払っていましたし、鉄道建設公団が建設される路線には、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)と呼ばれる路線は、鉄道建設公団の無償貸与路線として、国鉄が地方納付金を払う必要は有りませんでしたが、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)は、鉄道建設公団からの有償譲渡路線であり、こちらは地方納付金の対象でもありました。

これにより。国鉄では以下のようなジレンマが発生します。

  • 無償貸与路線ということで、線路を貸与されても、貸与された場合は運営せねばならず、多少なりとも固定費は増加する。仮に収支を相償えなくとも。
  • 有償譲渡路線は、鉄建公団に賃料を払うほか、地方納付金も発生する。将来的には黒字になる可能性があるものの、譲渡当初は当然のことながら国鉄財政を圧迫する。

と言う状況でした。

これに加えて、当時推進中であった、第三次長期計画などは運輸省が主導したものでは無く、国鉄が主導して行うものである反面、必要な経費は、運賃収入+借入金で賄わねばならず、道路や港湾整備のように公共事業と言う視点では整備されなかった事実にもあります。

このような中で、石田禮介総裁時代に副総裁を務めた磯崎叡氏としては、国鉄の生え抜き総裁として、その辺の国鉄が構造的に抱えている矛盾、そして政府(大蔵省)は、国鉄に対しては比較的冷淡であったことを知っていたと思われます。

時期は忘れましたが、国会の証人喚問で、政府は戦時中に国鉄特別会計から臨時戦費に回した分だけでも膨大な金額となるのであるが、それを返してもらっていないと皮肉とも取れる答弁をしています。

国鉄総裁への椅子

石田禮介総裁が高齢を理由に引退する栽、後継の総裁として強く推薦したのが、副総裁として二人三脚で働いてきた、磯崎叡氏でした。しかし、自民党内には、礒崎は社会党とよすぎる。八方美人だ」とか、運輸省内にも「佐藤首相とあまりにもツーツー、何をしでかすか判らない」と言った警戒する声が強かったのです。*2政府は財界人に打診をするものの、「権限無し」、「組合が強すぎる」、「事故でも起こせばたちまち叩かれる」」だけの存在に対してあまりにも薄給であり、何一つ魅力は無かったという事なのでしょう。

に指名されるには、国鉄内だけではなく、政府【自民党】の意向も大事になってくるわけです、しかし、自民党内では、磯崎副総裁時代に労務担当であったことも考慮すれば、国労幹部と癒着しているのではないかという噂が、あったtおも言われていました。
こうした背景もあり、対政府に対しては財政再建並びに組合に対して強い態度で臨んでいることをアピールしたかった点が強かったようです。

最終的には、礒崎新総裁と言う流れになる訳ですが、国鉄時代の常務理事が初めて総裁の椅子に付くことになった訳です。

国鉄総裁全国行脚

そこで、就任後現場の声を聞くとして、精力的に動いたのもそうした事の表れだったのです。

7月22日の東京南鉄道管理局管内の主要現場長88人との対話を皮切りに、24日は北九州、28日は名古屋といった具合で全国を回ったとされています。

礒崎総裁 就任後の全国行脚

しかし、この全国行脚は国労などからは、かなり批判的な目で見られていたのも事実でした。

国鉄権利闘争史史では、これが現場長の意識改革、はては、生産性運動の下地造りに大きく貢献したとかなり厳しく批判をしています。

少し長いので巣が、主要部分だけ引用してみたいと思います。

 すなわち、現場長は、官僚体制の頂点にある総裁と直接懇談したことにより、「実際に総裁にお会いして国鉄の現状あるいは将来について、心から憂いていらっしゃる姿を見て、本当に胸をうたれ、われわれはもっとやらなければならない」と感嘆した決意を新たにしたのであった。そして、自分が「総裁から受けた感じを同一般の職員に反映する化が次の課題である」と自覚し・「反国鉄分子」なるものへの牽制とともに、一般職員に対してが、「自制して汽車をとめない」ように、「途中で試合放棄」しないようーー野球に例えてーーに諭す一方、部下職員の「結婚式には祝電」を打ち、記念アルバム等を贈呈して・・・省略・・・「国鉄を再建する会」の設立、「鉄道学園への入学を促す」運動が始められたのであった。*3 

 こうして、総裁の全国行脚で蒔かれた種は「増収意欲」あるいは「再建意欲」となって現場長に浸透し、それをテコに現場職員への洗脳がはかられ、生産性向上推進への下地が作られていったのである。

国労の権利闘争史的には、総裁が直接現場管理者と接触する事に対する警戒心が大きかったことが伺えるわけですが、

ただし、この現場行脚も実際には、管理局幹部などの壁に阻まれ、本音が礒崎新総裁にまでは届くこともなく、結果的にこの全国行脚は形式的なものとなったようである。

そして、開けて昭和45年2月16日には、「国鉄財政再建基本計画」を運輸省に提出するわけですが、この中で大幅な人員削減や、ローカル線の廃止などを提言していくわけですが、これが組合だけでなく、国会議員からも反対の圧力がかかることとなり、国鉄当局としては組合と国会議員という両方からの圧力から、たどり着いた答えは、生産性運動の導入となる訳です。

生産性運動の導入までの経緯等は更に今後詳細に語っていきたいと思います。

 

続く

 


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*1:国鉄機能と財政の構図 課税対象区分表 P125

*2:国鉄民主化への道 P461参照

*3:国労権利闘争史 P244

生産性運動と動労 動労から見た生産性運動とは 第3話

気がつけば、半年以上更新していませんでしたが、改めて更新をさせていただきます。

松崎明率いる動労青年部が闘争を牽引

動労は強力な順法闘争を行っていくのですが、どちらかと言えば国民を無視した行動は、国民の怒りを買うこととなります。
これより先ですが、昭和48年には上尾事件が発生しますが、実は昭和44年の5月にも順法闘争にしびれを切らした乗客が走行中の電車に投石をして運転士と乗客二名が負傷するという事件も起こっています。〈詳細は後述〉
昭和44年4月から5月にかけての当時の動労の動きを弊サイト国鉄があった時代から書き出してみたいと思います。

3年に及ぶ機関助士反対闘争は、当局側により一人乗務で押し切られる形に

1969年4月
国鉄EL・DL安全調査委、一人乗務を最終結論として報告 4/9
機関助士廃止にともなう列車運転の安全性をめぐり、労使間での懸案事項となっていた国鉄に対し、EL・DL委員会(大島正光委員長)は「1人乗務にする客観的条件は熟している」旨の報告書を労使双方に提示した
1969年5月
動労が順法闘争 5/1
動労東京地本は、4月27日の田町電車区の手入れに抗議して。始発から東京地方の国電と中距離列車の区間で順法闘争を行ない。中央快速電車をはじめ中央、湘南、横須賀、山手、常磐の6線で合計130本が遅れ、約3万人の足が乱れた
国労動労の全日スト中止 5/2
国労動労など公共企業体労働組合協議会は、賃金紛争から2日全日ストを予定していたが、公共企業体労働委員会が1日夕から2日末明にかけて調停を進め、ベースアップ8%プラス1000円、賃金問題を仲裁委員会に移すことで解決、ストを中止
国鉄当局、6月1日以降3段階に分けて助士廃止計画を実施することを組合に通告 5/12
国鉄当局、国労動労に対し、6月1日からハンプ押し上げ機関車と一部貨物列車の1人乗務を実施し、EL・DL乗務員を一人乗務に切り替えることを提案(1人乗務を段階的に実施)
国労動労は、一人乗務に対して反対闘争を行なうことを表明 5/12
国鉄国労動労の闘争で処分 5/17
国鉄は、3月28日、国労が行なった合理化反対闘争に対し停職14人など計549人、動労がさる4月17日に行なった春闘統一闘争に対し減給6人など計555人を処分、ほかに国労10人が訓告をうけた。これで国労の3.28闘争関係者の処分はほぽ終わった
国労第86回中央委員会(東京・牛込公会堂)。新賃金の仲裁裁定に対する態度と配分の組合案、配分闘争のすすめ方、EL・DL一人乗務反対のたたかいを中心とする当面の闘争計画を決定 5/22~5/23
動労、EL・DL助士廃止反対スト戦術を発表 5/23
 
国鉄北海道支社、国労動労の4.17ストに対し停職28人をふくむ261名の処分を発表 5/24

国鉄機関助士廃止問題・国民安全調査委員会」発足 5/24
動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~ 動労、EL・DL助士廃止反対順法闘争に突入 5/25~5/30
動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった

長々と組み合い関係だけを抜粋しましたが、4月から5月にかけての期間をピックアップしたのですが、この5月を一つの山場と捉えていました。

動労に屈する形で一人乗務は一時継続審議に

動労は、5月30日から6月1日までの三日間のストライキを予定していましたが、上記のように順法闘争による混乱が続いたことから、当局側が折れる形となりました。

その背景には、29日の乗客による投石事件も影響していると言える訳ですが。

結果的には、動労にしてみればこれが生産性運動の伏線の一つになるとともに、機関助士反対闘争では、穏健派と呼ばれた機関車同志会〈後の労運研〉に代わり、より左派的な考え方の政策研究会(政研派)が実権を持つようになり、動労内の「青年部は、政権派の影響を強く受けることとなり、革マルの幹部でもあった松崎明らを上手く取り込んで行くこととなり、その活動は段々と過激になり、後に「鬼の動労」と呼ばれるようになったのは、既に皆様もご存じのとおりです。

続く

 


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生産性運動と動労 動労から見た生産性運動とは 第2話

長らく更新できませんでしたが、改めて動労の生産性運動と言うところのフォーカスを当てながら見ていきたいと思います。

参考にするのは、谷恭介・松崎明共著の、国鉄動力車を中心に、国鉄民主化への道(鉄道友愛会議・著)、動労運動史などを参照しながらアップさせていただこうと思います。

 

動労から見た生産性運動

動力近代化という合理化

動労の反合理化闘争は、国鉄当局の動力近代化に直接関わっている内容であった。
蒸気機関車を廃止して、電機機関車・内燃機関車に置き換えることは、運転操作の高度化と機関助士の不要を意味していた。

動労(当時は機関車労組)としては、昭和32年の第一次五カ年計画の頃からその反対運動に取り組むこととなるが、動力近代化で一番割を食うのは機関車乗務員特に機関助士と呼ばれる乗務員であり、蒸気機関車から電機機関車・内燃機関車への変更は、運用距離の増加も含めて機関助士の削減、機関車庫の減少による検査係の減少などをもたらすこととなり、結果的には動労(機関車労組)組合員の減少に結びつくとして、積極的な反対運動が行われることとなる。

 

動労、国労・当局から圧力を受けることに 機関助士反対闘争

動労国労と当局に挟まれる形となり窮地に


元々職能労連的な立ち位置でスタートした機関車労組であったが、機関車乗務員の養成に時間がかかる等などの理由もあり、徐々に過激な運動を行うグループが台頭していくこととなった、詳細は改めて別の機会に詳述するが、こうしたEL・DL機関助士廃止反対闘争は、一つの目より二つの目ということで、二人乗務の正当性を打ち立てようとし、大学の教授による組合側に有利な内容の論文を期待したものの、結果的には動労の意のままとはならず、結果的にEL・DL機関助士廃止反対闘争は、動労の一人負けの状態で終わることとなったのは前述の通りです。

なお、昭和44年5月には、動労は機関助士反対闘争で5月28日からストライキに突入しています。

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28

機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された
動労はこの闘争を反合理化闘争、第6波と位置づけ

この時期は、昭和38年から石田禮介総裁が高齢を理由に引退し、副総裁であった磯崎叡が総裁に就任することとなりました。

磯崎総裁は、国鉄生え抜きの総裁であり、十河総裁時代には常務理事として勤務していましたが、当時の十河氏とそりが合わず解任されており、その後石田総裁に請われて副総裁として復活しています。

礒崎氏は石田総裁時代から一貫して労務管理を担当しており、「国鉄動力車」の回想では、礒崎総裁が動労潰しに動いたと回想しています。

当該部分を引用してみたいと思います。

① 石田総裁辞任にともない、副総裁から総裁になった磯崎は、その指名をめぐる政府の動きから、動力車五月闘争に対して終始黙殺的態度をとっていた。しかも磯崎総裁は、動力車労組崩壊をめざしており、国鉄当局としての事態収拾を完全に放棄していたといえる。

②28日からのATS闘争により、すでに騒然とした状況の中で、井上常務理事との間の交渉は、ハンプについては予定通り6月1日より行う。(準備の関係で5日から10日ぐらい遅れる)こととし、その他については十月一日の時刻改正の一ヵ月前九月段階で取りきめたい、という当局の態度が示されていた。
③ 5・30ストに突入後、闘争がエスカレートするなかで、当局側は逆に態度を硬化させ、政策としての合理化強行と、動力車労組対策(動力車の壊滅)、国労議員団の動向などから"ドロ沼闘争"に追いこむ動きが顕著になった。

と述壊しており、当時の動労は、当局からも国労からも、追いやられていく状況であったことが窺えます。

なお、礒崎総裁について簡単に記すと、国鉄時代に昇進して常務理事から総裁になった生え抜きであり、石田総裁時代(副総裁時代)から、労務政策担当として辣腕を振るっていました。

ただ、当時の自民党の中には、礒崎総裁が組合に弱腰なのではないかという、見方もあったことから、総裁の昇格が遅れたのも事実でした。

そうした経緯もあることから、組合に対してはより強い態度で接することとなりました。

それが、その後に大きな禍根を残すことになる生産性運動であった訳です。

礒崎氏にしてみれば、やっと手が届いた総裁の椅子に、つまらないことで反故にしたくないと言う思いがありましたし、実際に氏は典型的な官僚タイプであった(上に媚び諂い、部下には厳しい)とも言われており、就任後も積極的に現場を回るなどしています。

 

続く

 


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生産性運動と動労 動労から見た生産性運動とは 第1話

長らく間が開いてしまいましたが、今回から動労と生産性運動と言うことで、動労から見た生産性運動についてお話をしたいと思います。

 

今回参考とするのは動労三〇年史を参考に他の資料などを参照しながら書かせていただきます。

当然のことながら、動労視点での記述ですので、動労に都合のよいように解釈されている部分が多々あるかと思いますが、その辺は割り切ってご覧いただけますことを最初にお断りしておきます。

動労が語る生産性運動とは

動労からみた生産性運動の目的は以下のように記しています。

  • 生産性運動は、政府・自民t脳・国鉄当局の合理化計画は本質的矛盾(国費で行うべき設備投資を国鉄だけに添加してきたことに起因するものと思われる)による赤字体質を隠蔽するために、合理化を推進するとともに、どの挫折の責任を労働組合に負わせた。
  • 労働組合の体質改善を図るべく、動労国労組織を合理化に協力する御用組合化するべく、内部で批判させるグループを作り、組合の方針が変更されるように持って行く。
  • その結果、当局側による差別弾圧攻撃となって現れ、当局側は不当労働行為や組合否認、権利侵害などが行われた。
  • 鉄労は、当局の走狗として使われ、鉄労の存在意義はそれ以上でもそれ以下でも無かった。〔些か差別的な発言ですが、この運動史が編纂された1982年頃は、まさか鉄労と動労労使協調宣言をするなど夢にも思わなかった時代でした。〕

財政的には窮地に追いやられていた動労

しかし、このような強気な形で書いているものの、実際には生産性運動が開始する前に行われた機関助士反対闘争運動自体(1968年3月~1970年)は、近代化により上記時代は必須であった機関助士が電機機関車などでは省略可能となり、これに反対する運動として組織として反対運動を行おうとするものの、二年間で102人の懲戒免職を含む30000人に以上が処分対象となり、その*1義援金だけでも約60億円〔当時の金額〕となり、当時の組合員63,000人から一人あたり給料の1.25ヶ月分を臨時徴収する必要があったと書かれています。

この結果、財政的には動労は厳しい状況に置かれていたと言います。

動労が財政的にも疲弊した状況にあるときに、当局は「生産性運動」を仕掛けるとともに、当局・鉄労とともに「動労は財政的にもうすぐ潰れる」と宣伝をして、鉄労による組合員引き抜き工作が行われた動労30年史P1167、マル生粉砕闘争の展開と勝利から要約〕と書かれており、かなり財政的にはきわどい状況に追いやられていたのは間違いないでしょう。

生産性運動で結成された「国鉄を良くする会」「国鉄を守る会」等当局による会が組織され、思想教育(所謂洗脳)が行われつつ有るとして、排除攻撃をしていると書いています。

このあたりは、三一書房松崎明・谷恭介共著、国鉄動力車に比較的詳しく書かれていますので、引用してみたいと思います。

国鉄当局は、動力車労組の助士闘争に対し発表した不当処分は、解雇107名(まま)を含む26,500名という大量なもので、組合員二人に一人は何らかの不当処分を受けたことになる。これを理由に当局側は、「組合財政の危機」として宣伝し、鉄労はいまにも動力車労組が破産するといい、組合員の不安を助長させていった。*2

と有るように、動労的には機関助士闘争では、当局が鉄労と結託して組織破壊行動を取り、実際に多数の処分者を出したことで財政的にも厳しくなっていたのも事実であるが、それを当局側は組合の財政危機と煽り、鉄労は動労が危ないとして揺さぶりをかけていったと発言しています。

国鉄当局の動きに対して、動労は組織強化と運動強化で対抗

国鉄当局は、官製のサークル活動とも言える、「国鉄を守る会」「国鉄を良くする会」などを発足させますが、それに対抗すべく動労では、「小組班」「地域班」と言ったグループの整備が強化されたほか、独身寮や学園での組織化が強化され、毎月16日~22日を「不良職制追放と組織強化のための点検行動習慣」とし、29日を「反合理化・不当処分撤回行動日」とすることを決定したとされています

 

 


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*1:犠牲者救済金

*2:注:下線筆者

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第七回

久々にアップさせていただきます。

今回は動労の三〇年史を参考に、アップさせていただきます。

動労は、ヨンサントウのダイヤ改正に向けて合理化反対闘争の観点から、当局が示した、5万人要員合理化案の撤回を求めて1968(昭和43)年6月10日、当局に合理化撤回を中心とした33項目の申し入れを行ったが、折悪しく6月27日に膳所駅脱線事故が発生しました。

この事故の直接の原因は機関士・機関助士両名が運転中に居眠りしたためであり、その概要は弊サイト国鉄があった時代には以下のように記述されている。

東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27

0時25分頃上り吹田操車場発青森行貨物列車 「第4北海」 が副本線へ待避の際、時速35km制限のところを約時速70km で分岐点へ突人、その際、機関車EF60119が脱線、約300m暴走、ジャリにめり込みやっと停止. 貨車は機関車との連結器がはずれ約30両が転覆、横転し、信号所、並進する京阪電鉄石坂線国鉄浜大津線へ突込んだ。 このとき架線の支柱が折れたことで、下り本線も支障。そこに、ほぼ同時に富山発吹田操車場行きの貨物列車3574列車が事故現場へ突入。架線の鉄柱に機関車 EH1018衝撃、機関車と貨車2両が転覆、特急16本、急行48本、電車55本など区間運休した
この事故では、機関士・機関助士共に居眠りしていたとも言われている
→京阪石山坂本線 国鉄膳所駅で起きた脱線転落事故のため浜大津石山寺間が運休→7/16 EH1018廃車

なお、この事故に関しては、動労の30年史にも記述はあるものの、この事故は、翌日に発生した、DD542号機の脱線転覆事故(棒高跳び事故と言われている)とともに、機関車の酷使、合理化による過酷な労働が原因であるとしていますが。

DD54の推進軸折損は、DD54を設計する際、オリジナルのDD91と若干設計変更したことなどが原因とされており、機関車の酷使とは言えず、膳所の事故に関しては乗務員にその責を問われるべき事となります。

ちなみに、DD54の脱線事故の概要は以下の通りです。

急行「おき」機関車脱線転覆事故 6/28

午前3時40分ごろ 山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行きの急行「おき」を牽引中だったDD54 2が、駅構内のポイント通過中に異常音に気付き非常ブレーキをかけたところ、推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速したため、相対速度が低かったことから乗員乗客の一部が軽傷を負っただけで人命の被害は無かった。事故車となった
DD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役廃車となった。

新車で完成して2年ほどの機関車を酷使によると言うのも無理があるのですが、なんとしても動労としては、当局の政にしたかったのだと思います。

なお、国鉄事故黒書では、事故の原因を居眠りであると認めているもののその原因は、当局の側にあるとしています。

その辺を少し引用してみたいと思います。

T機関士は持病として低血圧症であり、中略・・・・本人は京都までは正常運転を行っていたことをはっきり意識している。途中眠気を催し。山科の場内を通り過ぎる頃から頭がぼんやりしてきたので立ち上がって意識を取り戻そうと試みたが立ち上がることも出来ず、その後は覚えていない。

引用 国鉄事故黒書 国鉄の合理化と事故 P15

とあり、機関助士も同じ時間帯に居眠りをしていたのは、年休を申請していたにも関わらず当日になって拒否されたことが遠因では無いかと指摘しているわけですが、機関士はともかくとして、機関助士も同時に居眠りをしたことに対する言い訳としてはいささか苦しいものがあると言えます。

実際に、こうした事例に対する対応措置としてデッドマン装置が開発されており、電車では足踏み式のデッドマン装置が、機関車にはEB装置(emergency brake)が準備されていたにも関わらずこうした装置の使用を拒否してきたのが動労でした。

仮に、こうしたEB装置がこの時期にすでに稼働していたならば、少なくとも事故に至らなかった。途中で停車と言うことで問題にはなったであろうが。

鬼の動労



結局こうした事故が起こることに対して、近代化や合理化は、当局が儲けるだけの手段だと断定している所にかなり無理があるように見えます。

それでも、動労としてはこうした事故が起こることに対して、運転保安確保の闘争として位置づけ、当局に対して合理化反対闘争の交渉事項としてあげていた(一人よりも二人の目)のですが、結果的には何らかの物理的に鉄道を停止させることの方がより安全だと思うのですが、そうなると合理化で機関士乗務員などの数を減らされることを恐れての行動であったと言えそうです。

このように、動労はいろいろな理由を設けて合理化反対運動に取り組み、大学の教授などによる機関助士常務の有効性を示そうとしますが、結果的にその運動は上手くいかず最終的には当局に押しやられる形になるとともに、国労・鉄労に移籍する人も多く、組織崩壊の直前まで行ったことで、それまでの機関車同志会(後の(労運研))の流れをくむ比較的穏健派のグループは、徐々にその影を潜め、政研派と呼ばれたグループがやがて主流派となると、その運動はさらに過激となり「鬼の動労」と呼ばれるようになりました。


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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第六回

ほぼ5ヶ月ぶりに更新になります。

長らく開けてしまって申し訳ございません、動画の作成なども重なり中々時間がとれなかったと言い訳をしておきます。苦笑

動労の行った機関助士反対闘争は、それまでの機関助士の処遇をどうするのかという問題もあり、国労以上に動労には切実な問題でした。

弊blog 日本国有鉄道 労働運動史 国鉄労働組合史詳細解説 22-3 を参照しますと、最終的には動労は、夜行列車などにおける機関助士常務を認めさせたほか、廃止される機関助士にあっては、EL・DL乗務助士9,000人中、約3,500人の存置の確認、 廃止助士については、機関士・・検査係へ逐次登用させることで、一定の整理を図れたとしていますが。

こうして、自らの組合としての勝利と書いているもののかなり薄氷を踏むような状況であったようです。

国労も機関助士反対闘争では同調していますが、元々電車乗務員が多い国労の場合電車は一人乗務が基本ですので、一緒に機関助士反対闘争に乗っかるメリットはないわけで。どちらかと言えば、合理化反対闘争の一環であり、実際には鉄労とともに組合員の引き抜きもあったようです。

そうしたことも動労を過激な方向に向かわせていった点もあるかと思われます。

特にこの時期は鉄労からもかなり強力な引き抜きもあったようで、詳細は今一度調べてみますが、動労自身が存続の危機に陥ったと言われています。

動労の反合理化反対闘争のきっかけは、昭和36年の5月まで遡るようで、動労としては特に機関助士反対闘争に力を入れた背景には、昭和41年4月に当局が 普通課程運転二科を 開設 したことによる反発が大きかったようです。

普通課程運転二科とは

それまでの国鉄では、中学卒業後機関区などで直接採用された場合は検査係などを経て数年の後に、機関助士、更には機関士へという流れでしたが、動力近代化により操作方法なども高度化していること、更には輸送力増強に伴い、適性を持つ機関士(動力車乗務員)を早期に確保したいという思惑から、昭和41年度から高校卒業者を直接機関士に養成するという手法がとられました。

しかしこうした方法では、長らく機関助士をしている職員の機関士への道を絶つこととなることから、動労としてはこの運動には敏感に反応しました。

この辺の事情は、当時の監査報告書(1966年 P130)では以下のように書かれています。

少し長いですが、引用させていただきます。

(2)職員の資質向上


職員の取扱い誤りに起因する事故を防止するため、上述の保安設備の強化はもちろんのこと動力車乗務員、車掌、駅の運転取扱職員等をはじめとして、施設および電気関係の職員を含めて、運転業務に直接関係する職員に素質の良い職員の確保に努める必要がある。
最近、動力車乗務員の質の確保は運転保安上特に重要になってきたので、昭和40年度から中央鉄道学園に中学校卒業者を対象に普通課程運転科を開設し、さらに昭和41年度から関束、中部および関西の第1種鉄道学園に高等学校新規卒業者を対象として普通課程運転二科を開設し直接動力車乗務員として養成することを試み、その結果きわめてよい成果を収めている。

とあるように、それまでの庫内手(検修係)を経て機関助士、機関士と進む徒弟制度的な流れから、いきなり学校を卒業後数年で機関士(動力車乗務員)になることは、当然のことながら、現在の機関助士等からすれば、機関士の道が閉ざされることに繋がりかねないわけで、組合としても、組合員の確保という視点からも強く反発することとなりました。

二つの目よりも四つの目で安全を確保できるとアピールするが・・・。

昭和40年代前半のこの頃は、動労にあっては反戦青年委員会所属だった組合員も多く、その後動労にあって暗然たる勢力を持つ松崎明氏も、当時は青年部長として動労でも発言力を強めて行くのでした。

特に、蒸気機関車では必須であった機関助士も電気や内燃ではほとんど必要とせず、当局にしてみれば合理化を図りたいわけですが、組合員の減少を招くことですので、組合側は当然のことながら強く反発。

安全確保には、二つの目よりも4つの目として二人乗務の正当性を訴えていくのでした。

しかし、昭和43年6月27日深夜に起こった膳所駅での貨物列車脱線事故では、2人いても安全は保てないことを自ら証明することになってしまいます。

参考:

事故の直接の原因は機関士・機関助士両名の居眠りとされており、当事者の聞き取り調査を動労も行っている(安全黒書)のですが、かなり無理な弁明であり、最後は当局が悪いとしているのですが、少なくとも個人の資質に問題があることは間違いなく。

動労としても、大学の教授などにも有利な報告書を書いてもらうことを期待したようですが、十分な成果を得ることは出来なかったようです。

こうした事故もありながらも、当局は合理化の一環として機関助士反対闘争を強力に推し進めることとなりました。

特に、昭和44年からは、当局に押し切られるような形で進められるのですが、動労も強く反発を行って行くこととなります。

 

機関助士反対闘争では、多くの機関助士が職をなくすとして強く反対することとなります

機関助士反対闘争では、多くの機関助士が職をなくすとして強く反対することとなります。

少し長いのですが、昭和44年5月の機関助士反対闘争に関する出来事を弊サイト国鉄があった時代から、書き出してみました。

国鉄当局、6月1日以降3段階に分けて助士廃止計画を実施することを組合に通告 5/12
    国鉄当局、国労動労に対し、6月1日からハンプ押し上げ機関車と一部貨物列車の1人乗務を実施し、EL・DL乗務員を一人乗務に切り替えることを提案(1人乗務を段階的に実施)

国労動労は、一人乗務に対して反対闘争を行なうことを表明 5/12
国鉄機関助士廃止問題・国民安全調査委員会」発足 5/24

動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~

    動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28
EL・DL調査委員会の5氏、「調査報告書は一人乗務を無制限に認めたものではない。技術上の諸条件の完備、労働 条件、生活条件の改善向上、個体条件への配慮などと関連 して団交で善処されることをのぞむ」という趣旨の覚書を発表 5/29
機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

    報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
    中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された

最終的には、寝台列車等夜間走行の列車に限り機関助士をのこすこととしたものの、EB(Emergency Brakeの略)装置の設置などで国鉄当局は一人乗務を押し切らせることとなりました。
余談ですが、電車などで試用されていたデッドマン装置は国鉄では採用されず、帰還者にあってはEB装置(一定時間機械操作をしなかった場合に警報が鳴って、その後非常ブレーキがかかる)の導入となりましたが、電車にあっては装備はされたものの、組合の反対があり、国鉄時代には殆ど使われていなかったように記憶しています。

 


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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第五回

ほぼ一ヶ月ぶりに、一人乗務反対闘争の記事をアップさせていただきます。

今回も、動労の資料、動力車乗務員史をベースに、当局側の視点、鉄労の視点などを絡めながらお話を進めさせていただきます。

今回引き続き、動労三〇年史から引用を行いながら、お話を進めたいと思います。

当時の合理化闘争、特にEL・DL機関助士廃止反対闘争に関しては、動労は絶対反対の立場、国労は条件闘争の為のきっかけ程度であり、その温度差は大きなものがあり、特に機関助士廃止反対闘争は、どちらかというと動労単独の闘争と言っても良く、この闘争では大幅に組合員を減少させることとなり、その失敗が国鉄分割民営化時の露骨とも言える掌返しに繋がるのでした。

EL・DL安全調査委員会の発足

安全調査委員会については、当局並びに動労は下記の二名を推薦した。

動労側が推薦した、鶴田教授は「国鉄事故国書 動力車乗務員の労働の実態」を執筆したことが縁で推薦に至ったようです。

最終的には、下記五名の委員が決定しました。

昭和43(1968)年10月18日に発足し、正式な委員会の名称は、「EL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会」 (略称EL・DL委員会)と決定し。

調査事項としては以下の内容を調査するとされました。

  • 労働科学・人間工学の面からみたEL・DLの1人乗務と 2人乗務の作業などを条件別に比較検討
  • それらの場合の安全性およびその確保についての必要条件

を審議するもので、同年12月6日から20日までは広島~岡山の間で実態調査が行われたとされています。

その辺を弊サイト「国鉄があった時代 昭和43年後半から引用したいと思います。」

国有鉄道 1969年2月号 EL・DL委員会 岡山~広島間で現地調査

EL・DL委員会 岡山~広島間で現地調査

 

EL・DL調査委員会実地調査開始 12/6~20 

「EL・DLの乗務員数と安全についての調査委員会」は国鉄の労使双方の依頼により、1人乗務と2人乗務についての生理負担などのデータをとるため第1回の調査が、12月6日、岡山機関区で始まった調査用計器類が積込まれ、1人乗務用に改造した電気機関車には、六島委員長ほか委員3人、松本岡鉄局長、松藤国労副委員長、竹森動労交渉部長が乗込み、岡山・糸崎間を折り返し運転したなお、この日は、計器類のテストで、本調査が7日から、山陽本線岡山~広島間で20日迄の日程比較テストが開始された

と有ります、動労はこの委員かに関しては非常な関心を持っていたようで、動労内部にも。「EL/DL対策委員会」を設けて万全の措置を取ったとしており、動労にとって有利な結論が出ることを期待していたようですが、実際には現状では一人乗務の条件は出来上がっていると言う委員全員一致の意見として、昭和44(1969)年4月9日には調査報告書を労使双方に提出、動労の思惑は図らずも外れることとなりました。

識者の見解は「EL・DLの一人乗務は妥当」との判断

委員会の出した結論は、既に十分時期は熟したというもので、実際に国鉄では一人乗務に際してEB装置を入換用機関車DD13に設置して試験まで行っていました。更に、ここに来て識者の一致した見解として一人乗務は可能と言うことが示されたことから、昭和44(1969)年7月からの操車場での入換作業の一人乗務化以降、一部の長距離列車などを除き、一人乗務が行われることとなりました。

当時の記録を弊サイト「国鉄があった時代・昭和44年前半」から再び引用してみたいと思います。

EL・DL委員会調査報告書答申 1969年4月9日

貨物列車 DL牽引

EL・DL委員会調査報告書を答申 4/9

    EL・DL委員会調査報告書を答申機関助士廃止にともなう列車運転の安全性をめぐり、労使間での懸案事項となっていた国鉄に対し、EL・DL委員会(大島正光委員長)は「1人乗務にする客観的条件は熟している」旨の報告書を労使双方に提示した
    1年以上にわたる1人乗務の安全論争に終止符がうたれたことになり、同委員会は9日付で解散した
    調査報告の要旨は次のとおりである。

            1人乗務の客観的条件は然している
            1人乗務の生理的負担はその生理的限界をこえるものではない
            1人乗務を進める上で安全についての基本的危惧はない
            機械化等の補償的な対策により、安全へのてこ入れは一層増進される
            2人乗務を1人乗務にきりかえつつそれを前提とした種々の施策を実施してゆくことを国鉄の基本方針にすべき時期にきている

    この報告書にもとづき労使協力して国鉄の近代化を進めることを期待する

この答申を提出したことで、EL・DL委員会は解散しますが、これに対し動労は非常に不満であったようで、委員会の委員と、国鉄労働研究所(現在は鉄道総研に統合)と連携が全く取れていなかったとして、委員会の報告自体が無効であるとして再度委員会の設置要求を行ったとされていますが、実際にはこうしたことは行われず。

本社が押し切る形となりました。その辺を、動労30年史、「機関助士廃止反対闘争」の項目から引用したいと思います。

引用開始

動労は、この報告が突如出された経緯とその内容について、「本報告書は安全性を解明する上では無意味である」とする抗議声明を発表した。また、EL・DL委員会の立会人であった明治大学清水義汎教授は、「岡山調査いらい委員会と立会人の意見交換は全く行われず、報告書の作成についても全く連絡はなかった・・・中略・・・国鉄労研所長のの"個人的見解の発表は許さぬ"という業務命令を振り切って4月15日「科学者として、報告書には重大な疑義があり。委員会に公開質問を行う」という立場で記者会見を行った。・・・中略・・・③一人乗務でも生理的疲労の低下がないと結論づけるのは尚早である。④安全性の低下を防止できる必要な条件を明示していない、等であった。

引用終わり

として、動労は再度の委員会設置を求めますが、当局は再度の委員会設置はしないとしてこれを拒否することとなりました。

 

こうして、EL・DL一人乗務に関しては動労にとっては極めて厳しい内容であったことは間違いないわけですが。

動労の中でも、徐々に主流であった機関車同志会に代えて政研派グループが力を持つようになり、動労の運動は後の鬼の動労と言われるようにより過激な方向に進んでいくのですが、この辺は次回にでもアップさせていただきます。


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