日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動と動労 動労から見た生産性運動とは 第2話

長らく更新できませんでしたが、改めて動労の生産性運動と言うところのフォーカスを当てながら見ていきたいと思います。

参考にするのは、谷恭介・松崎明共著の、国鉄動力車を中心に、国鉄民主化への道(鉄道友愛会議・著)、動労運動史などを参照しながらアップさせていただこうと思います。

 

動労から見た生産性運動

動力近代化という合理化

動労の反合理化闘争は、国鉄当局の動力近代化に直接関わっている内容であった。
蒸気機関車を廃止して、電機機関車・内燃機関車に置き換えることは、運転操作の高度化と機関助士の不要を意味していた。

動労(当時は機関車労組)としては、昭和32年の第一次五カ年計画の頃からその反対運動に取り組むこととなるが、動力近代化で一番割を食うのは機関車乗務員特に機関助士と呼ばれる乗務員であり、蒸気機関車から電機機関車・内燃機関車への変更は、運用距離の増加も含めて機関助士の削減、機関車庫の減少による検査係の減少などをもたらすこととなり、結果的には動労(機関車労組)組合員の減少に結びつくとして、積極的な反対運動が行われることとなる。

 

動労、国労・当局から圧力を受けることに 機関助士反対闘争

動労国労と当局に挟まれる形となり窮地に


元々職能労連的な立ち位置でスタートした機関車労組であったが、機関車乗務員の養成に時間がかかる等などの理由もあり、徐々に過激な運動を行うグループが台頭していくこととなった、詳細は改めて別の機会に詳述するが、こうしたEL・DL機関助士廃止反対闘争は、一つの目より二つの目ということで、二人乗務の正当性を打ち立てようとし、大学の教授による組合側に有利な内容の論文を期待したものの、結果的には動労の意のままとはならず、結果的にEL・DL機関助士廃止反対闘争は、動労の一人負けの状態で終わることとなったのは前述の通りです。

なお、昭和44年5月には、動労は機関助士反対闘争で5月28日からストライキに突入しています。

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28

機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された
動労はこの闘争を反合理化闘争、第6波と位置づけ

この時期は、昭和38年から石田禮介総裁が高齢を理由に引退し、副総裁であった磯崎叡が総裁に就任することとなりました。

磯崎総裁は、国鉄生え抜きの総裁であり、十河総裁時代には常務理事として勤務していましたが、当時の十河氏とそりが合わず解任されており、その後石田総裁に請われて副総裁として復活しています。

礒崎氏は石田総裁時代から一貫して労務管理を担当しており、「国鉄動力車」の回想では、礒崎総裁が動労潰しに動いたと回想しています。

当該部分を引用してみたいと思います。

① 石田総裁辞任にともない、副総裁から総裁になった磯崎は、その指名をめぐる政府の動きから、動力車五月闘争に対して終始黙殺的態度をとっていた。しかも磯崎総裁は、動力車労組崩壊をめざしており、国鉄当局としての事態収拾を完全に放棄していたといえる。

②28日からのATS闘争により、すでに騒然とした状況の中で、井上常務理事との間の交渉は、ハンプについては予定通り6月1日より行う。(準備の関係で5日から10日ぐらい遅れる)こととし、その他については十月一日の時刻改正の一ヵ月前九月段階で取りきめたい、という当局の態度が示されていた。
③ 5・30ストに突入後、闘争がエスカレートするなかで、当局側は逆に態度を硬化させ、政策としての合理化強行と、動力車労組対策(動力車の壊滅)、国労議員団の動向などから"ドロ沼闘争"に追いこむ動きが顕著になった。

と述壊しており、当時の動労は、当局からも国労からも、追いやられていく状況であったことが窺えます。

なお、礒崎総裁について簡単に記すと、国鉄時代に昇進して常務理事から総裁になった生え抜きであり、石田総裁時代(副総裁時代)から、労務政策担当として辣腕を振るっていました。

ただ、当時の自民党の中には、礒崎総裁が組合に弱腰なのではないかという、見方もあったことから、総裁の昇格が遅れたのも事実でした。

そうした経緯もあることから、組合に対してはより強い態度で接することとなりました。

それが、その後に大きな禍根を残すことになる生産性運動であった訳です。

礒崎氏にしてみれば、やっと手が届いた総裁の椅子に、つまらないことで反故にしたくないと言う思いがありましたし、実際に氏は典型的な官僚タイプであった(上に媚び諂い、部下には厳しい)とも言われており、就任後も積極的に現場を回るなどしています。

 

続く

 


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************