いよいよ本題である、機関助士廃止反対闘争に入っていきたいと思います。
今回参照するのは、動労の年史 動労三〇年史を参考にしながら検討を進めていきたいと思います。
反対闘争のきっかけは、ヨンサントウとも深い関係が
国鉄では、動力近代化を進める中で蒸気機関車の廃止を積極的に推進することとして、昭和50年末には蒸気機関車を全廃する方向で進められることとなりましたが、電気機関車・デーゼル機関車の場合、蒸気機関車では必須であった機関助士はその業務が殆ど信号確認だけとなることから、検修の変更と相まって機関助士の廃止も大きな問題となってきました。
国鉄では積極的に合理化対策を打ち出す反面、動労はこうした動きに強く反発、1968年(昭和43)5月28日~6月1日まで5日まで、動労の全国大会が新潟で開催され、同年6月10日には、国鉄本社に対し、五万人要員合理化案撤回を中心とした33項目の申し入れを行ったのですが、同月27日・28日と連続して脱線事故が発生しました。
この事故に対して、安全が疎かにされているから起こった事故であるとして動労はこれで合理化が進めば安全は更にないがしろにされるとして以下のように反発します。
動労三〇年史上巻 第3章合理化反対闘争 第8節 機関助士反対闘争から引用
他方、合理化反対闘争について、新たな取り組みを開始したこの時期の6月27日、東海道線膳所駅構内で脱線事故が起こり、続いて28日には山陰線湖山駅構内で、DLの推進軸折損による脱線事故が発生した。動労は機関車の酷使、合理化による労働が事故の原因であるとして「安全輸送に関する要求」、更に「動力車乗務員の労働条件の抜本的改善について」の申し入れを行い。68.10ダイヤ改正を安全輸送の立場から再検討する事を要求した。
と有るのですが、実際には膳所駅構内での脱線事故は、機関士の居眠りという記述があるほか、DD54は構造的な欠陥(DD91では純正部品でしたがDD54では、エンジン本体はマイバッハ車のライセンス生産ですが、推進軸などは国鉄の標準品を使用したこと等が原因と言われており、一概に機関車を酷使したかと言うとかなり疑問点が出てくるわけです。
ちなみに、弊サイトではこの二つの事故について多少詳しく書かせていただきましたので紹介させていただきます。
東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27
41両編成の下り貨物列車が待避線進入のさい31両脱線、そこへ46両編成上り貨物列車が突入、特急16本、急行48本、電車55本など区間運休
→京阪石山坂本線 国鉄膳所駅で起きた脱線転落事故のため浜大津 ~ 石山寺間が運休急行「おき」機関車脱線転覆事故 6/28
午前3時40分ごろ 山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行きの急行「おき」を牽引中だったDD54 2が、駅構内のポイント通過中に異常音に気付き非常ブレーキをかけたところ、推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速したため、相対速度が低かったことから乗員乗客の一部が軽傷を負っただけで人命の被害は無かった。事故車となった
DD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役廃車となった。
とあるように、膳所駅構内の事故は、「居眠り運転が原因」とされていますが、動労は一言もそうしたことには、言及していません。
更に7月16日に発生した、御茶ノ水駅での追突事故も運転士の操作誤りと運転規則を無視したことがそもそもの始まりなのですが、これも動労はそうしたことはおくびにも出さず、合理化反対、労働強化であるとして、反対をしたのでした。
鉄御茶ノ水駅で追突 7/16
22時38分、中央本線・御茶ノ水駅に停車中の豊田行き(2239F 10両編成)に後続の高尾行き(2201F)が追突、双方の電車各5両が脱線 負傷者210名。。事故原因は2239F電車の乗客がドアに手を挟まれていた事から、発車した直後に非常停車の措置をとってホーム半ばに止まったところへ、後続2201F電車運転士がATSの電源を切った上、先発電車が発車して加速していると誤認し、見込運転を行なったことによる制限速度オーバーとブレーキ操作遅れが原因
国鉄当局は「EL・DLの機関助士廃止」を提案
動労は、合理化反対闘争を掲げ、運動をしていたのですが7月16日、「EL・DLの機関助士廃止」〈正式名称は。「EL・DL一人乗務の場合の動力車乗務員需給の見通し」)を提案、動労は機関車乗務員を多数抱えていたことから、こうした提案は合理化を前提としたものであるとして、拒否していきます。
更に、動労はさらなる合理化反対闘争として、国労と連携して順法闘争を行う方針を発表していきます。
なお、この時にATSが鳴動したら必ず止まるとした、安全運転闘争が順法闘争の一環として導入されました。
当局では合理化を進め、組合は反合理化闘争で対抗
国鉄が合理化、特に機関助士廃止に大きく舵を切る背景には、国鉄の財政赤字がその原因として有りました。
国鉄の場合、公共性を求められながらも、過去の陸上輸送の独占性と言う視点から、国鉄には公共性を求めつつ独立採算を強く求められるという矛盾がありました。
それでも、高速道路網などが完成していない時代でしたので、国鉄の輸送量も旅客に関しては右肩上がりの時代でした。貨物輸送もコンテナ輸送を中心に収益性を上げられた反面、ヤード系輸送では大きな赤字を計上するなど貨物輸送は赤字の元凶とされていました。
そうした理由もあり、国鉄としては何としても合理化により少しでも赤字を減らして収支均衡を図ろうとするわけですが、そうした動きに対して、組合は労働者の権利を全面に打ち出して反発することとなります。
動労にしてみれば、国鉄は政府に様々な足かせを填められて身動きできない状況でありながら、国鉄の赤字を言うのはフェアで無いとしてこれに対抗するべく反合理化闘争と言う形で政府に対して反発していくわけでした。
機関助士廃止の方針は、安全委員会の設置でひとまず延期
動労は昭和43年9月からの波状的集団行動を受けて、積極的に順法闘争などを実施していきますが。当局の方針は固く、一人乗務を強行しようとして組合との緊張が走ることとなりました。
こうした動きに対して、国労と動労は共闘で反対闘争を実施、更にはこの動きは総評も呼応し、更には社会党がこの問題を取り上げることとなり、総評と社会党で以下のような意思統一が図られたとされています。
- 懸案の二人乗務問題は、全て安全委員会〈仮称〉に依頼し答申を求める
- 答申内容については、団体交渉を行って決める
- 審議については期限をつけない
その後社会党と総評が上記三条件で交渉を行った結果、当局は総評の申し入れを原則的に受け入れるとして、改めて以下のような条件を動労に提示してきたと記録されています。
- 懸案のEL・DL乗務の安全問題については、別に設ける安全委員会に依頼する。
- 委員会からの答申内容は尊重し、労働条件については団体交渉を行う
- 確認事項として、調査の順序はハンプ〈操車場〉補機、入替の無い貨物列車などから実施し結論が出たものから逐次実施する
という内容で有り、3項の撤回を国労・動労は特に強く要望したこと、上記安全委員会は、労使双方から完全に独立したものとして機能する組織として設置されたことから。当局は昭和43年10月から順次実施予定であった一人乗務計画は延期されることとなりました。
続く
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