日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第七回

久々にアップさせていただきます。

今回は動労の三〇年史を参考に、アップさせていただきます。

動労は、ヨンサントウのダイヤ改正に向けて合理化反対闘争の観点から、当局が示した、5万人要員合理化案の撤回を求めて1968(昭和43)年6月10日、当局に合理化撤回を中心とした33項目の申し入れを行ったが、折悪しく6月27日に膳所駅脱線事故が発生しました。

この事故の直接の原因は機関士・機関助士両名が運転中に居眠りしたためであり、その概要は弊サイト国鉄があった時代には以下のように記述されている。

東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27

0時25分頃上り吹田操車場発青森行貨物列車 「第4北海」 が副本線へ待避の際、時速35km制限のところを約時速70km で分岐点へ突人、その際、機関車EF60119が脱線、約300m暴走、ジャリにめり込みやっと停止. 貨車は機関車との連結器がはずれ約30両が転覆、横転し、信号所、並進する京阪電鉄石坂線国鉄浜大津線へ突込んだ。 このとき架線の支柱が折れたことで、下り本線も支障。そこに、ほぼ同時に富山発吹田操車場行きの貨物列車3574列車が事故現場へ突入。架線の鉄柱に機関車 EH1018衝撃、機関車と貨車2両が転覆、特急16本、急行48本、電車55本など区間運休した
この事故では、機関士・機関助士共に居眠りしていたとも言われている
→京阪石山坂本線 国鉄膳所駅で起きた脱線転落事故のため浜大津石山寺間が運休→7/16 EH1018廃車

なお、この事故に関しては、動労の30年史にも記述はあるものの、この事故は、翌日に発生した、DD542号機の脱線転覆事故(棒高跳び事故と言われている)とともに、機関車の酷使、合理化による過酷な労働が原因であるとしていますが。

DD54の推進軸折損は、DD54を設計する際、オリジナルのDD91と若干設計変更したことなどが原因とされており、機関車の酷使とは言えず、膳所の事故に関しては乗務員にその責を問われるべき事となります。

ちなみに、DD54の脱線事故の概要は以下の通りです。

急行「おき」機関車脱線転覆事故 6/28

午前3時40分ごろ 山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行きの急行「おき」を牽引中だったDD54 2が、駅構内のポイント通過中に異常音に気付き非常ブレーキをかけたところ、推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速したため、相対速度が低かったことから乗員乗客の一部が軽傷を負っただけで人命の被害は無かった。事故車となった
DD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役廃車となった。

新車で完成して2年ほどの機関車を酷使によると言うのも無理があるのですが、なんとしても動労としては、当局の政にしたかったのだと思います。

なお、国鉄事故黒書では、事故の原因を居眠りであると認めているもののその原因は、当局の側にあるとしています。

その辺を少し引用してみたいと思います。

T機関士は持病として低血圧症であり、中略・・・・本人は京都までは正常運転を行っていたことをはっきり意識している。途中眠気を催し。山科の場内を通り過ぎる頃から頭がぼんやりしてきたので立ち上がって意識を取り戻そうと試みたが立ち上がることも出来ず、その後は覚えていない。

引用 国鉄事故黒書 国鉄の合理化と事故 P15

とあり、機関助士も同じ時間帯に居眠りをしていたのは、年休を申請していたにも関わらず当日になって拒否されたことが遠因では無いかと指摘しているわけですが、機関士はともかくとして、機関助士も同時に居眠りをしたことに対する言い訳としてはいささか苦しいものがあると言えます。

実際に、こうした事例に対する対応措置としてデッドマン装置が開発されており、電車では足踏み式のデッドマン装置が、機関車にはEB装置(emergency brake)が準備されていたにも関わらずこうした装置の使用を拒否してきたのが動労でした。

仮に、こうしたEB装置がこの時期にすでに稼働していたならば、少なくとも事故に至らなかった。途中で停車と言うことで問題にはなったであろうが。

鬼の動労



結局こうした事故が起こることに対して、近代化や合理化は、当局が儲けるだけの手段だと断定している所にかなり無理があるように見えます。

それでも、動労としてはこうした事故が起こることに対して、運転保安確保の闘争として位置づけ、当局に対して合理化反対闘争の交渉事項としてあげていた(一人よりも二人の目)のですが、結果的には何らかの物理的に鉄道を停止させることの方がより安全だと思うのですが、そうなると合理化で機関士乗務員などの数を減らされることを恐れての行動であったと言えそうです。

このように、動労はいろいろな理由を設けて合理化反対運動に取り組み、大学の教授などによる機関助士常務の有効性を示そうとしますが、結果的にその運動は上手くいかず最終的には当局に押しやられる形になるとともに、国労・鉄労に移籍する人も多く、組織崩壊の直前まで行ったことで、それまでの機関車同志会(後の(労運研))の流れをくむ比較的穏健派のグループは、徐々にその影を潜め、政研派と呼ばれたグループがやがて主流派となると、その運動はさらに過激となり「鬼の動労」と呼ばれるようになりました。


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