日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第三回

長らく開けてしまいましたが、生産性運動前に行われたEL・DL一人乗務反対闘争のお話をさせていただきます。

此処で参考にしたのは、当局が編纂した国有鉄道と呼ばれる雑誌を参考に、一部国労・鉄労・動労の資料等を参照しながら記してみます。

当時の動労は、主流派と呼ばれるグループと反主流派が常に激しく対立しており、組合内でのその勢力は徐々に反主流派が力を付けていく、そんな時代でした。

今回は昭和40年の動労大会に関する様子を中心に、動労の様子を「国有鉄道」という冊子から引用してみたいと思います。

当時の動労は主流派と呼ばれた(機関車同志会)と呼ばれる穏健派と、反主流派(政研派)が争っていたようで、徐々にその動きは過激さを増している様に記述されています。

当時の動労の運動としては、興味を引くのは以下の内容です。

一人一人が意識した行動を取る運動を導入

動労はこの年から新しい戦術として、全電通を真似た新しい闘争方式として、「就労しないストライキ」を導入した。

すなわち、職場に来るのでは無く自発的に自宅で待機してストライキに実質的に参加するというもので、その後の過激な安全確認闘争(いわゆる順法闘争)に繋がる方式を導入されたことが判ります。

この頃から、動労は主流派の(同志会)から、反主流派と呼ばれた(政研派)そして、近しい関係を保っていた反戦青年委員会を取り込みながら動労革マル派が支配する組合へと変遷していくこととなります。

その背景には、機関士の育成には時間がかかることからの独特の囲い込み意識も有ったのではないかと考えられます。

以下は、国有鉄道 1965年10月号 国鉄各組合の定期全国大会をみて 動力車労組

の項目から引用したものです。

ともあれ、賃金闘争に対する動労の基本的な考え方は、賃金は国家権力との対決であり、 労使の力関係によって決まるという原則である。これをもとに公労協、交運共闘等との統一闘争の中で賃金確定、配分闘争を結合させて解決をはかるというものだ。そして、闘いの手段としてのストライキは、「就労しないストライキとして職場に定着させ、 鋭さを増すよう配置することが、こんどの運動方針に新しく採用されているので目をひく。 これについて、本部は「組合員みずからの意思によって業務につかず、自宅で待機する戦術である」 と説明しているが、要するに全電通方式の自主的参加をねらいとしたもので、組織をあげて組合意識の高揚につとめようとする方向を示唆しているとみるべきだろう。

全電通方式というものがどのようなものであるのか、今後調べていく必要がありますが、一人一人が意識しながら、行動するストライキという点で、回想録などで順法闘争は一人でやり抜く闘争であったと言った手記が残されていますが、こうした運動方針が組合員に浸透していたからであろうと言うことが主たる要因と言えそうです。

動労が、単独でストライキを行言えるだけの力を付けた事にも注目

さらに、傍聴した記者が注目したのは、動労が単独でストライキをするだけの力を付けたと自信を見せている点でした。

以下のように発言しており、堂々と国労のスト延期などを批判しており、動労単独でストライキをしていけるという自信を付けたとして、発言している点が注目されます。

それと同時に、4.30ストが採用した重点拠点方式も、国労の共闘がなくても列車をストップさせる自信をつけた、と評価し今後も採用していく方針を明らかにしている。公労協の中核といわれた国労が、4.23ストを延期した行動に対し、「絶対に認めることができない」 と強い批判を打ち出していることと合わせ、動労のこのような”高い姿勢”は大いに注目してよいことがらであろう。

ちなみに、4.23ストを延期した行動とは、以下の行動でした。

国労、4/23の半日スト延期指令 4/22
動労は全国6拠点で6時から8時までの時限スト実施、ローカル線が主だったことから列車への影響はほとんどなし 4/23

ここにあるように、拠点ストを動労は単独で行ったことで、自信を付けたと発言したわけです。

ちなみに、4.30スト配下のようなストライキでした。
仲裁裁定への移行で交渉 4/29~4/30

公労委は、スト前夜の4月29日から30日未明まで協議を重ねた結果、29日中に話合いのついた私鉄の相場を考慮することで、国労を除き仲裁委への移行を了承、したが、国労は、当局側との自主交渉を主張。30日早暁から折衝に入り、5時15分に了解に逢し、直ちにスト中止指令を発したが、運休は、国電424本、24本の旅客列車、37本の貨物列車に遅れとなった
国労動労の一部、私鉄中小の一部がスト突入、最悪事態は回避し、新賃金は仲裁委へ 4/30

動労は拠点ストであったと思われますが、資料不足で十分確認は取れておりません。

ただし、動労が採用した拠点スト方式は、有効であるとして今後も戦術として取り込むと明言しており、徐々にこうして動労はより過激な方向に進んでいくのでした。

 

続く

 

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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第二回

2ヶ月ほど放置状態になっていました。

申し訳ありません、今回も国鉄の生産性運動前後の国労動労の動きと言うことでお話をさせていただこうと思います。

動労の松崎委員長とは

動労と言う組合は、国鉄末期には革マル派という答えが返ってくるかも知れませんが、委員長の松崎明が、革マルの幹部であったことからとも言われました。

更には、鉄労と協調して労使協調宣言すり寄っていくイメージを持たれる方も多いかと思いますが。

動労が過激な方向に走り、革マル派が増えた背景には、当時の動労の委員長松崎明の存在が大きかったと言われています。

動労を過激な運動組織にしていった背景には松崎の存在が大きいと言えそうです。

国鉄動力車」という本によれば、当初の動労というのは職能組合として、極めて穏健で昔ながらの職人気質の性格の組織であったと回想しています。

松崎 なんと言っても当時の機関車労働組合というのは、メーデーその他の集会に行っても歌一つうたえない。デモも基本的にできないという労働組合であった・・・職場の段階では、ある意味では当局に庇護されている様な職能イズムな運動であったから、したがって職場闘争というものは全くない・・・以下略

国鉄動力車 P46 あるべき運動の姿 から引用

と有るように、当時の動労は職能組合として極めて階梯意識の強い組合であり、機関区という独特の組織であったと回想しています。

そうした中で、松崎らは青年部を動労の中にも結成させると共に、そこで頭角を現すことになります。

機関車労組は先細り という不安から?

青年部は郵政の全逓国労も比較的早くに誕生するのですが、動労昭和36年まで待たねばなりませんでした。

その背景には、前述のように階梯制意識の強い職場であったことも大きく影響していました。

当初機関車労組と名乗っていたのですが、国鉄が動力分散化方式を選択する中で、機関車労組は、その名称を昭和34年動力車労働組合動労)に変更することとなりました。

その背景には、国鉄が動力近代化として気動車や電車などの動力分散列車を中心に構成することとなり、機関車を漸次廃止していく方針としたことも要因だったようです。

ここに昭和32年当時の機関車労組の地方別国労・機労の組合員の比率を示す資料があります。交通年鑑の資料を基に筆者が作成したものです。

昭和31年、組合別構成員数

昭和32年鉄道年鑑資料から引用

これによりますと昭和31年当時の全国の国労組合員359,235人にこれに対して機労組合員は、全国で53,495人、その比率は全国平均17.99%となります。

機関士が全員機関車労組組合員というわけではなく、国労に残った機関士もいるため、東京などでは極端に少なくなっていることがご理解いただけると思います。
また、電化や気動車化で機関区が気動車区や電車区に改変もしくは統合される場合もあり、その場合は機労から国労に変わることから、機関車労組の組合員が相対的に減少していくという問題も抱えていたようです。

マスが黄色のところは、全国平均よりも機関車労組の組合員が多い管理局を示しています。

二つの派閥が動労内で誕生

機関車労組は、昭和34年7月24日~28日の機関車労組全国大会で組織名を「動力車労働組合」に変更することを決定しています。

ここで、改名すると共に、総評への加入を試みた点は注目に値されるかと思います。

その背景には、前述の通り当局の合理化による組合員の減少を懸念したものでした。

そして、もう一つ注視すべきことは、機関車労組の中では二つの派閥が生まれていたことです、昔ながらの職能別組合を目指す、国鉄一家主義を肯定するグループ(機関車同志会)と、左翼的要素が強く、総評加盟を目指していたも政策研究会でした。

  • 機関車同志会(後に労運研)
    昔ながらの機関車労組の階梯組織を意識した組織
    秋田、仙台、千葉、金沢、広島、四国、門司地本
  • 政策研究会(政研派)
    左派的要素が強い組織で、翌年誕生する青年部を応援することとなり、動労左傾化を進めることとなりました。
    釧路、旭川、青函、盛岡、高崎、東京、名古屋、大阪、岡山

政研派は、初代青年部長に就任した松崎明(東京地本出身)らを育てる方向に進み。やがて主導権を労運研から奪うこととなりました。

これは、全逓(郵政の組合)や国労が青年部を抑え込もうとしていたのに対して反対の動きを行った訳で、結果的に動労は機労誕生当初よりも攻撃的な組合へと変質することとなり、初代青年部委員長が革マル幹部であった松崎明であったことが、動労革マルという認識を持たせることとなりました。

機関車労組第9回全国大会を開催 国鉄動力車労働組合と改称 7/24~7/28

甲府市において開催し、運動方針、役員の再選を行い、名称を動力車労働組合と変更。総評加盟問題は136対112で否決となり、本年度は総評加盟の方向を指向するということになった

国鉄があった時代 昭和34年後半

青年部初代委員長で松崎明は頭角を現す

動労自体は、やがて主導権は政研派が握ることとなり、国労以上に過激な組織となっていくわけですが、その背景には松崎明が(政研派)をバックとして先陣を切る形となって新しい時代の組合運動を行っていった点が大きいと考えられます。

そうしたことを容認した背景には、機関車乗務員の養成は時間がかかるという事も大きな課題でした。

更に、国鉄が進める無煙化と動力分散方式への移行は動労にしてみれば前述の通り機関車が無くなる=職場の減少に繋がるわけですから、それは組合員数の減少を意味しますので。

動労は、ここで昭和36年以降積極的に合理化反対闘争を打ち出します。

以下は、弊サイトから反合理化闘争を抜粋したものです。

昭和36年

反合理化闘争で動労が9拠点で十割休暇闘争(当時はストライキとは言わなかった。)実施 3/15

全国9拠点(旭川長万部・青森・浜松・奈良・高松・広島第二・鹿児島)で十割休暇闘争を実施、これにより動労は「協議においては相互の完全了解を図ることを目的」とするなど、当局が一方的に実施できないようになった

昭和38年

動労、3・31闘争 3/31

EL・DL時短、2人乗務維持闘争など

動労、12・13闘争を実施 12/13

車検委答申に基づく基地統廃合反対闘争

総評年末第三次統一行動。動力車は時限スト 12/13

昭和40年

動労 白紙ダイヤ改正反対闘争 9/22

動労 12・10闘争 12/10

EL2人乗務、東北・常磐線電化問題を議論

昭和40年

動労、運転二科反対闘争 3/29

動労、反合理化、反戦統一闘争 10/21
(総評の統一行動で、五四単産ベトナム反戦統一ストを決行)

動労を中心とする、反合理化闘争 12/23

業務の部外委託、職業教育制度、乗務員賃金・時短などを当局側が提案に対し17拠点において半日ストライキが行われた
昭和42年
春闘第二次統一行動。全国金属、全日自労、民放労連動労新聞労連、全印総連など11単産、半日から30分の時限スト。国鉄労組は時間外の職場集会 3/30
動労は、反合理化闘争として位置づけ、検修新体制・助士廃止などに反発
国労動労、5万人合理化反対の共闘組織として「国鉄反合共闘委員会」を設置 12/7
 
国労国鉄当局が提案した「5万人合理化」と米軍需物資輸送に反対して順法闘争を実施 12/12~12/15
「当面の機械化、近代化計画」に反対する国労動労の両労組は、15日早朝の中止まで4日間にわたり、「順法闘争」を行なった。重点がおかれた東京周辺の国電各線は、運休や遅延があいつぎ、終日ダイヤが乱れ、同期間で延べ300万人の通勤客の足が混乱
今度の闘争は、平常は安全性を軽視した無理な運転を行なわせているだとか、規定に従った仕事をすれば列車は当然に遅延するものだというような印象を世間に与えているが、ダイヤを乱すことを目的としたサボタージュであって、故意に規則を曲げて解釈(注意信号で、一旦停車するなど、異常事態がないのにノロノロ運転をすることで、大幅にダイヤを乱す事を目的としていた

昭和43年

国鉄労組、反「合理化」で第2次順法闘争 2/27~3/2

国労27地本で、第二波闘争が実施され、通勤通学列車に大きな乱れか生じた動労動労28地本を中心に第4次全国統一行動・順法闘争 最終日の3月2日 国鉄労組は機関区、検修関係職場、工場など 全国38拠点で半日スト。動労も13拠点でスト。時短など一部は前進したが大部分は引きつづき協議
国労動労合理化反対闘争第二波半日スト 3/2
全国50ヵ所の車両修理工場・機関区・運転所、駅等で4時間の時限ストに入り、大幅な列車の混乱が生じこの影響は3日まで、動労も資料では、検修新体制、助士廃止、苦い委託、事務合理化を前面に出したストライキを実施
国労動労 第三波合理化反討闘争 3/12~3/15
国鉄の機械化・近代化に伴う5万人合理化計画をめぐって、12日から15日までの4日間、国労動労反対闘争に入り、「サポ運転(遵法闘争)」を中心に下ストライキが行なわれた
国労動労スト(反合理化闘争 第3波、全国で1,276本運休、中間抑止54本 3/23
国労(第2波)・動労(第6次)始業時から、デイーゼル電気機関車の1人乗務化反対を掲げる、全国一斉順法闘争に突入 9/9~9/12
国労動労による10月時刻改正、1人乗務化反対闘争による第2波で、国労は全国の駅、車掌区、客貨車区、運転所、機関区、工場など 114カ所で順法闘争。

国労動労、3時間から4時間の時限ストに突入。列車ダイヤ混乱 9/12

時限ストを前にして、労使の交渉は続けられたが、予定通り、全国33拠点が、正午頃まで時限ストに突入。このため、列車運休300本のほか、東海道山陽本線の特急が20~90分の遅れを出し、ダイヤの混乱は正午すぎまで続いた
動労は、反合理化闘争第4波と位置づけ

国労動労時限ストに突入したが、EL・DL問題で了解点に逢し、午前6時~8時中止された 9/20

昭和44年
国労動労は、一人乗務に対して反対闘争を行なうことを表明 5/12
国鉄機関助士廃止問題・国民安全調査委員会」発足 5/24
動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~

動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28
機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された
動労はこの闘争を反合理化闘争、第6波と位置づけ

国労動労17時間ストに突入 -EL・DL1人乗務反対-反合理化闘争第7波 10/31

EL・DLの助士廃止に関する団体交渉は精力的に行なわれたが、ついに合意に達せず、国労動労は北海道から九州に至る太平洋ベルト地帯の主要幹線で、17時間といういまだかつてない大規模のストに突入。そのため各線はかなりの混乱をみせたが、28日の異例の支社長、関係管理局長会議の召集や関係局の綿密な諸対策の結果、貨物列車の早め待避や、乗務員の確保に万全の努力が尽され、列車の遅れ、乱れは予想よりも少なかった
「10月決着」ということで労使合意に達した筈の1人乗務問題、話し合いによる円満な解決をという国民の願いはまたもや裏切られ、相変わらずの実力行使による違法ストとなった
このため、1日朝の国電湘南・横須賀線がマヒ状態になったのをはじめ東海道、中央、山陽、鹿児島線など、主要幹線のダイヤが大きく乱れた。労使交渉の結果、当面3,300人から3,500人の助士を残す。一人乗務旅費を5割増、1日平均7時間を標準とする等残すほかで合意し、1日13時間半におよぶストが中止され、3年越しの助士廃止問題に決着がついた

 

長々と書き並べてしまいましたが、松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車 P82~84の61年から69年の闘いを参照しながら、弊サイト「国鉄があった時代」から該当闘争を抜粋したものです。
 
今回は、動労の歴史特に、松崎明という人物を中心に語らせていただく部分が多々ありました。事実の羅列ばかりで面白みには欠けますが、資料としてご覧いただければ幸いです。

続く

 

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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)

動労と生産再運動と言うことを検討する前に、もう少し時代を遡って、動労による機関助士反対闘争についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

動労の行った機関助士反対闘争とはどのようなものだったのか?

動労による機関助士反対闘争は、昭和42年3月に国鉄当局が5万人合理化の一環で打ち出したもので、

国鉄各組合に五万人の合理化案を発表 3/31

国鉄当局、三労組に対し第三次長期計画のための近代化・合理化案を提示。国労動労、「合理化」案に対し断固撤回を求めると抗議声明 3/31

ということで、特に機関車乗務員を多く擁する動労では、EL及びDLにおける機関助士の反対運動を強く打ち出していました。

そして、この運動はた昭和43年9月20日, 「安全問題については,第3者による調査を依頼し, その答申を尊重し、労働条件については協議して きめる」ということで当面の集約が行なわれたと以下のように記されていますが。

当然のことながら、これに対してより有利な条件を引き出したい動労は、一人乗務反対闘争を打ち出し、当局と激しくタイル津することとなります。

 

この運動に関しては、当局側の見解ではどうであったのか?

国有鉄道 昭和43年11月号 EL・DL一人乗務問題では以下のように総括しています。

  • 国鉄ではEC・DCにあっては原則的に一人乗務であり80%が一人乗務となっていること。(タブレットの授受を伴う優等列車の場合などは助士が乗務)
  • 蒸気機関車のように機関車操作と焚火作業と言う業務を分担しているわけではにないこと
  • 機関車も1960年頃からデッドマン装置(EB装置)を整備するなど、一人乗務に対するバックアップが行われていたこと。
  • ATSその他の保安装置も整備されてきていること
  • 外国では既に機関車も一人乗務が進んできていること

等を理由に挙げていました。

以下を引用してみたいと思います。

国鉄における近代動力車の乗務員数問題は,動 力近代化の進展に伴い、すでに昭和34年から労使 間で取り上げられており, EC・DCについては 組合と協定を締結し、約80%が1人乗務となって いる。
いわば,近代動力車の1人乗務問題は,今日ま で10年近い経緯をもっているものであって、突然に昨年提起されたものではないといえる。
もちろん、今回提案した,EL・DLについて も近代動力車という点に変りはなく、本来的に1 人乗務が可能なような車両構造となっている。
すなわち、蒸気機関車が操縦作業と焚火作業と いう異質の2作業があることにより機関士,機関 助士の2人が必要であるのに対し,近代動力車 は、焚火作業の必要性がなく、機関士1人で操縦 できるようになっている。
さらに保安の点からみても、車両設備の近代 化、ATSの完備,信号機など地上設備の整備, 増設などを行ない、安全度の面でも何ら心配ない ようになっている。
ちなみに、1人乗務について外国の例をみてみ ると,欧米鉄道においてはすでに1人乗務が実施 されており、特にスイス連邦鉄道では98%が1人 乗務となっている。このほかイギリス国鉄58%、 (EL・DL), フランス国鉄=EL25%, DL38 %, スウェーデンDL 90%, アメリカ90%(貨物) など逐次1人乗務化が進められており,日本の大 手私鉄をみても、ELはすべて1人乗務となっている。

と書かれているように、国鉄としては、近代動力車の一人乗務を進めたいのですが、その背景には国鉄財政が、4年続きの赤字であること。

その解決のためには合理化を行う必要があるとしていたわけですが、当時の国労動労にしてみれば合理化=人減らし・・・組合員の減少という考え方に凝り固まっていて。

そこに、階級闘争という考え方が入ってくるものですから、合理化を受け入れることは資本家の搾取をさせるものだという考え方に陥っていました。

実際、生産性運動が始まってからの攻撃でもこの辺を常に突いていたことからも窺えるわけですが、少なくとも当時の動労にしてみれば、動力車乗務員を囲い込んでおきたいという思いは人一倍強かったと思われます。(機関車乗務員が全員動労と言うことはなく、電車運転士などは国労も多く、もちろん鉄労も居たわけで、完全な職能別と言うわけではなかった点は注目していただきたいと思います。

国鉄は、昭和42年度の決算発表した時、組合に対しても合理化方針を提示、その1週間後には国労動労は、機械化・近代化に反対して闘争を行うという方針を発表しています。

昭和43年 年表 出典:国鉄があった時代

昭和42年度決算発表 8/16

42年度決算を4年続きの赤字で 繰越欠損金1,477億円、長期負債1兆6,435億円と発表

中略

国労動労ダイヤ改正 反合理化闘争方針発表 8/22

労・動労は、22日、10月ダイヤ改正と、機械化・近代化に反対して闘争を行なう方針を発表

国労・動労、ダイヤ改正 反合理化闘争方針発表 8/22

国労動労ダイヤ改正 反合理化闘争方針発表 8/22

これに対して、国労動労は上記のように反対闘争を打ち出します。

更に。動労社会党を通じて、反対運動を展開していくこととなります。

以下は、当時の議事録を参照したものからの引用ですが、こうした質問は動労からの意向を受けて行われたものでした。

該当部分だけを抜粋してみたいと思います。

第57回国会 衆議院 社会労働委員会 第2号 昭和42年12月14日

 

○後藤委員 前略
 さらに機関車乗務員の、機関助士を廃止してしまおう。これもことしの初めに動労のほうには説明があったそうでございますが、来年の四月ごろからやるという説明が、一月一日から実施をしたいというふうなことで、そういうふうなやり方自体が今日のこういう事態を起こしておる原因ではないだろうか。聞くところによりますと、両組合におきましても、合理化問題につきまして反対はいたしておるけれども、この問題についてはこうだ、この問題についてはこうだといって、きちっと整理をしておるそうでございます。何でもかんでも、とにかくまっこうから反対なんだという態度ではないと私見ております。ただ、これらの問題を、労働組合と管理者側のあなた方のほうと、十分な話し合いもせずに、来年四月にやると言っていたものを一月に繰り上げて実行しようとしたり、あるいはいままで団体交渉もやらずに一片の説明だけで終わってしまって、すぐ合理化の実行に移してしまおう、こういうふうな無理な持っていき方をされたところに今次のようなこういうかっこうが生まれたのではないだろうか、こういうように私は考えておる次第でございます。
中略、人間は感情の動物でありますから、どうもこじらかす原因がそこらにあるのではないだろうかというふうに私は考えるような次第でございます。この点についてどうお考えになるか、ひとつお答えをいただきたいと思います。

 

後藤委員(後藤俊男)とは、日本社会党の議員  国鉄職員です。

参考:衆議院議事録 *1

 

同じく、参議院議員の議事録も参照してみたいと思います。

○稲葉誠一君 私は、日本社会党を代表しまして、今日、国民が最も不安に思い、明らかにしてほしいと考えていることを、率直にお尋ねいたします。

中略
  第三は、国民生活に関しての問題であります。国民生活は不安で一ぱいであります。物価はさっぱり下がらないし、その上、合理化攻撃が労働者に加えられております。物価については、さきに質問がありましたけれども、一体、上がることをいいと考えているのか、悪いと考えているのか、やむを得ないと考えているのか、アメリカなどでは一、二%くらいであるのに、なぜ日本だけこんなに上がるのですか。政府は、本年度どういう抑制策をやるのか。勇断をもってやると言いながら、さっぱりやらないではありませんか。自由主義経済では本来、物価の抑制というような問題に対しても限界があるのですか。中小企業は三月危機におびえております。大企業は栄えても、それが中小企業に回ってくるころには、不況がきて、しわ寄せがくるのですからたまりません。もちろん三公庫の四半期ごとの融資も一~三月はふやすと言っておりまするけれども、それだけでは足りないのでありまするから、四十三年度予算の事実上の先食いをしてまでこれを救済すべきではないでしょうか。
 国鉄の五万人の合理化問題は、基幹産業という名のもとに、独占資本の特別運賃輸送や赤字線区の建設、借金をさせての膨大な工事計画などで採算の合わない政策を押しつけるために、労働者の犠牲による合理化を徹底してやろうとしてこの案が作成されました。輸送力は四十六年には二百五十万キロに達するわけですから、増員こそ必要なのに、このような提案は、首切り、労働条件の低下を招き、安全輸送に影響を及ぼすものではないか。したがって、撤回すべきものと考えるのでありまするが、どうですか。機関助士の廃止は合理化以前の暴挙であり、保安を全く無視しているのではありませんか。検修新体制にしても、経費節約の美名のもとに各地方間の競争と職場の締めつけ、要員の圧縮が行なわれます。このようにした結果、事故が起きたら一体どうするのですか。その責任を総理大臣や運輸大臣、あなた方が負うのですか。国鉄の赤字問題は、国家がどの程度協力するかにかかっているわけです。造船には百二十五億の利子補給をし、国鉄に五十四億とは非常におかしい、増額すべきではないでしょうか。国鉄運賃や私鉄運賃の値上げは国民生活に非常に大きな圧迫を加えておりまするので、運賃、定期とも値上げを差し控えるべきではないですか。特に私鉄が巨額の利潤をあげておりながら、これに便乗をして定期代の値上げをはかるというのは許せません。所見を承りたいのであります。運輸省汚職が多過ぎます。綱紀粛正の措置と運輸行政の今後のあり方についてのお考えをお聞きいたします。
 以下。略

稲葉誠一日本社会党議員で、検事・弁護士から社会党代議士になっています。

参考:参議院議事録 *2

なお、全文は、別途blogに抜粋して貼付しておきますのでそちらをご覧ください。

全文はこちらを参照してください。

jnr-era.blogspot.com

jnr-era.blogspot.com

このように、動労は総評を通じ、日本社会党からも機関助士反対闘争を行ったとされています。その辺は、国鉄動力車 順法闘争と労働運動では、以下のように記述されています。

一方、国会においても社会党を中心に、社会労働・運動各委員会で運輸省国鉄当局に対する追及が行われたのであるが、世論操作の担い手であるマスコミは、助士廃止を"果たして安全か"という方向でキャンペーンをはったのである。

 それは、国会における社会党の追及などが"二つの目より四つの目”"安全確保こそ国鉄輸送の最大使命"という観点に立ち、もっぱら助士は医師が危険だという論拠をしめしたこともあって、輸送の安全確保という観点から助士廃止をとらえ、国鉄当局は科学的に"安全性"を立証するべきだという論調を連日のように掲載した。

参考資料:国鉄動力車 順法闘争と労働運動 *3

 

思わず、長くなってしまいましたので、機関助士廃止反対闘争のところで終わってしまいましたので、機関助士反対闘争に関してもう少し続けさせていただきます。m(_ _)m

 

続く

 

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*1:第57回国会 衆議院 社会労働委員会 第2号 昭和42年12月14日

*2:第58回国会 参議院 本会議 第3号 昭和43年1月31日

*3:松崎明 谷恭介 共著 三一新書

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に

久々に更新させていただこうと思います。

生産性運動に対して有効打を打てないままの国労にあって、国労はこの後動労と一緒に反撃に出るわけですが、ここで少しだけ寄り道して、当時の組合を取り巻く事情を考慮してみたいと思います。

生産性運動への反対は青年による突き上げが大きかった

有効打を打てないままずるずると追い詰められていった国労ですが、ここで少しだけ当時の動労の様子も見ていきたいと思います。

この頃の国労動労も生産性運動に対する有効な打開策は見つかっておらず、国鉄当局自身が生産星運動は経営哲学であるとして、ここまで進めた以上当局もおいそれと看板は下ろさないであろうと、その反面、国労動労も理念だけの反対であり、

組合側は 「特効薬はない ,反撃あるのみ」といって ,反対闘争を展開する。これでは一体どういうことになるだろうか。目下のところ,泥沼闘争化するだろう 、という予想しかつかないわけである。

労働評論家有賀宗吉氏は手厳しく述べています。

f:id:whitecat_kat:20220414235251j:plain

国有鉄道1971年10月号

その後のスト権ストなどでも、共闘する動労ですが、この当時の動労はかなり厳しい状況に追い込まれていたようです。

元々、機関助士反対闘争で多くの処分を出してきたこともあり、そこに来て生産性運動による脱退、鉄労への加入もあって、国労内でも動労を再び統合すべき時期に来ているのではないかという風潮がありました。

動労はかなり厳しい組織運営を迫られることに

元々、機関車労組として出発した動労昭和32年に改名)では、元々は穏健派の同志会(後に労運研)と呼ばれるグループが中心で、結成当初は本社運転局が後援したとも言われたが、この頃には反主流派である左派の「政策研究会(政研派)」が徐々に力をつけて行くとともに、政研派の影響を強く受けた反戦青年委員会を中心とするグループが生産性運動反対の急先鋒になっていったわけで、これは国労も同じく、青年部による行動が大きかったと言えます。

この頃の動労は、反戦青年委員会の力が強く(これは国労も同じですが、国労は彼らを封じ込める方向に動いたのに対して、動労は政策研究会(政研派)がむしろ擁護に動いたこともあり、後に鬼も動労と言われるような過激な運動に向かうこととなりました。(反戦青年委員会の中には、動労ではその急先鋒と言えたのが、当時、動労東京地方本部書記長であった松崎明(本人は、1963年に国鉄を解雇されており移行は専従組合員)であり動労は更に過激な集団へと進んでいくことになります。

そんな中で、動労自身は比較的穏健であった同志会(後の労運研)は徐々に追いやられていくこととなります。
そこで再び視点論点を参照しますと、国労動労に対して下記のような発言をしています。

現在の動労について、組織の危機というような点がささやかれ,国労の運動方針には、「動労に対しては、近い将来恒常的な共闘態勢の発展の中から、組織の統ーをはかるよう 、ねばり強く呼びかける」と書かれてお り、両労組の合併も時間の問題ではないか、と見ている 人もいる位 だ。動労の幹部の心のうちには,祝賀気分にひた
ってばかりはいられない、きびしい何ものかがあったと思う。

これに対して動労はコメントを発表していませんが、鉄労も同様に新組合員獲得に動いており、動労としてはかなり厳しい状況に置かれていたことは間違いないかと思われます。

鉄労は以下のように鉄労大会で発言

ここで当時の鉄労はどのように生産性運動を捉え、また行動していたのかというと、鉄労も新規組合員獲得に向けて、下記のよう運動方針であったとしています。

ここでは、国労権利闘争史から引用してみたいと思います。

鉄労の第4回・第5回全国大会での組織拡大・強化策は、当時の国鉄の実情を理解するのに欠かせないものといえる。まず、鉄労は、国労組織について、「この1年間に2万5000名減少し、71年6月1日現在24万台に凋落し・・・全施労*1の結成、大量処分発表」などにより「大きな動揺と混乱が続き、ますますその混迷を深めており、10万台への落ち込みは時間の問題」であると分析した。動労もこの間「5000名の脱退で5万を割り、崩壊寸前の様相を深めて」きたと評された。そして、このような組織情勢のもとで、「勢いの乗ってきた私たちの組織が10万から15万への躍進のチャンスを掴むことによって、国労に追いつき、追い抜き、主力組合に躍進する組織展望が10万達成を足がかりとして切り開かれた」とその自信のほどを示した。

とあるように、国労動労にとっては逆風であった生産性運動は鉄労に取っては追い風となっていたことは間違いないと思われます。

動労における派閥とは、労運研、政研派、中立【共産党を含む】の3派が鼎立、反戦青年委員会が政研派と接近することで動労は過激な方向に

動労における派閥とは

その反面、動労国労からも、鉄労からも草刈り場のようにされていしまった背景には、いずれ祖検証していく必要はありますが、動労が行った機関助士反対闘争でした。

機関助・・・蒸気機関車時代は必須で、開業当初は火夫(Fireman)後に「釜焚き」等とも呼ばれましたが、この存在は必要不可欠でしたが、動力近代化で無煙化されると、信号確認やタブレットの授受などが主な仕事であり、特に電化区間では自動信号化されている場合ほとんど信号確認だけと言うことになり、その処遇をどうするかという問題がありました。
そこで、合理化の一環で機関助士廃止が当局から提案されるものの機関助士の廃止は組合員の減少に直結するとして、長期の反対運動を展開、その中で解雇者を出すなどして行ったことから、組合を脱退するものも多く、機関助士反対闘争自身は、動労は敗北することとなります。

 

参考:機関助士反対闘争に関する記事

whitecat-kat.hatenablog.com

機関助士反対闘争中に起こした、米軍燃料輸送列車事故
【二つの目より四つの目】と言って反対してきたが・・・四つの目が事故を起こしてしまったわけで、その根拠はと問われることに。

ameblo.jp

続く

 

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*1:保線区を中心に分裂した組合で、一時期は保線区の大半が移籍すると思われたが、国労の介入で一部のみに留まることに

生産性運動導入から、中止まで 第二十九話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から 第2回

国労視点から見た、生産性運動

国労は当初は軽く見ていた生産性運動ですが、その動きは燎原の火のごとく広がりを見せ、毎月減少していく組合韻を目の当たりにして強い危機感を覚えるのですが、これといった有効打を打ち出せずにいました、そもそも国労では、生産性運動そのものについては、以下のように捉えていました。

国労から見た、生産性運動は

  • 鉄労組合員の育成
  • ストライキを行わせない組織の構築
  • 分会組織の分断、並びに弱体化

にあると考えていました。

実際、当時の鉄労では一〇万人加入を目標に行動しており、当時の職員数は四〇万人ほどいましたので、一〇万人を達成すればかなりの力を持つことになるわけで、鉄労としてもこれは達成したい、逆に言えば子黒にしてみればなんとしても阻止したかった現実でした。

国労は周知宣伝活動を図るが

そこで、国労は、多額の広告宣伝費を使って、ここが変だよ労働運動と言ったチラシなどを作成して国鉄当局を激しく批判することとなるのですが、こうした取り組みは最初はあまり上手くいきませんでした。

生産性運動 国労チラシ

生産性運動①

生産性運動 国労チラシ

生産性運動②

上記の2枚の画像は、国鉄マルセイ闘争資料集に収録されているチラシであり、実際は色刷りだったようで、当局が発行していた生産性ニュース下図参照は、モノクロで、現場の声を届けるとして、見かけよりも質を重視した内容でした。

職員局の能力開発課が発行した、生産性ニュース、モノクロガリ版刷であった

生産性ニュース創刊号

この時期、生産性教育を受けた国労動労の組合員はこぞって職場での生産性運動と言うことで新たな取り組みを始めて行くことになります。

また、これに伴いストばかりする国労動労から自らの意思で鉄労に加入する人も出てくるのですが、ここで現場の助役の中には、国労動労を脱退させて鉄労に加盟させることが労働運動であると勘違いしたり、結果的に自主的な時間外労働(いわゆる無償の時間外労働)を強要させる傾向があると現場でも報告されることとなりました。

生産性運動は、国労・動労の組合員の減少を招き鉄労組合員画像化することとなった

生産性運動は、国労動労の組合員の減少を招き鉄労組合員画像化することとなった。

生産性運動が首切りに繋がるのではないかという不安

生産性運動は、一人あたりの生産性を向上させると言うことで積極的な合理化が行われることを意味するわけで、それは結果的には作業人員の削減を伴うわけです。
民間企業であれば関連事業やグループ企業への出向・転籍もありますが、国鉄では関連事業の展開なども民業圧迫の名の下、自由に振る舞えず。
結果的には雇用不安を引き起こすのではないかということを組合は懸念することとなりました。

その辺の当時の事情を「大野光基著、国鉄を売った官僚たち」から引用させていただこうと思います。

事の始まりは、生産性運動による合理化で余剰人員が出たときにどうするのか?、配転で応じるとした当局の対応に、配転はいやだとごねるものあり、そのうち配転は受け入れるべきだという意見も出る中で、今度は余剰人員=整理解雇になるのではないかという意見が出てきて、これに対して当時の本社、能力開発課長が「首切りはしない」と宣言するも中々納得してもらえなかったため、総裁談話として掲載してもらうことにしたのでした。それが以下の記述になります。

「配転には応じるべきだ」

と言う意見が出たので、しばらくは若者たちの討議にまかせた。

次に、首切りするのじゃないか、と聞いたものがある。私は、

「首切りは絶対にしない」

と言った。

「課長がしないと言っても、総裁がしないかどうか分からないじゃないか」

と言う、

中略

若者たちの言う通りだ。生産性運動が究極的に首切りになることは、何としても阻止しなければならないと私は考えた。まず、真鍋常務に話した。

「そうか」

と少し考え込んでいたが、数日後、

「それもそうだな」

と了解してくれた。磯崎総裁には真鍋から了解を取ってもらった。しかし、口頭了解だけでは安心できないので文書に残すことを考えた。

中略

三坂職員管理室長の応援もあって、次のような文章となって「鉄道広報」に掲載された。

国鉄職員としての使命を自覚し、企業を愛し、再建に努力する職員の雇用安定には全力をつくす」

引用終わり

長くなってしまったのですが、究極の生産性運動は人減らしを行わざるを得なくなることを指摘したわけですが、これに対して東京側では、国鉄職員としての使命を自覚し、企業を愛し、再建に努力する職員の雇用安定には全力をつくす」と言う総裁談話を引き出すこととなりました。

このように、当局としても生産性運動に対する不安を払拭するための努力は行われたのですが、結果的には、前述のように生産性運動が無償時間外労働を強要することとなり、本来の生産性運動という概念から離れていく事例も見受けられました。

結成当時から生産性運動を提唱してきた鉄労もこうした事態に関しては批判をしているのですが、国労はこれを機会に不当労働行為告発メモとして、個々に団体交渉を行うのですが、中々有効だとはなり得ませんでした。

その背景には、国労動労理論武装は、階級闘争の再確認であり、以前にも書きましたが、管理者以上は資本階級であるという誤った認識(管理職は経営陣ではないことは当然のことなのですが、資本階級VS労働者という構図を作り社会的分断を図っていました。)により、国労は組合員の引き留めを図ろうとしますが、まだまだ十分とは言えませんでした。

そして、国労が取ったもう一つの行動はマスコミを味方の付けることでした。

現在のようにインターネットが普及していない時代、多くの人々はテレビ・ラジオ・新聞等を通じて情報を得るわけですが、とりわけ新聞の効果は大きく、国労はマスコミを通じて反マル生運動に取り組んで行くのでした。

生産性運動、不当労働行為告発調査団歓迎の垂れ幕を掲げる国労組合員

不当労働行為告発メモ

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第二十八話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から

今回は、国労編纂のより、国鉄労働組合四〇年史を参照しながら、生産性運動に関しての国労の言い分を見ていきたいと思います。

生産性運動と深刻な国労離れ

生産性運動は、職員の意識改革を図るものということで、国労動労から脱退して鉄労に加盟する組合員も増えていきました。

これに対して、つなぎ止めるための方策を練るわけですが、妙案は有りませんでした。

また、国労自身は、1970年の秋頃まではさほど重要視はしていなかったと自ら告白しています。

むしろ、国労本部には、「反合理化闘争」と「スト権奪還闘争」に主眼が置かれていたと言われています。

国鉄労働組合四〇年史では以下のように記されています。

運動の軸は、組織力の着実な前進を基礎に、「反合闘争」と念願の「スト権奪還闘争」に置かれていた。このため、「マル生」運動に対し、「非人道的、人権無視の行為・・・国労に対する全面的な組織破壊の挑戦」で有るとの認識は、未だ明確ではなかった。

とありますように、国労本部の認識は、生産性運動はさほど重要視されていなかったとされています。

この方針が変更され、本部が本腰を入れ始めたのは、1970年の11月から12月にかけて国労動労)から鉄労への大量脱退が認められたからでした。
こうした脱退が地本単位で、報告されていました。
これに関しては、以前の組織攻撃とは規模においても手段においても異なっているとしています。【国労側の見解】
そこで、改めて国労本部でも生産性運動に関して本腰を入れることとなり、1971年1月、正月返上で対策が練られることとなりました。

国労が取った手段は,「国鉄一家意識」の払拭

国労からの大量脱退を目の当たりにして、国労が取った手段は国鉄一家意識(後藤新平が語った言葉とされており、従業員は駅長を父として、助役を母と慕い,あたかも家族の如く友愛を持って業務に当たるべしとしたもので、国鉄の中における家族主義と言えるものでした)の払拭を呼びかけ、階級意識 *1による労働組合運動を継続すべきであるとしていました。

その辺を再び、国鉄労働組合四〇年史に求めてみますと、以下のような記述を見ることが出来ます。

「階級的組合運動」は階級意識とは国鉄再建の「障害物」であるとされ、「全面否定の攻撃」がかけられているさなか、その対象者である一人ひとりの組合員と国労組織が、なにをもってすれば反撃に転じうるか、なんと言ってもそれは仲間と組織に対する熱い期待と信頼以外にはない。それを確認した右の意思統一は、その後の「マル生」闘争の質を基礎づけた。

としています。

ここで、改めて階級闘争とは何か?

簡単に振り返っておきたいと思います。

階級闘争とは、プロレタリアート(労働者階級はブルジョア階級に搾取されているという考え方)が根底にあり、国鉄労働者の場合は、助役以上の役職者をブルジョア階級と位置づけ、彼らに自信の労働力は搾取されていると言う考え方)となります。

実際には、国鉄は独立採算制を求められているとは言え、政府の機関であり、賃金決定権も最終的には政府に握られている以上、役職者が資本家階級にはなり得ないことは十分判っているのですが、それを明確化すると組合運動自体が成り立たなくなるので、その辺を曖昧模糊として、何となく助役や駅長などが資本家階級の手先であると言って、分断工作を図ってきた訳です。

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国労による職場からの告発運動

国労は、職場での告発運動を展開することとなり、現場からの告発メモを元に交渉の材料としていました。

職員一人ひとりが現認メモ(摘発メモ帳)と書かれた小さなノートを所持して、その都度不当労働行為と認められものを告発するというものです。
助役以上の役職者による組合を変われという発言などは不当労働行為となるのですが、そうした事実があるとしてその都度確認するとし、当局との間で、

  1. 不当労働行為の疑いを持たれるようなことは、今後やらないよう十分指導、徹底する
  2. 局の過員し大して、組合所属の差別的扱いはしない
  3. 鉄労への加入慫慂(しょうよう)などは組織介入であり、やれるものでもないし、やらない

と言った確認が管理局単位で組合との間で行われたようです、国労のとしては、現場管理者レベルでは、こうした確認事項が守られず、相変わらず所属による差別的扱い等が行われていたという証言もあり、実際に露骨な鉄労への加入慫慂までは無かったとしても、全く無かったと言い切れないのではないかと思います。

組合による昇進差別的扱いについても、私が郵政局に勤務していた1990年頃でも、全逓組合員と全郵政組合員ではその扱いに差が【係長は現場管理者経験者ですが、郵政局では組合員になれるわけで、全郵政資格美愛員は居ませんでした、必然的に全逓の組合員は現場に一度出ると郵政局に帰ってこれないと言われたりしたものでした。】ありましたので、1971年当時の国鉄では、更に露骨な対処がなされていた可能性は否定できません。
もっとも、国労の資料だけでもちろん判断するわけではありませんし、鉄労だけの資料で同じく判断するわけではなく、総合的に判断するようにしています。

結果的に、こうした確認事項があったとしても、決定的な事項がないことから、不当労働行為があったのか、無かったのかは、言ったいわないの水掛け論となっていくのでした。

その後、マスコミによる現場でのオフレコ発言が録音されて、如何にも不当労働行為を助長しているような発言した助役がいたとしてそれが問題視されることになるのですが、その辺は改めて次回にアップしたいと思います。

 

続く

 

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*1:組合が言う階級意識は、マルクス主義による階級闘争を指すものであり、プロレタリアート【労働者階級】によるブルジョア【資本家階級】を打倒すべきであるとしたもの。ただし、現在の新自由主義の誤りは、多くの非正規労働者を生み出すこととなり新たなプロレタリアートを生み出している結果となって居ることにも注目する必要があります。

生産性運動導入から、中止まで 第二十七話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から

はじめに

生産性運動は、赤字経営に陥った国鉄を改善するための方策として導入された再建計画の一環でありました。
生産性を向上させることで、職員一人当たりの生産単価を引き上げることで財政を改善すると言うことは、至極当たり前と言えば当たり前のことなのですが。

昭和40年代頃から国労が取り入れた、職場の中に労働運動を、更には階級闘争と言う概念(管理者以上は資本家階級(ブルジョアジー)であり、組合員は労働者階級(プロレタリアート)であるという概念は、国鉄の大家族主義を分断するにための道具として機能してきたと言えます。

国鉄が導入した生産施運動は生産性本部が関わって教育を開始したときは十分な効果を発揮していったのですが、その後生産性運動を国鉄独自の施策として取り組むようになった頃からその雲行きが怪しくなっていきました。
すなわち、学園での自主的な生産性運動の展開で一気に水平展開を図ろうとしたわけですが、その結果は一部助役が、生産性運動の本来の趣旨を理解せず、生産性運動を組合自身で取り組んで来た、鉄労に加入させることが生産性運動であると短絡的に理解した管理者(助役)が居たこと。

さらに、悪いことに、そうした発言をマスコミに録音されてしまったという問題がありました。

当時普及しだしていたカセットレコーダーに録音されていたようで、国労の運動に賛同する新聞記者によりリークされたものであったと記憶しています。

こうした経緯を経て、国鉄総裁が国会で陳謝することとなり、最終的には生産生運動の方針を見直す為中止(実質的な廃止)に追い込まれるわけですが、その辺の事情などを

国労が編纂した、国鉄マル生闘争資料集等から参照しながら、何回かに分けてアップさせていただこうと思います。

国労が本格的な反撃に出ることに

国労の考え方に基づく生産性運動とは

生産性運動に関しては、日本生産性本部が3原則を提唱していますが

  • 生産性の向上は究極において雇用を増大する
  • 生産性向上のための具体的な方式は、労使協力して研究、協議する
  • 生産性向上の諸成果は、経営者、労働者、消費者に公正に分配される

となっており、生産性運動は単純に人減らしをするものではなく、特に第一項の「

生産性の向上は究極において雇用を増大する」はその後段には、以下のように書かれています。

過渡的な過剰人員については配置転換などで、可能な限り失業を防止する。

とあり、合理化による人員削減という原則は貫かれていないのですが、国労では、生産性運動を以下のように捉えていたようです。

 

  • 生産性の向上は究極において雇用を増大する→今まで以上に業務の近代化、合理化に」努力し生産性の向上に努めなくてはならない。それには、思い切った要員規模の縮減、新規採用者の抑制、配置転換等が必要である
  • 生産性向上のための具体的な方式は、労使協力して研究、協議する→現状に目を向け、労使が協調して生産性を高めていくこと、新しい国鉄を作っていくことを強調している
  • 生産性向上の諸成果は、経営者、労働者、消費者に公正に分配される→国鉄労使に残された大きな課題であり、今後の国鉄職員の給与決定方式を含めて、どうあるべきかは現在のところ具体的には語れないとしており、ベアなどは職員の再建努力次第であるとして、ストライキでは賃金は上がらないと国労動労を牽制した

と有るように、国労としてはあくまでも、闘争による賃金の獲得であり、労使協調という点に関しては、こちらも受け入れられないとするのが基本的な考え方であったことが窺えます。
実際、職場に労働運動をと言うことで、現場協議制を導入させた訳ですから、国労とすればそれを簡単に撤回することは中々できない相談であったと言えましょう。

国労権利闘争史

さらに、国労としては生産性運動が精神運動であるとして、以下のように批判しています。
引用してみたいと思います。
生産性とは、「なによりも精神の状態であり、現存するものの進歩、あるいは普段の改善をめざす精神状態である。それは今日は昨年よりも、よりよくなし売るという確信であり、更に明日は今日にまさるという確信である。」それはまた、「条件の変化に、経済社会生活を普段に適応させていくことであり、新しい技術と新しい方式を応用せんとする不断の努力であり、人間の進歩に対する信念である。」このような「信念」に基づいた「人類の福祉向上」が生産性運動の基本理念である。(『生産性運動研修』日本国有鉄道

と書かれているように、生産性運動をいささか精神論的に捉えているようにも見受けられますし、国労は、当局は「合理化」の居反対し手行くような組合【国労動労自身を指す】組合は障害物として認識し、生産性運動を是認し、合理化を容認する、鉄労は、味方であると書いていることからも判るように、国労にしてみれば、生産性運動云々もありますが、それ以上に反合理化を旗印に掲げ、当局と対抗してきた国労動労にしてみれば、生産性運動を進めようとする鉄労は当局の片棒を担いでいる御用組合だという論理に至っていることが判ります。

マル生運動は神がかりのような儀式と批判

国労は、生産性運動が電灯を消した中で異様な興奮状態を生み出して、職員に対して精神・思想教育が行われたとして激しく批判していますが、実際には国労でも同じようなシチュエーションで、同じような国労の研修を行っており、それはお互い様ではないかと、大野光基氏の著書、「国鉄を売った官僚たち」で痛烈に批判しています。

国労の言い分を再び引用してみたいと思います。

教育を実施する態様は、「目標の神格が最高で、大手に自発的にその目標に対する使命感を抱かせるよう感動的に誘導する」方法がとられた。たとえば、中央鉄道学園では4泊5日の研修が行われたが、伝統を消しローソクの明かりの中で、バックミュージックを静かに流し、"職場に帰って核分裂を起こそう" "オレが間違っていた。赤字国鉄を再建せにゃ”といった熱狂的雰囲気で最後の夜を結んだ(『朝日新聞」71.5.16)このように常軌を逸したやり方で精神・思想教育が行われたのあった。

続く

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