日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一一話

ながらく間が空いてしまったのですが、本日も生産性運動の頃のお話を、「国鉄を売った官僚たち」、大野光基氏の本を参考に、当時の様子などを語っていこうと思います。

生産性運動は、国鉄のあり方を変える?

国鉄の生産性運動は、それこそ最初の頃は、少し首を出した亀のような感じでスタートしたわけですが、昭和46年には、国鉄の生産性運動教育は、日本生産性本部の委託教育から国鉄の経営との一体教育となりつつありました。

前述しましたが、良くも悪くも純粋な人が多い国鉄ですので、当然と言えば当然と言えましょう。

この頃の様子を、動労の松崎委員長は

 国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、・・・中略・・・国鉄の職場ほど自己閉鎖的な職場は、他に類を見ないと言っても過言ではない。・・・中略・・・。
  国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。

引用:松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車(三一書房刊)から引用

ただ、皮肉なことに、この言葉は、松崎自身が昭和57年の国鉄減量ダイヤの頃から、労使協調路線に大きく舵を切る時に、組合員に対して取った手法と同じと言えるわけで、歴史の皮肉と言えるかも知れません。

官僚的人事制度を改正すると発言するが?

 再び大野氏の、国鉄を売った官僚たちからの引用となりますが、昭和46年度経営計画が発表されました、新しい経営理念として生産性運動の理念が盛り込まれたそうですので、該当部分を引用してみたいと思います。

我々は、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある

と書かれており、国鉄本社としても生産性運動を前面に出して、国鉄再建をアピールしたかったのだと思われます。

元々、磯崎総裁は、政府の評価は高いほうではありませんでした、さらに、国鉄で育った純粋培養のキャリアゆえに、政治家には弱く、部下にはめっぽう高圧的な態度をとる傾向にあったことが、複数の資料などから読み取れます。

磯崎国鉄総裁

磯崎国鉄総裁

直接生産性運動の話とは関係ないのでこの辺でやめておきますが、こうして経営計画の中に生産性運動が理念として明記されたことから、管理局長並びに本社の局長の研修が行われることとなり、昭和46年5月24日~27日、第1回の研修が、さらに6月8日~11日に2回目の研修が行われました。

この研修では、管理局の欠席がほぼなかったの対して、本社局長の参加はわずか1人だけという寂しさであり、本社がいかに生産性運動を重要視していなかったことが伺えます。

こうした中で、大野氏は著書の中で、次のようにも述べています。

再び引用してみたいと思います。

6月24日に関東地区の主要現場長百数十人を集めて関東鉄道学園評議会が開かれた、私はそこで人事制度の大改革を、次のように訴えた。

「人事制度の抜本的な改革が必要です。問題は本社採用学士の処遇です。

僅か20歳代で管理局課長や現場長という重要なポストに発令されるという慣行があります。・・・・・中略・・・・その大半の原因は1,2年じーっとして事故を起こさなければ、トコロテン式に必ず栄進できるという人事制度に根本的な欠陥があると思います。

自らも本社採用の現職の本社課長が人事制度の改革を訴えるわけですから、どんな官僚組織もそうですが、壊そうという勢力に対しては当然のことながら強い圧力がかかるものです。

この発言の裏には、前述の磯崎総裁の就任関係が関係しているようで、磯崎総裁は就任直後から、

「有資格者(いわゆる本社採用(キャリア組))でないと、生涯勉強してもトップには上がれない官庁的人事を直していきたいと発言し、実際に昭和44年12月には、本社内に人事委員会を作っているのですが、結果的にはどうなったかというと人事制度を変更したら有能な人材が来なくなるかという理由で改革そのものを止めてしまったという。

何のことはない、結局こうした発言もいわゆるポーズでしかなかったわけです。

「人事改革するよ・・・でもだめだと言われたからごめんね、これ、みんなの意見だから」

的なイメージでしょうか。

仮に本気で変える気があるのであれば、そうした発言が出た時点で、総裁によるリーダーシップが発揮できるのですが、それをしていないわけで。

政府への人気取りでしかなかったと言えそうです。

最終的には、生産性運動の終焉に際しては、大野労働課長に責任を押し付ける形の終息を

 監査報告書では生産性運動の取り組みを大いに評価

昭和45年の監査報告書を参照しますと、生産性運動の取り組みを以下のようにおおいに評価しています。

以下に、昭和45年、国鉄監査報告書から引用させていただきます。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行なわれたこともあって、 職員の聞に国鉄の現状についての理解が深ま り、再建意欲は急速に向上しつつある。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある

国鉄監査報告書から引用

昭和45年度の生産性運動教育実績

国鉄監査報告書 昭和45年

国鉄監査報告書 昭和45年

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一〇話

引き続き、生産性運動運動時代のお話をさせていただこうと思います。
生産性運動に関しては、改めて「国鉄を売った官僚たち」、並びに「国鉄民主化への道」から見ていこうと思います。

生産性運動は、現場管理者に十分理解されていたのか?

この時期、国鉄本社としては生産性運動を国鉄の柱にしたいとして、本社各部局に生産性運動の推進を依頼していました。
ただし、鉄労が指摘するように、一部現場管理者が生産性運動を正しく理解せず、誤った生産性運動を行っているという声も有ったことも事実であったと指摘しなくてはなりません。
これが後に、国鉄当局の不当労働行為だと突っ込まれる余地を作ってしまったといえそうです。
改めて、複数の視点から調べていかないと、誤った判断をしてしまうため、十分な検証が必要です。

 

国鉄本社では、能力開発課長が中心となって、昭和46年3月から4月にかけて本社内各局を回り、生産性運動の推進を根回ししたことで、新しい経営理念の中に生産性運動の文言を入れることに成功します。
これにより、生産性運動は労使一体となって取り組むべき問題であるとして、取り組まれることが国鉄全社的に取り組むことになったと言えます。

国鉄を売った官僚たちから、その辺を引用させていただこうと思います。

「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」

引用終わり

生産性運動の提案は鉄労だった?

なお、生産性運動は国鉄本社主導というイメージが強いのですが、鉄労の運動史を参照しますと、生産性運動の考え方は元々鉄労が以前から提唱してきたものであるとしています、その反面、生産性運動が十分管理者などで理解されず、超過勤務の強制や、分担業務以外の強要といった形でねじ曲げられた運動も見受けられるとして警鐘を鳴らしています。

その辺を「鉄労友愛会議著 国鉄民主化への道」から少し長いですが、全文引用したいと思います。

鉄労は2月22日、3日の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論はほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。
鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄当局も国鉄再建ということで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性運動の理念で、すでに生産性教育をやっていると言っていた。中略、私たちは経営者が生産性教育を実施するのは当然のことだと思いますし、わが国の有識者の手によって、昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやくとりあげたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。それだけに、国鉄当局が進めている生産性教育が、効果的で正しく普及することを期待するものでありますが、現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている事実が、随所に現れつつあります。

国鉄の生産性運動は、粗製濫造?と指摘されていた事実

国鉄の生産性運動は、短期間に燎原の火のように広がっていった背景には、良くも悪くも国鉄職員の純粋性にあったと言えるのではないかと考えてしまいます。
すなわち、国鉄職員の真面目さが扇動されやすいもしくは、染まりやすいと言う性格を生んだと言えるのです。

姉妹ブログで鉄労視点の記事も書いていますが、新潟闘争の時は、組合幹部の指令一下、一斉に業務をボイコットした職員がいました。

その後、新潟闘争の行き過ぎと言う反省から、国労新潟の非現業職員を中心にした組合員が国労を脱退し、新たに国鉄新潟地方労働組合を結成しています。
この話には後日談があって、その後雪崩を打つように現業職員の間でも国労を脱退して国鉄新潟地方労働組合に加入する人が増えたそうです。

良識ある現業職員は国労を脱退して、新組合に加入

下記の記事は、国鉄部内紙の記事から引用したものですが、現業機関である新潟駅(それまでは、国労の革同派(国鉄労働組合革新同志会)*1が強かったと書かれていますが、新潟地本自体が革同の拠点職場として国労本部でも認識しており、新潟闘争は国労新潟地本と国労本部のイニシアティブ争いという視点からも見ることができると言えそうです。

結果的には、地本の暴走を止めるために、本部預かりとしたものの、国労としては大量の解雇者を出すとともに、民同右派を中心とした勢力が国労を脱退するきっかけを作った訳で、機関車労組に次ぐ分裂劇となりました。(仮に、国労全電通全国電気通信労働組合)のように分裂していなければ、その後の国鉄の姿も変わってきたであろうし、民営化関連もまた違った側面を見せていたかもしれません。

実際に、国労から第二組合(国鉄新潟地方労働組合)に駅員が加入する人が増えたという記事を、国鉄線昭和33年9月号、「新潟地区の実態を聞くと」言う座談会の記録から引用してみたいと思います。

豊島
うちの組合は革同に支配されていて、一にもこにも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年7月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常K批判的になって来たのです。げま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は30分から
6時聞にもよりました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、それが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を趨超えています。私の駅でも55%から60%近くがこの批判組合に入っています。(豊島氏は新潟駅駅長)

国鉄線昭和33年9月座談会の記事から抜粋

国鉄線昭和33年9月座談会の記事から抜粋

ここで書かれていますが、新潟地本全体で20%程度の職員が、国鉄新潟地方労働組合に加入(新潟駅では、半数以上が加入)したとされています。

今回は、生産性運動の話というよりも、鉄労の前身、国鉄新潟地方労働組合の話が中心となってしまいましたが、良くも悪くも純粋な職員が国鉄を支え、生産性運動の時にも同様に、現場を支えたのはこうした純粋な人たちであったわけです。

その反面、国鉄本社の幹部連は残念ながら理念は作ったものの、それはそれ、これはこれということで、積極的に取り組むという姿勢を示すことはありませんでした。

その辺は、改めて次回書かせていただきます。

 

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*1:共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しないグループで、極めて共産党に近いこともあり過激な運動が行われていた

生産性運動導入から、中止まで 第九話

> 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。  

現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動

当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。

そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなりました。

生産性ニュース マル生運動

生産性ニュースが昭和46年4月25日に創刊号が発行された、国鉄を売った官僚たちから引用

国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

4月25日(創刊号) 蕨駅に生産性運動推進チーム(二〇数人)が誕生した
5月10日号 仙台運転所の生産性推進グループは現在24グループ(511人)である。東京西厚木駅に「国鉄再建同志会」(69人)が4月23日に結成、その補遺か宿河原駅国分寺駅武蔵小杉駅、西国立駅立川駅、原町田駅相模原駅、東飯野駅などでも結成された
東京南局の浜川崎駅、神田駅、品川機関区、蒲田電車区などで結成。旭川局の富良野線助役18人は4月28日に「国鉄を愛する会」を結成。青函局運転部有志53人による「明るく新しい国鉄にする会」が結成された。
中略
 6月10日号 大阪局の姫路車掌区では5月1日に「生産性運動推進チーム」(170人)を結成。
水戸局施設部係長(34人)は「施設部係長会」を結成。東京西局の機関区、電車区、客車区の事務職員(101人)は「運転事務再建会」を結成。同局の四方津駅武蔵新城駅上野原駅三鷹車掌区に「国鉄再建会」誕生。東京南局の根府川駅早川駅で「国鉄再建会」を結成。関東資材部の「再建同志会」の入会者は5月12日現在、302人。東京北局の本局係長(24人)が「係長会」を結成。仙台局の会津高田駅で4月18日に家族による再建会誕生。釧路局の「あかるい国鉄つくる会」(2000人)は昭和46年度総会を開催した。
 6月25日号 静岡局本局に生産性運動チーム誕生、4人を除く全課員が参加。盛岡局の「国鉄再建運動連絡協議会」の代表8名は5月26日に磯崎総裁に誓書を手渡した。天王寺局は「一職場に最低一つの生産性グループ」をモットーに運動を推進中。旭川客貨車区は全職員が生産性教育受講を強く希望。
 7月10日号 北海道追分駅では4月10日に生産性運動追分駅推進本部が会員69人で発足した。


もう少し続くのですが、冗長になっても行けませんのでこの辺で止めておきます。

生産性運動は、管理局の垣根を越えて

生産性運動を推進していくグループのもっとも頭が痛い問題は国労動労の違法ストや順法闘争に見られるサポタージュ対策でしたが、抗して規模が大きくなってくるとやがて、十分な国労動労に対するいわゆる抵抗勢力として成長していきました。
いわゆる、前述のマル生グループの誕生でした。

こうした中で、こうした生産性運動はやがて燎原の火のごとく、管理局を越えてブロックへ更には全国的な運動へと広がっていきました。
7月29日には、田沢湖高原に盛岡、秋田。仙台の東北三局の生産性運動リーダー43名が集まり、生産性合同討議集会が開催され、「国鉄再建の原動力は東北から」というスローガンの元、2泊3日の最終日に決議文が採択され、全国集会の呼びかけの中心になることが誓われたそうです

もちろん、こうした生産性運動に対して批判的であった国労動労は批判活動を行うのですがそれが、前述の国労新聞などでの批判などでした。
さて、個々で注目すべき事は、前述の生産性合同討議集会もですが、こうした運動は全て自主参加であり、開催の費用などもカンパと参加者の手弁当で行われたことでした。
しかし、抗したことに対して危機感を持った国労動労はその後本格的な反抗を行うこととなり、潤沢な活動資金を使ってマスコミなどへの工作などを行うことになるのでした。

国鉄幹部は生産性運動には無関心

こうして、国鉄の生産性運動は現場で過熱気味と言えるほど盛り上がるなか、国鉄本社でも、昭和46年の経営計画の中に、生産性運動の理念を織り込むことが理事会で決定され、鉄道管理局長、本社局長クラスを対象にした研修が、5月24日(第1回)、6月8日(第2回)に分けて3泊4日の開催されたそうです。
現場の管理局長は極めてその関心も高く、「もっと勉強したい」、「組合と対決する」と言った声が殆どであり。現場を預かるものとして、危機感を感じていたのだと思うのですが、本社はどこ吹く風といった風情であったようです。
実際、場管理局長がほぼ全員参加したのに対して、本社局長は1名のみの参加という状況が、それを如実に物語っています。
その辺の事情を再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用させていただきます。

 四月六日に昭和四十六年度経営計画が理事会で決定されたが、その中に新しい経営理念として、次のように生産性運動の理念が盛り込まれた。
 「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」
 この頃から、国鉄の生産性教育日本生産性本部の委託教育の域を脱して、国鉄の経営と一体の教育=運動に成長しようとしていた。
 第一回本社局長および鉄道管理局長研修が五月二十四日から、同じく第二回が六月八日から三泊四日の日程で開かれた。生産性研修は管理局長に対しても、強い自己反省の機会となった。「組合側に闘争をやらないでくれと当局は頼んでいた」「組合の前に当局は妥協に妥協を重ねてきた」「私自身じくじたるものがある。もっと勉強したい」というような発言が相つぎ、「もはや組合とは対決しかない」というのが、ほとんどの局長の結論であった。
 しかし、この本社局長および鉄道管理局長研修の参加状況は、管理局長は東京南鉄道管理局長の原田種達ほか数人が欠席しただけだったが、本社局長の参加は僅か一人にすぎなかった。自主参加とはいえ、いかに本社局長クラスは無関心であったかが分かるというものだ。

ということで、本社の生産性運動に関する関心はこの程度で有ったと言うことが窺えます。
冷静なのではなく、自分たちには関係がないという事であったかと思います。
これが、昭和50年以降の国鉄再建計画(再建のための再建計画ではなく、再建計画のための再建計画、再建が上手くいかなくても再建計画と言う計画を書いたので誰も責任を問われないという、そんな事態が続くことになります。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第八話

本日も、生産性運動導入から、中止までの第八話として。お話を進めさせていただこうと思います。

参照しているのは、「国鉄を売った官僚達たち」、鉄労編纂の「国鉄民主化への道」などを参照しながら。書かせてもらっていきます。

マル生運動の成果?スト破りする国労動労組合員

生産性運動は、職員の意識改革が大きかったようで、国労動労に所属したまま、スト破り(ストライキに参加しないこと)を行う組合員もいたそうで、生産性運動を受講して、自らの意識として、国労の運動について行けないと感じる組合員が一定数いたと言うことになります。
実際、昭和46年5月20日には首都圏でストライキが行われ、旅客列車だけで2,624本の電車が運休しますが、首都圏全体では実に60%の電車が国労動労のストにも関わらず動いたと言われています。

弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように記されています。

国電スト 5/20

調停作業は徹夜で続けられ、20日早朝、峯村調停委員長によって、8%+2,300円の案が提示されたが、労働側の反対で調停は不調となり、仲裁裁定へと移行することとなった
一方、両組合は20日午前0時を期して全日ストに突入し、19時の中止命令までに、東京の国電を始め、中部、関西、東北の各地で、旅客計2,624本、貨物計1,724本、客貨合計4,348本の運休を含め、ダイヤの大騒な乱れを生じた

鉄労+マル生運動グループが運転を確保

その理由は、鉄労組合員の働きと。職制(管理者)による運転が行われたこともありますが、スト指令を受けながらもスト破り(ストライキに参加しない動労国労の組合員)があった事実も注目しておく必要がありそうです。

このように、マル生運動では不当労働行為が行われて、鉄労に加盟させることを職分としたした助役がいたとか、当局が組織ぐるみで不当労働行為をさせたと言った記事をよく見かけますが、実際はこのように違っていたと言うことにも注目していただきたいと思います。

さらに、国鉄職員が組合を変わるのは自由意志であるため、生産性運動が始まる前後くらいから自発的に、組合を変わる人が増えていったそうで、その後生産性運動により、その動きが加速したわけです。

国労が、マル生グループが(電車を)運転しているんだと指摘

実際、マル生資料集のなかでの座談会で、国労中央執行部の幹部は、下記のように回想しています。

あの時は、電車が動いたからね。だからオレは東京地本に文句を言って「おまえらストライキでも電車動かすのか」と言ったら「動かすんでなく動いているんだ」(笑声)「動いているんなら、止まるまでストライキだ」と言ったことがあるけどね。職制とマル生グループが動かしておったですからね。

ということで、鉄労とは言わず、「マル生グループ」と言う点に注目してください。
すなわち、国労動労でも、生産性教育を受けた組合員がスト破りをしたことを暗に認めていたと言えそうです。

更にこれを裏付ける話としては、東京三局の発表によると、東京北局で41%、東京西局で56%、東京南局が43%、東京三局併せて約五三〇〇〇人のうち、実に45%にあたる約25000人がストライキ反対の意思表示をしたと発表しています。

国鉄民主化への道」からその部分を引用してみたいと思います。

 当局三局の各総務部長が記者会見して「北局が18,925人中41%、西局が12,706人中56%、南局が22,140人中43%、3局合わせて53,771人のうち、45%にあたる24,292人がスト反対の意思表示をした」と発表した。このうち、鉄労組合員6,500人を除くと、国労37%、動労17%がスト反対の意思表示と言うことになる。

となっています。
少し話は前後するのですが、上述のように、国労から徐々に鉄労への移籍が進んで行くのですが、国労も組合員が減少していくことをただ指をくわえてみていただけではありませんでした。

反論に躍起となる国労執行部

昭和46年1月から機関紙の「国労新聞」には、「クタバレ生産性運動」(後に、「ウソだよ生産性運動」に改題)を連載、生産性運動自体を潰そうと考えたようです。

少しその例を挙げてみますと、下記のようなものがあったようです。

「生産性運動とは?一に洗脳。二に盲従、三,四で搾られ、五で追われ」とか

「赤く咲くのはけしの花、白く咲くのはゆりの花」と歌った漫画(宇多田ヒカルの母親、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」と言う歌をもじったというか、そのまま流用したもので、赤く咲く=労働者、白く咲く=資本階級(ここでは当局)であるとして、労働者階級はどこまでも搾取されるだけと言ういわゆる階級闘争を訴えたかったものいえます。

実際に、50代後半の方であれば、この曲を直接耳にしたことがある方も多いのではないかと思いますが、非常に暗くどちらかというと人生終わった・・・的な雰囲気を感じさせる歌でした。
まぁ、ネットで「人生オワッタ」・・・的に書くような感じではなく、本当に悲壮というか、明日すらないというイメージで歌われていたものでした。
その辺を上手く、取り込んで、国労は、資本家(当局)は、我々労働者階級はただただ搾取されるだけの存在であるという刷り込みを図っていたようです。

当局自らも賃金も運賃値上げも決定できないわけで、資本家でも何でも無いのですが、国労の執行部としては、当局は資本家の手先であるとしないと、具合が悪かったのでしょう。

実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。

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生産性運動導入から、中止まで 第七話

盛り上がる生産性運動の影で、生産性運動を良しとしない国鉄幹部の動きについて書かせていただこうと思います。

再び、国鉄を売った官僚達を参照しながら書かせていただこうと思います。

今回は、国鉄本社幹部の動きを見ていきたいと思います。
生産性運動に関しては、今回も大野氏の本を底本として、私なりの解説などを加えさせていただこうと思います。

生産性運動は、現場の若手を中心に盛り上がりを見せ、鶯谷駅における朝ラッシュ時、鴬の声を流すのは、当時の駅員からのアイデァであるとされており、そのきっかけは、生産性運動であったことは、前回書かせていただきました。

生産性運動は、国鉄の中で浸透
そんな風に、国鉄の現場では、それこそ熱狂的とも言えそうです。

① 自主的勉強会
② 生産性掲示板や生産性大看板の掲出
③ 生産性職場報の自主発行
④ 生産性推進チームの結成
⑤ 違法ストへの不参加・反対運動など
⑥ その他具体的な実践活動

等に分類できると書かれており、実際に自主的勉強会は、いわゆる「カイゼン」活動であり、現場ならではの工夫などが披瀝されたそうです。

少しだけ引用してみたいと思います。

引用ここから

勉強会の一つである池袋電車区の模様を、昭和46年1月28日付の「交通新聞」は次のように書いている。
「仕事の終わった時間を見計らって勉強会が始まるのだが、三階の講習室に集まってくるのは油だらけのナッパ服の検修掛や制服の胸にまだ「運転士」の名札を付けたままの乗務員などだ。
討論が始まると室内はたちまち熱気をおびてくる、『パンタグラフの除雪方法』 『電車の折り返し時のドアスイッチの取扱方』 『増収対策としての車内広告』など、さすが現場だけに細かい具体的なテーマが多いが、いずれも事故防止、営業開発など債権の柱とも言うべき大きな問題ばかりである」


引用終わり

生産性運動推進グループが誕生
また、生産性運動推進グループが全国各地で誕生したそうです。
私の父親が勤務していました、天鉄局でも、多くの生産瀬運動拠点が誕生したようで、生産性ニュース8月25日号には、下記のように書かれていました。
鳳保線区に「大鳥会」が誕生、他にも「8月2日に生産性運動和歌山連絡協議会」が誕生、さらに、亀山客貨車区、熊取駅、串本、紀伊勝浦連区に生産性グループが誕生、天王寺駅では、7月31日に生産性大会を開催した・・・
他には、釧路局の上士幌保線支区に「しゃくなげ会」釧路保線区に「いちい会」が誕生、門司局の本局に「明門会」【会員1000人】が7月17日に、門司港駅に「みなと会」が誕生した。・・・というふうに全国的に多くのこうしたチームが誕生しました。

こうした生産性活動は徐々に広がりを見せ始めました、その中でももっとも頭を痛めていたのは、国労動労の違法スト及び順法闘争と言われたサポタージュに対する対策であり、また国労動労は組織として、生産性運動の批判を行ったわけですが、結果的には、生産性研修を受けた推進チームはやがて国労動労に対する抵抗勢力として、育っていくこととなり、その流れは最早、地区・管理局・地域ブロックと言った枠を越えて広まりつつありましたが、こうした推進チームの活動費は全て手弁当であり、また活動費も資金カンパによる細々としたものであり、労働組合からの潤沢な資金がある、国労動労の反撃には抵抗すべく術もありませんでした。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第六話

前回は、「管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。」
と言うことだったのですが、実際の生産性運動の実践効果はいかほどのものであったのか、再び「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきたいと思います。

生産性運動の実践効果として
① 自主勉強会
② 生産性掲示
③ 生産性職場情報の発行
④ そのほかの具体的実践活動
⑤ 生産性推進チーム(国鉄再建会)の結成
⑥ 違法スト反対・不参加行動
等に分類できます。

そして、生産性運動の中から、具体的な実践運動になった例の一つに鶯谷駅で、朝のラッシュ時にウグイスの声を流しているようですが、これも実は生産性運動の中から生まれたアイデアであったそうです。

その辺を、「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきます。

引用ここから

その各地の職場情報の中から生産性運動が具体的にどのような実践活動となって現れていったかを紹介してみましょう。
「生産性教育を受けた一職員のアイデアでした。鶯谷駅では、ラッシュに放送でがなり立てるより、いっそのこと、鶯の鳴き声の録音テープを流そうと言うことになりました」


引用ここまで

他にも、郡山ヤードの保線支区の支区長が貨車ヤードを眺めていますと、駅の人たちが草取りをしている、本来は草取りは駅職員の仕事なのですが、これを保線区で行うことで、駅職員には営業活動をしてもらってはどうかと言うことを発言したところ、職員も賛成してくれて、ヤード内の草取りは保線区が行うことになった・・・・等々、非常に良好な関係が構築されたと書いています。
このように着実にその成果を上げていく生産性運動は、昭和45年度監査報告書では下記のように高く評価されていました。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行われたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつあります。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。

また、監査報告書では、生産性運動を行っている反面で、違法ストライキなどにより、未だ争議行為が続いているとして、国鉄財政再建に労使一体となって取り組んでいるとは言えないとして、下記のように記述しています。

昭和45年度においては、 近代化、合理化の諸問題の解決が比較的順調に行われ、 実質的には、 労使の歩み寄りに前進がみられたものとしえましょう。しかしながら、 一部においては依然として争議行為等が行われ、 国民の目からは、 労使が一体となって国鉄財政再建に取り組んでいるとはいい難い現状である。



国鉄監査報告書 昭和45年

また、国鉄当局、特に本社などでも、幹部クラスは生産性運動に懐疑的というか、現状維持を図りたいグループがあったようで、秘書課長や文書課長、労働課長といった、最上席課長が、生産性運動の青年職員意見発表会に欠席するなど精彩を欠き、むしろ国鉄の最高幹部層の生産性運動に関する考え方がどのようなものであったのかを物語っていると言えそうです。
そして、こうした、守旧派的な考え方は、国鉄改革時の時にも見えるわけですが、変わることを拒むということは、時には時代に大きな過ちを犯すことになります。

次回は、幹部クラスの非協力と組合の反撃という点でお話をしたいと思います。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第五話

>国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。
しばし開けてしまいましたが、久々に投稿させていただきます。
今回も、「国鉄を売った官僚たち」大野光基氏の本を参照しながら当時の生産性運動を振り返ってみたいと思います

全国行脚を始めた、大野労働課長

生産性運動を導入した、能力開発課長の大野氏は、自らも昭和45年6月頃から中央鉄道学園で週3回程度講演していたそうで、「生産性運動を広めよう」というタイトルで繰り返していたそうです、さらに、7月からは全国に生産性運動の概念を知ってもらうために、全国行脚を始めたとそうです。
そこで、多くの現場の人に話をする訳ですが、上意下達に慣れている人が多く、生産性運動そのものを理解していない人も少なからずいたそうで、「生産性運動も、国鉄再建も自分のこととして考えてください」という話をするらしいのですが、講演会の直後に、「自分には関係ない」とか、「結局、何を講師は言いたかったのだろう」と言った「生産性運動の理念」を理解していない人が多くて困ったと回想しています。
そのような人もいる反面、わずか3時間の講演で自らに落とし込んで行動に起こす人も少なからずおり、そうした人に出会うことを期待して全国に遊説に出かけたそうです。

局長以下全員が感激した金鉄局の講演

金沢では、生産性運動に感激した職員が早速、局長に決心を述べに言ったとか、看板を掲げたという話が出てきますので、少しその部分を引用してみたいと思います。

引用ここから

『能力開発情報』第九八号は金沢管理局での後援会の模様を次のように書いている。
「大野・丸山両氏が講演したとき、500名になんなんとする聴講者の半数の両眼は光っていた。局長もおとこなきしました。そして翌日、糸魚川、青海、親不知の各駅長はあまりにも嬉しくて(こんな話は就職以来初めて聞くすごい話と)局長のこところに『わしがやらにや誰がやるんだ』と決心を述べにいきました。また、糸魚川運輸長は、この講演の翌日『糸魚川運輸長室』の看板の横に同じ大きさで『生産性運動糸魚川支部』ん看板を掲げました」

引用終わり

という風に、生産性運動は徐々に広がりつつあり、金沢管理局管内のように話が進みやすい職場もありました。
また、小亜45年11月14日に鉄道管理局能力開発課に配置となった青年課員の会議が本社で行われ、そこに磯崎総裁がサプライズ出演したそうで、ここにも当時の総裁の意気込みが見えそうです。
青年課員に対して、「諸君が新しい国鉄の管理組織を作るのであり、新しい労使関係の起爆剤になってくれ」と発言しています。
ということで、管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。

 

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