日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動と動労 動労から見た生産性運動とは 第1話

長らく間が開いてしまいましたが、今回から動労と生産性運動と言うことで、動労から見た生産性運動についてお話をしたいと思います。

 

今回参考とするのは動労三〇年史を参考に他の資料などを参照しながら書かせていただきます。

当然のことながら、動労視点での記述ですので、動労に都合のよいように解釈されている部分が多々あるかと思いますが、その辺は割り切ってご覧いただけますことを最初にお断りしておきます。

動労が語る生産性運動とは

動労からみた生産性運動の目的は以下のように記しています。

  • 生産性運動は、政府・自民t脳・国鉄当局の合理化計画は本質的矛盾(国費で行うべき設備投資を国鉄だけに添加してきたことに起因するものと思われる)による赤字体質を隠蔽するために、合理化を推進するとともに、どの挫折の責任を労働組合に負わせた。
  • 労働組合の体質改善を図るべく、動労国労組織を合理化に協力する御用組合化するべく、内部で批判させるグループを作り、組合の方針が変更されるように持って行く。
  • その結果、当局側による差別弾圧攻撃となって現れ、当局側は不当労働行為や組合否認、権利侵害などが行われた。
  • 鉄労は、当局の走狗として使われ、鉄労の存在意義はそれ以上でもそれ以下でも無かった。〔些か差別的な発言ですが、この運動史が編纂された1982年頃は、まさか鉄労と動労労使協調宣言をするなど夢にも思わなかった時代でした。〕

財政的には窮地に追いやられていた動労

しかし、このような強気な形で書いているものの、実際には生産性運動が開始する前に行われた機関助士反対闘争運動自体(1968年3月~1970年)は、近代化により上記時代は必須であった機関助士が電機機関車などでは省略可能となり、これに反対する運動として組織として反対運動を行おうとするものの、二年間で102人の懲戒免職を含む30000人に以上が処分対象となり、その*1義援金だけでも約60億円〔当時の金額〕となり、当時の組合員63,000人から一人あたり給料の1.25ヶ月分を臨時徴収する必要があったと書かれています。

この結果、財政的には動労は厳しい状況に置かれていたと言います。

動労が財政的にも疲弊した状況にあるときに、当局は「生産性運動」を仕掛けるとともに、当局・鉄労とともに「動労は財政的にもうすぐ潰れる」と宣伝をして、鉄労による組合員引き抜き工作が行われた動労30年史P1167、マル生粉砕闘争の展開と勝利から要約〕と書かれており、かなり財政的にはきわどい状況に追いやられていたのは間違いないでしょう。

生産性運動で結成された「国鉄を良くする会」「国鉄を守る会」等当局による会が組織され、思想教育(所謂洗脳)が行われつつ有るとして、排除攻撃をしていると書いています。

このあたりは、三一書房松崎明・谷恭介共著、国鉄動力車に比較的詳しく書かれていますので、引用してみたいと思います。

国鉄当局は、動力車労組の助士闘争に対し発表した不当処分は、解雇107名(まま)を含む26,500名という大量なもので、組合員二人に一人は何らかの不当処分を受けたことになる。これを理由に当局側は、「組合財政の危機」として宣伝し、鉄労はいまにも動力車労組が破産するといい、組合員の不安を助長させていった。*2

と有るように、動労的には機関助士闘争では、当局が鉄労と結託して組織破壊行動を取り、実際に多数の処分者を出したことで財政的にも厳しくなっていたのも事実であるが、それを当局側は組合の財政危機と煽り、鉄労は動労が危ないとして揺さぶりをかけていったと発言しています。

国鉄当局の動きに対して、動労は組織強化と運動強化で対抗

国鉄当局は、官製のサークル活動とも言える、「国鉄を守る会」「国鉄を良くする会」などを発足させますが、それに対抗すべく動労では、「小組班」「地域班」と言ったグループの整備が強化されたほか、独身寮や学園での組織化が強化され、毎月16日~22日を「不良職制追放と組織強化のための点検行動習慣」とし、29日を「反合理化・不当処分撤回行動日」とすることを決定したとされています

 

 


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*1:犠牲者救済金

*2:注:下線筆者

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第七回

久々にアップさせていただきます。

今回は動労の三〇年史を参考に、アップさせていただきます。

動労は、ヨンサントウのダイヤ改正に向けて合理化反対闘争の観点から、当局が示した、5万人要員合理化案の撤回を求めて1968(昭和43)年6月10日、当局に合理化撤回を中心とした33項目の申し入れを行ったが、折悪しく6月27日に膳所駅脱線事故が発生しました。

この事故の直接の原因は機関士・機関助士両名が運転中に居眠りしたためであり、その概要は弊サイト国鉄があった時代には以下のように記述されている。

東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27

0時25分頃上り吹田操車場発青森行貨物列車 「第4北海」 が副本線へ待避の際、時速35km制限のところを約時速70km で分岐点へ突人、その際、機関車EF60119が脱線、約300m暴走、ジャリにめり込みやっと停止. 貨車は機関車との連結器がはずれ約30両が転覆、横転し、信号所、並進する京阪電鉄石坂線国鉄浜大津線へ突込んだ。 このとき架線の支柱が折れたことで、下り本線も支障。そこに、ほぼ同時に富山発吹田操車場行きの貨物列車3574列車が事故現場へ突入。架線の鉄柱に機関車 EH1018衝撃、機関車と貨車2両が転覆、特急16本、急行48本、電車55本など区間運休した
この事故では、機関士・機関助士共に居眠りしていたとも言われている
→京阪石山坂本線 国鉄膳所駅で起きた脱線転落事故のため浜大津石山寺間が運休→7/16 EH1018廃車

なお、この事故に関しては、動労の30年史にも記述はあるものの、この事故は、翌日に発生した、DD542号機の脱線転覆事故(棒高跳び事故と言われている)とともに、機関車の酷使、合理化による過酷な労働が原因であるとしていますが。

DD54の推進軸折損は、DD54を設計する際、オリジナルのDD91と若干設計変更したことなどが原因とされており、機関車の酷使とは言えず、膳所の事故に関しては乗務員にその責を問われるべき事となります。

ちなみに、DD54の脱線事故の概要は以下の通りです。

急行「おき」機関車脱線転覆事故 6/28

午前3時40分ごろ 山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行きの急行「おき」を牽引中だったDD54 2が、駅構内のポイント通過中に異常音に気付き非常ブレーキをかけたところ、推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速したため、相対速度が低かったことから乗員乗客の一部が軽傷を負っただけで人命の被害は無かった。事故車となった
DD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役廃車となった。

新車で完成して2年ほどの機関車を酷使によると言うのも無理があるのですが、なんとしても動労としては、当局の政にしたかったのだと思います。

なお、国鉄事故黒書では、事故の原因を居眠りであると認めているもののその原因は、当局の側にあるとしています。

その辺を少し引用してみたいと思います。

T機関士は持病として低血圧症であり、中略・・・・本人は京都までは正常運転を行っていたことをはっきり意識している。途中眠気を催し。山科の場内を通り過ぎる頃から頭がぼんやりしてきたので立ち上がって意識を取り戻そうと試みたが立ち上がることも出来ず、その後は覚えていない。

引用 国鉄事故黒書 国鉄の合理化と事故 P15

とあり、機関助士も同じ時間帯に居眠りをしていたのは、年休を申請していたにも関わらず当日になって拒否されたことが遠因では無いかと指摘しているわけですが、機関士はともかくとして、機関助士も同時に居眠りをしたことに対する言い訳としてはいささか苦しいものがあると言えます。

実際に、こうした事例に対する対応措置としてデッドマン装置が開発されており、電車では足踏み式のデッドマン装置が、機関車にはEB装置(emergency brake)が準備されていたにも関わらずこうした装置の使用を拒否してきたのが動労でした。

仮に、こうしたEB装置がこの時期にすでに稼働していたならば、少なくとも事故に至らなかった。途中で停車と言うことで問題にはなったであろうが。

鬼の動労



結局こうした事故が起こることに対して、近代化や合理化は、当局が儲けるだけの手段だと断定している所にかなり無理があるように見えます。

それでも、動労としてはこうした事故が起こることに対して、運転保安確保の闘争として位置づけ、当局に対して合理化反対闘争の交渉事項としてあげていた(一人よりも二人の目)のですが、結果的には何らかの物理的に鉄道を停止させることの方がより安全だと思うのですが、そうなると合理化で機関士乗務員などの数を減らされることを恐れての行動であったと言えそうです。

このように、動労はいろいろな理由を設けて合理化反対運動に取り組み、大学の教授などによる機関助士常務の有効性を示そうとしますが、結果的にその運動は上手くいかず最終的には当局に押しやられる形になるとともに、国労・鉄労に移籍する人も多く、組織崩壊の直前まで行ったことで、それまでの機関車同志会(後の(労運研))の流れをくむ比較的穏健派のグループは、徐々にその影を潜め、政研派と呼ばれたグループがやがて主流派となると、その運動はさらに過激となり「鬼の動労」と呼ばれるようになりました。


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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第六回

ほぼ5ヶ月ぶりに更新になります。

長らく開けてしまって申し訳ございません、動画の作成なども重なり中々時間がとれなかったと言い訳をしておきます。苦笑

動労の行った機関助士反対闘争は、それまでの機関助士の処遇をどうするのかという問題もあり、国労以上に動労には切実な問題でした。

弊blog 日本国有鉄道 労働運動史 国鉄労働組合史詳細解説 22-3 を参照しますと、最終的には動労は、夜行列車などにおける機関助士常務を認めさせたほか、廃止される機関助士にあっては、EL・DL乗務助士9,000人中、約3,500人の存置の確認、 廃止助士については、機関士・・検査係へ逐次登用させることで、一定の整理を図れたとしていますが。

こうして、自らの組合としての勝利と書いているもののかなり薄氷を踏むような状況であったようです。

国労も機関助士反対闘争では同調していますが、元々電車乗務員が多い国労の場合電車は一人乗務が基本ですので、一緒に機関助士反対闘争に乗っかるメリットはないわけで。どちらかと言えば、合理化反対闘争の一環であり、実際には鉄労とともに組合員の引き抜きもあったようです。

そうしたことも動労を過激な方向に向かわせていった点もあるかと思われます。

特にこの時期は鉄労からもかなり強力な引き抜きもあったようで、詳細は今一度調べてみますが、動労自身が存続の危機に陥ったと言われています。

動労の反合理化反対闘争のきっかけは、昭和36年の5月まで遡るようで、動労としては特に機関助士反対闘争に力を入れた背景には、昭和41年4月に当局が 普通課程運転二科を 開設 したことによる反発が大きかったようです。

普通課程運転二科とは

それまでの国鉄では、中学卒業後機関区などで直接採用された場合は検査係などを経て数年の後に、機関助士、更には機関士へという流れでしたが、動力近代化により操作方法なども高度化していること、更には輸送力増強に伴い、適性を持つ機関士(動力車乗務員)を早期に確保したいという思惑から、昭和41年度から高校卒業者を直接機関士に養成するという手法がとられました。

しかしこうした方法では、長らく機関助士をしている職員の機関士への道を絶つこととなることから、動労としてはこの運動には敏感に反応しました。

この辺の事情は、当時の監査報告書(1966年 P130)では以下のように書かれています。

少し長いですが、引用させていただきます。

(2)職員の資質向上


職員の取扱い誤りに起因する事故を防止するため、上述の保安設備の強化はもちろんのこと動力車乗務員、車掌、駅の運転取扱職員等をはじめとして、施設および電気関係の職員を含めて、運転業務に直接関係する職員に素質の良い職員の確保に努める必要がある。
最近、動力車乗務員の質の確保は運転保安上特に重要になってきたので、昭和40年度から中央鉄道学園に中学校卒業者を対象に普通課程運転科を開設し、さらに昭和41年度から関束、中部および関西の第1種鉄道学園に高等学校新規卒業者を対象として普通課程運転二科を開設し直接動力車乗務員として養成することを試み、その結果きわめてよい成果を収めている。

とあるように、それまでの庫内手(検修係)を経て機関助士、機関士と進む徒弟制度的な流れから、いきなり学校を卒業後数年で機関士(動力車乗務員)になることは、当然のことながら、現在の機関助士等からすれば、機関士の道が閉ざされることに繋がりかねないわけで、組合としても、組合員の確保という視点からも強く反発することとなりました。

二つの目よりも四つの目で安全を確保できるとアピールするが・・・。

昭和40年代前半のこの頃は、動労にあっては反戦青年委員会所属だった組合員も多く、その後動労にあって暗然たる勢力を持つ松崎明氏も、当時は青年部長として動労でも発言力を強めて行くのでした。

特に、蒸気機関車では必須であった機関助士も電気や内燃ではほとんど必要とせず、当局にしてみれば合理化を図りたいわけですが、組合員の減少を招くことですので、組合側は当然のことながら強く反発。

安全確保には、二つの目よりも4つの目として二人乗務の正当性を訴えていくのでした。

しかし、昭和43年6月27日深夜に起こった膳所駅での貨物列車脱線事故では、2人いても安全は保てないことを自ら証明することになってしまいます。

参考:

事故の直接の原因は機関士・機関助士両名の居眠りとされており、当事者の聞き取り調査を動労も行っている(安全黒書)のですが、かなり無理な弁明であり、最後は当局が悪いとしているのですが、少なくとも個人の資質に問題があることは間違いなく。

動労としても、大学の教授などにも有利な報告書を書いてもらうことを期待したようですが、十分な成果を得ることは出来なかったようです。

こうした事故もありながらも、当局は合理化の一環として機関助士反対闘争を強力に推し進めることとなりました。

特に、昭和44年からは、当局に押し切られるような形で進められるのですが、動労も強く反発を行って行くこととなります。

 

機関助士反対闘争では、多くの機関助士が職をなくすとして強く反対することとなります

機関助士反対闘争では、多くの機関助士が職をなくすとして強く反対することとなります。

少し長いのですが、昭和44年5月の機関助士反対闘争に関する出来事を弊サイト国鉄があった時代から、書き出してみました。

国鉄当局、6月1日以降3段階に分けて助士廃止計画を実施することを組合に通告 5/12
    国鉄当局、国労動労に対し、6月1日からハンプ押し上げ機関車と一部貨物列車の1人乗務を実施し、EL・DL乗務員を一人乗務に切り替えることを提案(1人乗務を段階的に実施)

国労動労は、一人乗務に対して反対闘争を行なうことを表明 5/12
国鉄機関助士廃止問題・国民安全調査委員会」発足 5/24

動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~

    動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28
EL・DL調査委員会の5氏、「調査報告書は一人乗務を無制限に認めたものではない。技術上の諸条件の完備、労働 条件、生活条件の改善向上、個体条件への配慮などと関連 して団交で善処されることをのぞむ」という趣旨の覚書を発表 5/29
機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

    報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
    中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された

最終的には、寝台列車等夜間走行の列車に限り機関助士をのこすこととしたものの、EB(Emergency Brakeの略)装置の設置などで国鉄当局は一人乗務を押し切らせることとなりました。
余談ですが、電車などで試用されていたデッドマン装置は国鉄では採用されず、帰還者にあってはEB装置(一定時間機械操作をしなかった場合に警報が鳴って、その後非常ブレーキがかかる)の導入となりましたが、電車にあっては装備はされたものの、組合の反対があり、国鉄時代には殆ど使われていなかったように記憶しています。

 


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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第五回

ほぼ一ヶ月ぶりに、一人乗務反対闘争の記事をアップさせていただきます。

今回も、動労の資料、動力車乗務員史をベースに、当局側の視点、鉄労の視点などを絡めながらお話を進めさせていただきます。

今回引き続き、動労三〇年史から引用を行いながら、お話を進めたいと思います。

当時の合理化闘争、特にEL・DL機関助士廃止反対闘争に関しては、動労は絶対反対の立場、国労は条件闘争の為のきっかけ程度であり、その温度差は大きなものがあり、特に機関助士廃止反対闘争は、どちらかというと動労単独の闘争と言っても良く、この闘争では大幅に組合員を減少させることとなり、その失敗が国鉄分割民営化時の露骨とも言える掌返しに繋がるのでした。

EL・DL安全調査委員会の発足

安全調査委員会については、当局並びに動労は下記の二名を推薦した。

動労側が推薦した、鶴田教授は「国鉄事故国書 動力車乗務員の労働の実態」を執筆したことが縁で推薦に至ったようです。

最終的には、下記五名の委員が決定しました。

昭和43(1968)年10月18日に発足し、正式な委員会の名称は、「EL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会」 (略称EL・DL委員会)と決定し。

調査事項としては以下の内容を調査するとされました。

  • 労働科学・人間工学の面からみたEL・DLの1人乗務と 2人乗務の作業などを条件別に比較検討
  • それらの場合の安全性およびその確保についての必要条件

を審議するもので、同年12月6日から20日までは広島~岡山の間で実態調査が行われたとされています。

その辺を弊サイト「国鉄があった時代 昭和43年後半から引用したいと思います。」

国有鉄道 1969年2月号 EL・DL委員会 岡山~広島間で現地調査

EL・DL委員会 岡山~広島間で現地調査

 

EL・DL調査委員会実地調査開始 12/6~20 

「EL・DLの乗務員数と安全についての調査委員会」は国鉄の労使双方の依頼により、1人乗務と2人乗務についての生理負担などのデータをとるため第1回の調査が、12月6日、岡山機関区で始まった調査用計器類が積込まれ、1人乗務用に改造した電気機関車には、六島委員長ほか委員3人、松本岡鉄局長、松藤国労副委員長、竹森動労交渉部長が乗込み、岡山・糸崎間を折り返し運転したなお、この日は、計器類のテストで、本調査が7日から、山陽本線岡山~広島間で20日迄の日程比較テストが開始された

と有ります、動労はこの委員かに関しては非常な関心を持っていたようで、動労内部にも。「EL/DL対策委員会」を設けて万全の措置を取ったとしており、動労にとって有利な結論が出ることを期待していたようですが、実際には現状では一人乗務の条件は出来上がっていると言う委員全員一致の意見として、昭和44(1969)年4月9日には調査報告書を労使双方に提出、動労の思惑は図らずも外れることとなりました。

識者の見解は「EL・DLの一人乗務は妥当」との判断

委員会の出した結論は、既に十分時期は熟したというもので、実際に国鉄では一人乗務に際してEB装置を入換用機関車DD13に設置して試験まで行っていました。更に、ここに来て識者の一致した見解として一人乗務は可能と言うことが示されたことから、昭和44(1969)年7月からの操車場での入換作業の一人乗務化以降、一部の長距離列車などを除き、一人乗務が行われることとなりました。

当時の記録を弊サイト「国鉄があった時代・昭和44年前半」から再び引用してみたいと思います。

EL・DL委員会調査報告書答申 1969年4月9日

貨物列車 DL牽引

EL・DL委員会調査報告書を答申 4/9

    EL・DL委員会調査報告書を答申機関助士廃止にともなう列車運転の安全性をめぐり、労使間での懸案事項となっていた国鉄に対し、EL・DL委員会(大島正光委員長)は「1人乗務にする客観的条件は熟している」旨の報告書を労使双方に提示した
    1年以上にわたる1人乗務の安全論争に終止符がうたれたことになり、同委員会は9日付で解散した
    調査報告の要旨は次のとおりである。

            1人乗務の客観的条件は然している
            1人乗務の生理的負担はその生理的限界をこえるものではない
            1人乗務を進める上で安全についての基本的危惧はない
            機械化等の補償的な対策により、安全へのてこ入れは一層増進される
            2人乗務を1人乗務にきりかえつつそれを前提とした種々の施策を実施してゆくことを国鉄の基本方針にすべき時期にきている

    この報告書にもとづき労使協力して国鉄の近代化を進めることを期待する

この答申を提出したことで、EL・DL委員会は解散しますが、これに対し動労は非常に不満であったようで、委員会の委員と、国鉄労働研究所(現在は鉄道総研に統合)と連携が全く取れていなかったとして、委員会の報告自体が無効であるとして再度委員会の設置要求を行ったとされていますが、実際にはこうしたことは行われず。

本社が押し切る形となりました。その辺を、動労30年史、「機関助士廃止反対闘争」の項目から引用したいと思います。

引用開始

動労は、この報告が突如出された経緯とその内容について、「本報告書は安全性を解明する上では無意味である」とする抗議声明を発表した。また、EL・DL委員会の立会人であった明治大学清水義汎教授は、「岡山調査いらい委員会と立会人の意見交換は全く行われず、報告書の作成についても全く連絡はなかった・・・中略・・・国鉄労研所長のの"個人的見解の発表は許さぬ"という業務命令を振り切って4月15日「科学者として、報告書には重大な疑義があり。委員会に公開質問を行う」という立場で記者会見を行った。・・・中略・・・③一人乗務でも生理的疲労の低下がないと結論づけるのは尚早である。④安全性の低下を防止できる必要な条件を明示していない、等であった。

引用終わり

として、動労は再度の委員会設置を求めますが、当局は再度の委員会設置はしないとしてこれを拒否することとなりました。

 

こうして、EL・DL一人乗務に関しては動労にとっては極めて厳しい内容であったことは間違いないわけですが。

動労の中でも、徐々に主流であった機関車同志会に代えて政研派グループが力を持つようになり、動労の運動は後の鬼の動労と言われるようにより過激な方向に進んでいくのですが、この辺は次回にでもアップさせていただきます。


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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第四回

いよいよ本題である、機関助士廃止反対闘争に入っていきたいと思います。

今回参照するのは、動労の年史 動労三〇年史を参考にしながら検討を進めていきたいと思います。

反対闘争のきっかけは、ヨンサントウとも深い関係が

国鉄では、動力近代化を進める中で蒸気機関車の廃止を積極的に推進することとして、昭和50年末には蒸気機関車を全廃する方向で進められることとなりましたが、電気機関車・デーゼル機関車の場合、蒸気機関車では必須であった機関助士はその業務が殆ど信号確認だけとなることから、検修の変更と相まって機関助士の廃止も大きな問題となってきました。

国鉄では積極的に合理化対策を打ち出す反面、動労はこうした動きに強く反発、1968年(昭和43)5月28日~6月1日まで5日まで、動労の全国大会が新潟で開催され、同年6月10日には、国鉄本社に対し、五万人要員合理化案撤回を中心とした33項目の申し入れを行ったのですが、同月27日・28日と連続して脱線事故が発生しました。

この事故に対して、安全が疎かにされているから起こった事故であるとして動労はこれで合理化が進めば安全は更にないがしろにされるとして以下のように反発します。

動労三〇年史上巻 第3章合理化反対闘争 第8節 機関助士反対闘争から引用

他方、合理化反対闘争について、新たな取り組みを開始したこの時期の6月27日、東海道線膳所駅構内で脱線事故が起こり、続いて28日には山陰線湖山駅構内で、DLの推進軸折損による脱線事故が発生した。動労は機関車の酷使、合理化による労働が事故の原因であるとして「安全輸送に関する要求」、更に「動力車乗務員の労働条件の抜本的改善について」の申し入れを行い。68.10ダイヤ改正を安全輸送の立場から再検討する事を要求した。

と有るのですが、実際には膳所駅構内での脱線事故は、機関士の居眠りという記述があるほか、DD54は構造的な欠陥(DD91では純正部品でしたがDD54では、エンジン本体はマイバッハ車のライセンス生産ですが、推進軸などは国鉄の標準品を使用したこと等が原因と言われており、一概に機関車を酷使したかと言うとかなり疑問点が出てくるわけです。

ちなみに、弊サイトではこの二つの事故について多少詳しく書かせていただきましたので紹介させていただきます。

東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27

41両編成の下り貨物列車が待避線進入のさい31両脱線、そこへ46両編成上り貨物列車が突入、特急16本、急行48本、電車55本など区間運休
→京阪石山坂本線 国鉄膳所駅で起きた脱線転落事故のため浜大津石山寺間が運休

急行「おき」機関車脱線転覆事故 6/28

午前3時40分ごろ 山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行きの急行「おき」を牽引中だったDD54 2が、駅構内のポイント通過中に異常音に気付き非常ブレーキをかけたところ、推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速したため、相対速度が低かったことから乗員乗客の一部が軽傷を負っただけで人命の被害は無かった。事故車となった
DD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役廃車となった。

とあるように、膳所駅構内の事故は、「居眠り運転が原因」とされていますが、動労は一言もそうしたことには、言及していません。

更に7月16日に発生した、御茶ノ水駅での追突事故も運転士の操作誤りと運転規則を無視したことがそもそもの始まりなのですが、これも動労はそうしたことはおくびにも出さず、合理化反対、労働強化であるとして、反対をしたのでした。

御茶ノ水駅で追突 7/16 

22時38分、中央本線御茶ノ水駅に停車中の豊田行き(2239F 10両編成)に後続の高尾行き(2201F)が追突、双方の電車各5両が脱線 負傷者210名。。事故原因は2239F電車の乗客がドアに手を挟まれていた事から、発車した直後に非常停車の措置をとってホーム半ばに止まったところへ、後続2201F電車運転士がATSの電源を切った上、先発電車が発車して加速していると誤認し、見込運転を行なったことによる制限速度オーバーとブレーキ操作遅れが原因

国鉄があった時代 昭和43年後編

国鉄当局は「EL・DLの機関助士廃止」を提案

動労は、合理化反対闘争を掲げ、運動をしていたのですが7月16日、「EL・DLの機関助士廃止」〈正式名称は。「EL・DL一人乗務の場合の動力車乗務員需給の見通し」)を提案、動労は機関車乗務員を多数抱えていたことから、こうした提案は合理化を前提としたものであるとして、拒否していきます。

更に、動労はさらなる合理化反対闘争として、国労と連携して順法闘争を行う方針を発表していきます。

昭和43年9月反合理化闘争方針 国労・動労共闘による反合理化闘争が行われた。

昭和43年9月反合理化闘争方針

なお、この時にATSが鳴動したら必ず止まるとした、安全運転闘争が順法闘争の一環として導入されました。

ATS闘争

ATS闘争

当局では合理化を進め、組合は反合理化闘争で対抗

国鉄が合理化、特に機関助士廃止に大きく舵を切る背景には、国鉄財政赤字がその原因として有りました。

国鉄の場合、公共性を求められながらも、過去の陸上輸送の独占性と言う視点から、国鉄には公共性を求めつつ独立採算を強く求められるという矛盾がありました。

それでも、高速道路網などが完成していない時代でしたので、国鉄の輸送量も旅客に関しては右肩上がりの時代でした。貨物輸送もコンテナ輸送を中心に収益性を上げられた反面、ヤード系輸送では大きな赤字を計上するなど貨物輸送は赤字の元凶とされていました。

そうした理由もあり、国鉄としては何としても合理化により少しでも赤字を減らして収支均衡を図ろうとするわけですが、そうした動きに対して、組合は労働者の権利を全面に打ち出して反発することとなります。

動労にしてみれば、国鉄は政府に様々な足かせを填められて身動きできない状況でありながら、国鉄の赤字を言うのはフェアで無いとしてこれに対抗するべく反合理化闘争と言う形で政府に対して反発していくわけでした。

機関助士廃止の方針は、安全委員会の設置でひとまず延期

動労は昭和43年9月からの波状的集団行動を受けて、積極的に順法闘争などを実施していきますが。当局の方針は固く、一人乗務を強行しようとして組合との緊張が走ることとなりました。

こうした動きに対して、国労動労は共闘で反対闘争を実施、更にはこの動きは総評も呼応し、更には社会党がこの問題を取り上げることとなり、総評と社会党で以下のような意思統一が図られたとされています。

  1. 懸案の二人乗務問題は、全て安全委員会〈仮称〉に依頼し答申を求める
  2. 答申内容については、団体交渉を行って決める
  3. 審議については期限をつけない

その後社会党と総評が上記三条件で交渉を行った結果、当局は総評の申し入れを原則的に受け入れるとして、改めて以下のような条件を動労に提示してきたと記録されています。

  1. 懸案のEL・DL乗務の安全問題については、別に設ける安全委員会に依頼する。
  2. 委員会からの答申内容は尊重し、労働条件については団体交渉を行う
  3. 確認事項として、調査の順序はハンプ〈操車場〉補機、入替の無い貨物列車などから実施し結論が出たものから逐次実施する

という内容で有り、3項の撤回を国労動労は特に強く要望したこと、上記安全委員会は、労使双方から完全に独立したものとして機能する組織として設置されたことから。当局は昭和43年10月から順次実施予定であった一人乗務計画は延期されることとなりました。

 

続く

 

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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第三回

長らく開けてしまいましたが、生産性運動前に行われたEL・DL一人乗務反対闘争のお話をさせていただきます。

此処で参考にしたのは、当局が編纂した国有鉄道と呼ばれる雑誌を参考に、一部国労・鉄労・動労の資料等を参照しながら記してみます。

当時の動労は、主流派と呼ばれるグループと反主流派が常に激しく対立しており、組合内でのその勢力は徐々に反主流派が力を付けていく、そんな時代でした。

今回は昭和40年の動労大会に関する様子を中心に、動労の様子を「国有鉄道」という冊子から引用してみたいと思います。

当時の動労は主流派と呼ばれた(機関車同志会)と呼ばれる穏健派と、反主流派(政研派)が争っていたようで、徐々にその動きは過激さを増している様に記述されています。

当時の動労の運動としては、興味を引くのは以下の内容です。

一人一人が意識した行動を取る運動を導入

動労はこの年から新しい戦術として、全電通を真似た新しい闘争方式として、「就労しないストライキ」を導入した。

すなわち、職場に来るのでは無く自発的に自宅で待機してストライキに実質的に参加するというもので、その後の過激な安全確認闘争(いわゆる順法闘争)に繋がる方式を導入されたことが判ります。

この頃から、動労は主流派の(同志会)から、反主流派と呼ばれた(政研派)そして、近しい関係を保っていた反戦青年委員会を取り込みながら動労革マル派が支配する組合へと変遷していくこととなります。

その背景には、機関士の育成には時間がかかることからの独特の囲い込み意識も有ったのではないかと考えられます。

以下は、国有鉄道 1965年10月号 国鉄各組合の定期全国大会をみて 動力車労組

の項目から引用したものです。

ともあれ、賃金闘争に対する動労の基本的な考え方は、賃金は国家権力との対決であり、 労使の力関係によって決まるという原則である。これをもとに公労協、交運共闘等との統一闘争の中で賃金確定、配分闘争を結合させて解決をはかるというものだ。そして、闘いの手段としてのストライキは、「就労しないストライキとして職場に定着させ、 鋭さを増すよう配置することが、こんどの運動方針に新しく採用されているので目をひく。 これについて、本部は「組合員みずからの意思によって業務につかず、自宅で待機する戦術である」 と説明しているが、要するに全電通方式の自主的参加をねらいとしたもので、組織をあげて組合意識の高揚につとめようとする方向を示唆しているとみるべきだろう。

全電通方式というものがどのようなものであるのか、今後調べていく必要がありますが、一人一人が意識しながら、行動するストライキという点で、回想録などで順法闘争は一人でやり抜く闘争であったと言った手記が残されていますが、こうした運動方針が組合員に浸透していたからであろうと言うことが主たる要因と言えそうです。

動労が、単独でストライキを行言えるだけの力を付けた事にも注目

さらに、傍聴した記者が注目したのは、動労が単独でストライキをするだけの力を付けたと自信を見せている点でした。

以下のように発言しており、堂々と国労のスト延期などを批判しており、動労単独でストライキをしていけるという自信を付けたとして、発言している点が注目されます。

それと同時に、4.30ストが採用した重点拠点方式も、国労の共闘がなくても列車をストップさせる自信をつけた、と評価し今後も採用していく方針を明らかにしている。公労協の中核といわれた国労が、4.23ストを延期した行動に対し、「絶対に認めることができない」 と強い批判を打ち出していることと合わせ、動労のこのような”高い姿勢”は大いに注目してよいことがらであろう。

ちなみに、4.23ストを延期した行動とは、以下の行動でした。

国労、4/23の半日スト延期指令 4/22
動労は全国6拠点で6時から8時までの時限スト実施、ローカル線が主だったことから列車への影響はほとんどなし 4/23

ここにあるように、拠点ストを動労は単独で行ったことで、自信を付けたと発言したわけです。

ちなみに、4.30スト配下のようなストライキでした。
仲裁裁定への移行で交渉 4/29~4/30

公労委は、スト前夜の4月29日から30日未明まで協議を重ねた結果、29日中に話合いのついた私鉄の相場を考慮することで、国労を除き仲裁委への移行を了承、したが、国労は、当局側との自主交渉を主張。30日早暁から折衝に入り、5時15分に了解に逢し、直ちにスト中止指令を発したが、運休は、国電424本、24本の旅客列車、37本の貨物列車に遅れとなった
国労動労の一部、私鉄中小の一部がスト突入、最悪事態は回避し、新賃金は仲裁委へ 4/30

動労は拠点ストであったと思われますが、資料不足で十分確認は取れておりません。

ただし、動労が採用した拠点スト方式は、有効であるとして今後も戦術として取り込むと明言しており、徐々にこうして動労はより過激な方向に進んでいくのでした。

 

続く

 

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生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第二回

2ヶ月ほど放置状態になっていました。

申し訳ありません、今回も国鉄の生産性運動前後の国労動労の動きと言うことでお話をさせていただこうと思います。

動労の松崎委員長とは

動労と言う組合は、国鉄末期には革マル派という答えが返ってくるかも知れませんが、委員長の松崎明が、革マルの幹部であったことからとも言われました。

更には、鉄労と協調して労使協調宣言すり寄っていくイメージを持たれる方も多いかと思いますが。

動労が過激な方向に走り、革マル派が増えた背景には、当時の動労の委員長松崎明の存在が大きかったと言われています。

動労を過激な運動組織にしていった背景には松崎の存在が大きいと言えそうです。

国鉄動力車」という本によれば、当初の動労というのは職能組合として、極めて穏健で昔ながらの職人気質の性格の組織であったと回想しています。

松崎 なんと言っても当時の機関車労働組合というのは、メーデーその他の集会に行っても歌一つうたえない。デモも基本的にできないという労働組合であった・・・職場の段階では、ある意味では当局に庇護されている様な職能イズムな運動であったから、したがって職場闘争というものは全くない・・・以下略

国鉄動力車 P46 あるべき運動の姿 から引用

と有るように、当時の動労は職能組合として極めて階梯意識の強い組合であり、機関区という独特の組織であったと回想しています。

そうした中で、松崎らは青年部を動労の中にも結成させると共に、そこで頭角を現すことになります。

機関車労組は先細り という不安から?

青年部は郵政の全逓国労も比較的早くに誕生するのですが、動労昭和36年まで待たねばなりませんでした。

その背景には、前述のように階梯制意識の強い職場であったことも大きく影響していました。

当初機関車労組と名乗っていたのですが、国鉄が動力分散化方式を選択する中で、機関車労組は、その名称を昭和34年動力車労働組合動労)に変更することとなりました。

その背景には、国鉄が動力近代化として気動車や電車などの動力分散列車を中心に構成することとなり、機関車を漸次廃止していく方針としたことも要因だったようです。

ここに昭和32年当時の機関車労組の地方別国労・機労の組合員の比率を示す資料があります。交通年鑑の資料を基に筆者が作成したものです。

昭和31年、組合別構成員数

昭和32年鉄道年鑑資料から引用

これによりますと昭和31年当時の全国の国労組合員359,235人にこれに対して機労組合員は、全国で53,495人、その比率は全国平均17.99%となります。

機関士が全員機関車労組組合員というわけではなく、国労に残った機関士もいるため、東京などでは極端に少なくなっていることがご理解いただけると思います。
また、電化や気動車化で機関区が気動車区や電車区に改変もしくは統合される場合もあり、その場合は機労から国労に変わることから、機関車労組の組合員が相対的に減少していくという問題も抱えていたようです。

マスが黄色のところは、全国平均よりも機関車労組の組合員が多い管理局を示しています。

二つの派閥が動労内で誕生

機関車労組は、昭和34年7月24日~28日の機関車労組全国大会で組織名を「動力車労働組合」に変更することを決定しています。

ここで、改名すると共に、総評への加入を試みた点は注目に値されるかと思います。

その背景には、前述の通り当局の合理化による組合員の減少を懸念したものでした。

そして、もう一つ注視すべきことは、機関車労組の中では二つの派閥が生まれていたことです、昔ながらの職能別組合を目指す、国鉄一家主義を肯定するグループ(機関車同志会)と、左翼的要素が強く、総評加盟を目指していたも政策研究会でした。

  • 機関車同志会(後に労運研)
    昔ながらの機関車労組の階梯組織を意識した組織
    秋田、仙台、千葉、金沢、広島、四国、門司地本
  • 政策研究会(政研派)
    左派的要素が強い組織で、翌年誕生する青年部を応援することとなり、動労左傾化を進めることとなりました。
    釧路、旭川、青函、盛岡、高崎、東京、名古屋、大阪、岡山

政研派は、初代青年部長に就任した松崎明(東京地本出身)らを育てる方向に進み。やがて主導権を労運研から奪うこととなりました。

これは、全逓(郵政の組合)や国労が青年部を抑え込もうとしていたのに対して反対の動きを行った訳で、結果的に動労は機労誕生当初よりも攻撃的な組合へと変質することとなり、初代青年部委員長が革マル幹部であった松崎明であったことが、動労革マルという認識を持たせることとなりました。

機関車労組第9回全国大会を開催 国鉄動力車労働組合と改称 7/24~7/28

甲府市において開催し、運動方針、役員の再選を行い、名称を動力車労働組合と変更。総評加盟問題は136対112で否決となり、本年度は総評加盟の方向を指向するということになった

国鉄があった時代 昭和34年後半

青年部初代委員長で松崎明は頭角を現す

動労自体は、やがて主導権は政研派が握ることとなり、国労以上に過激な組織となっていくわけですが、その背景には松崎明が(政研派)をバックとして先陣を切る形となって新しい時代の組合運動を行っていった点が大きいと考えられます。

そうしたことを容認した背景には、機関車乗務員の養成は時間がかかるという事も大きな課題でした。

更に、国鉄が進める無煙化と動力分散方式への移行は動労にしてみれば前述の通り機関車が無くなる=職場の減少に繋がるわけですから、それは組合員数の減少を意味しますので。

動労は、ここで昭和36年以降積極的に合理化反対闘争を打ち出します。

以下は、弊サイトから反合理化闘争を抜粋したものです。

昭和36年

反合理化闘争で動労が9拠点で十割休暇闘争(当時はストライキとは言わなかった。)実施 3/15

全国9拠点(旭川長万部・青森・浜松・奈良・高松・広島第二・鹿児島)で十割休暇闘争を実施、これにより動労は「協議においては相互の完全了解を図ることを目的」とするなど、当局が一方的に実施できないようになった

昭和38年

動労、3・31闘争 3/31

EL・DL時短、2人乗務維持闘争など

動労、12・13闘争を実施 12/13

車検委答申に基づく基地統廃合反対闘争

総評年末第三次統一行動。動力車は時限スト 12/13

昭和40年

動労 白紙ダイヤ改正反対闘争 9/22

動労 12・10闘争 12/10

EL2人乗務、東北・常磐線電化問題を議論

昭和40年

動労、運転二科反対闘争 3/29

動労、反合理化、反戦統一闘争 10/21
(総評の統一行動で、五四単産ベトナム反戦統一ストを決行)

動労を中心とする、反合理化闘争 12/23

業務の部外委託、職業教育制度、乗務員賃金・時短などを当局側が提案に対し17拠点において半日ストライキが行われた
昭和42年
春闘第二次統一行動。全国金属、全日自労、民放労連動労新聞労連、全印総連など11単産、半日から30分の時限スト。国鉄労組は時間外の職場集会 3/30
動労は、反合理化闘争として位置づけ、検修新体制・助士廃止などに反発
国労動労、5万人合理化反対の共闘組織として「国鉄反合共闘委員会」を設置 12/7
 
国労国鉄当局が提案した「5万人合理化」と米軍需物資輸送に反対して順法闘争を実施 12/12~12/15
「当面の機械化、近代化計画」に反対する国労動労の両労組は、15日早朝の中止まで4日間にわたり、「順法闘争」を行なった。重点がおかれた東京周辺の国電各線は、運休や遅延があいつぎ、終日ダイヤが乱れ、同期間で延べ300万人の通勤客の足が混乱
今度の闘争は、平常は安全性を軽視した無理な運転を行なわせているだとか、規定に従った仕事をすれば列車は当然に遅延するものだというような印象を世間に与えているが、ダイヤを乱すことを目的としたサボタージュであって、故意に規則を曲げて解釈(注意信号で、一旦停車するなど、異常事態がないのにノロノロ運転をすることで、大幅にダイヤを乱す事を目的としていた

昭和43年

国鉄労組、反「合理化」で第2次順法闘争 2/27~3/2

国労27地本で、第二波闘争が実施され、通勤通学列車に大きな乱れか生じた動労動労28地本を中心に第4次全国統一行動・順法闘争 最終日の3月2日 国鉄労組は機関区、検修関係職場、工場など 全国38拠点で半日スト。動労も13拠点でスト。時短など一部は前進したが大部分は引きつづき協議
国労動労合理化反対闘争第二波半日スト 3/2
全国50ヵ所の車両修理工場・機関区・運転所、駅等で4時間の時限ストに入り、大幅な列車の混乱が生じこの影響は3日まで、動労も資料では、検修新体制、助士廃止、苦い委託、事務合理化を前面に出したストライキを実施
国労動労 第三波合理化反討闘争 3/12~3/15
国鉄の機械化・近代化に伴う5万人合理化計画をめぐって、12日から15日までの4日間、国労動労反対闘争に入り、「サポ運転(遵法闘争)」を中心に下ストライキが行なわれた
国労動労スト(反合理化闘争 第3波、全国で1,276本運休、中間抑止54本 3/23
国労(第2波)・動労(第6次)始業時から、デイーゼル電気機関車の1人乗務化反対を掲げる、全国一斉順法闘争に突入 9/9~9/12
国労動労による10月時刻改正、1人乗務化反対闘争による第2波で、国労は全国の駅、車掌区、客貨車区、運転所、機関区、工場など 114カ所で順法闘争。

国労動労、3時間から4時間の時限ストに突入。列車ダイヤ混乱 9/12

時限ストを前にして、労使の交渉は続けられたが、予定通り、全国33拠点が、正午頃まで時限ストに突入。このため、列車運休300本のほか、東海道山陽本線の特急が20~90分の遅れを出し、ダイヤの混乱は正午すぎまで続いた
動労は、反合理化闘争第4波と位置づけ

国労動労時限ストに突入したが、EL・DL問題で了解点に逢し、午前6時~8時中止された 9/20

昭和44年
国労動労は、一人乗務に対して反対闘争を行なうことを表明 5/12
国鉄機関助士廃止問題・国民安全調査委員会」発足 5/24
動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~

動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28
機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された
動労はこの闘争を反合理化闘争、第6波と位置づけ

国労動労17時間ストに突入 -EL・DL1人乗務反対-反合理化闘争第7波 10/31

EL・DLの助士廃止に関する団体交渉は精力的に行なわれたが、ついに合意に達せず、国労動労は北海道から九州に至る太平洋ベルト地帯の主要幹線で、17時間といういまだかつてない大規模のストに突入。そのため各線はかなりの混乱をみせたが、28日の異例の支社長、関係管理局長会議の召集や関係局の綿密な諸対策の結果、貨物列車の早め待避や、乗務員の確保に万全の努力が尽され、列車の遅れ、乱れは予想よりも少なかった
「10月決着」ということで労使合意に達した筈の1人乗務問題、話し合いによる円満な解決をという国民の願いはまたもや裏切られ、相変わらずの実力行使による違法ストとなった
このため、1日朝の国電湘南・横須賀線がマヒ状態になったのをはじめ東海道、中央、山陽、鹿児島線など、主要幹線のダイヤが大きく乱れた。労使交渉の結果、当面3,300人から3,500人の助士を残す。一人乗務旅費を5割増、1日平均7時間を標準とする等残すほかで合意し、1日13時間半におよぶストが中止され、3年越しの助士廃止問題に決着がついた

 

長々と書き並べてしまいましたが、松崎明・谷恭介共著の国鉄動力車 P82~84の61年から69年の闘いを参照しながら、弊サイト「国鉄があった時代」から該当闘争を抜粋したものです。
 
今回は、動労の歴史特に、松崎明という人物を中心に語らせていただく部分が多々ありました。事実の羅列ばかりで面白みには欠けますが、資料としてご覧いただければ幸いです。

続く

 

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