日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第二一話 国労による反マル生運動

今回も、生産性運動に関するお話を、鉄労の「国鉄民主化への道」並びに、大野光基氏の「国鉄を売った官僚たち」を参考にしながら、他の資料なども参照して、お話を進めさせていただきます。

国労は、マスコミを利用して生産性運動に対抗することに

国労は、昭和45年後半から本格的な反撃に出るのですが、こうした場合、例えば国労の資料だけを見ると国労有利な記述になり、鉄労主体で見ると鉄労有利な記述となり、当然のことながら当局側視点に立つと当局有利となるのはやむを得ないところがあるのですが、どうも時期的な部分や、細かいところで見解が異なる記述があったりして、その整合性をどのように取るべきか少し頭を悩ませています。苦笑

まぁ、そこをどのように整理していくか、もしくは追加の資料を探していくべきかと頭を悩ませています。苦笑

ただ、国労としてもマスコミを使おうとしたことはほぼ間違い無いようで、マスコミ共闘会議を紹介された後に、毎日新聞の記者、内藤国夫が、国労の幹部と会って、新聞沙汰になる記事を引き受けたとするのが、道も流れとしてはすっきりするようです。

  • マスコミ・文化労働組合共闘会議(略称・マスコミ共闘)のメンバーを紹介される。
  • 毎日新聞社の新聞記者が、国労幹部と会った
  • 国労に有利な記事を量産して、他の記者の競争心をあおり立てようとした。

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国労国鉄当局に潰されるという情報をマスコミに流す

最初の、「マスコミ・文化労働組合共闘会議(略称・マスコミ共闘)のメンバーを紹介される。」というのは、国労弁護団と恒例の忘年会席上で出た話が具体化したというもので、国鉄民主化への道で以下のように書かれています。

引用したいとおもいます。

あれはたしか1970年の年末だったと思う、恒例の国労弁護団の忘年会だった。(中略)この私の話を聞いてくださったのが弁護団の一人である小島成一先生である。先生は酒を飲まれなかったようにおもう。その先生が酒を飲みながらの私の話に頷きながら、「酒井さん、それならばいい人を紹介しよう」とのこと。主席から出た話が実を結ぶことになった。それが反マル生闘争の陰で活躍した「宣伝プロジェクト」である。小島先生から紹介されたのは宣伝を本職とするマスコミ共闘の面々であり、その中心がマスコミ共闘事務局長の隅井さんであった。

また、ここで、1億円の闘争費用を出すこととしたとも書かれているのですが、これは多分、「ここが変だよ生産性運動」等の印刷物に使った費用と思われ、記者に金が流れたというわけではなさそうです。

次の、「毎日新聞社の新聞記者が、国労幹部と会った」と有るのは、同じ年〈1970年)の年末に、中川新一国労委員長、酒井一三書記長、富塚三夫企画部長に毎日新聞記者内藤国夫が呼び出されたことが切っ掛けでした。

戦後の労働運動を牽引してきた、国労が潰されかかっていると言われ、内藤国夫が、労働記者クラブの記者諸氏の競争心をあおり立てると言う作戦を展開することにしたと記しています。

その辺を、「国鉄を売った官僚たち」から引用してみようと思います。

戦後の労働運動の牽引車的役割を果たしてきたと自負する国鉄労働組合が、いま、つぶされかかっている、というのだからコトは穏やかではなかった」

そこで、内藤は次のような作戦を立てた。

「まずは毎日新聞が独走することで、労働記者クラブの記者諸氏の競争心をあおりたて、やがて『新聞ザタ』洪水を起こそう、との作戦」(『一人ひとりがつくる労働組合を』より)

引用終わり

とあるように、国労が潰されかかっているというので、マスコミが一肌脱ごうという事になったわけで、早速色々な記事を書いて、謂わば国労に有利になるような記事を書きまくったとされています。

そのときの心持ちは、組合の機関紙に書くような気持ちで書いたと記しています。

再び、国鉄を売った官僚たちから引用させていただこうと思います。

「5月19日の夕刻、上野駅から新聞社に戻った私は、まるで労働組合の機関紙に書くような気持ちで、現場の組合員たちの訴えを記事にした・・・中略・・・一字一句、直されず、私の書いたままの記事が社会面のトップに載っている。私はそのゲラを持って国労本部へとかけつけた

毎日新聞の記者が、完全に国労の走狗となっていたと言えます。

ただし、こうした記事自体は、新聞ザタにはならなかったものの、その起爆剤となった事は間違い無く、朝日新聞がこの作戦に乗ってきたのは、朝日新聞であったそうです。

事もあろうか、ヤラセ投稿を行ったというのです。

架空の人格を作って、自宅まで来て組合を変われと強要されたという投書を「声」欄にとうこうしたわのですが、この投書は、後に、鉄労の調査で、架空の職員であることが判明したわけでした。朝日新聞は知っていながらそのまま掲載したのであろうとされています。 

毎日新聞の記事が起爆剤となって、飛び火

実際に、毎日新聞が殆ど毎日、マル生運動に関する記事を書くとなると、朝日新聞としては書かざるを得なくなるわけで、こうなってくると国労の思うつぼとと言いますか、競争で記事を書こうとするし、積極的に国労に記事を取りに行き、朝日・毎日が続くと、読売もやはり関心を持たざるを得ずという形となり、そこにサンケイが時々加わるというイメージでした。

こうなってくると、各マスコミは、国労の良いように情報をコントロールされる状態になっていったと言えそうです。

多分、この時点で国労は、生産性運動に対する勝機を得たと言えるのではないでしょうか。

毎日新聞が連日、国労に関する記事を出すものですから、朝日新聞も追随することとなるのですが、個々で朝日新聞はあるミスをしてしまいます。
それは、国労が提供した記事をよく検証しないままに、記事にしてしまった(いわゆる誤報)のでした。

新聞が国鉄の生産性運動を、組合対策、神がかり、復古調というように批判的に取り上げた記事だったのですが、中央学園歌として紹介されているのは、明らかに間違っているのに、新聞社は確認もしないでそのまま国労が提供した記事を掲載したと言うことが露見したというものでした。

その辺を『国鉄を売った官僚たち』から再び引用させていただきます。

国鉄の吹き荒れる生産性運動」「われ再建の人柱、オレがやらなきゃだれがやる」「暗夜の儀式」「復古調」「ケチケチ」「組合対策」「対立」と見出しをみただけでも、生産性運動つぶしを露骨に狙った全く意図的な記事であることが分かる。

 特集記事はなんともひどいことに、国労資料をそっくり載せておりながら、あたかも『朝日新聞』が独自に取材したかのようなかきかたをしているのだ。」

として、中央鉄道学園歌として紹介しているのは、鉄道研究社発行の国鉄職員向け雑誌『フォアマン』に掲載された、生産性運動に関する歌をそのまま中央鉄道学園の学園歌として紹介したものであった。

普通に読めば学園で、「再建」とか「生産性」と言った言葉が出てくるわけがない(元々、学園は中立的意味合いが強く、生産性運動に関しても強く難色を示していた)わけで、その原因は、国労からもらった資料の内、国労教育宣伝部発行の『生産性運動の原理と国鉄における実態ー俺がやらねば誰がやる』というパンフレットの中に、「中央鉄道学園の歌詞」として、誤って先ほどの歌が掲載されていたため、そのまま転用してしまったことが原因であったそうです。

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生産性運動導入から、中止まで 第二〇話 国労による反マル生運動

組合員の大量脱退で焦る国労本部

今回は、国労の反撃という点に絞って、何回かに分けてお話をしていこうと思います。

生産性運動は、燎原の火のごとくと表現されるほど、現場に浸透していきました。

国労は、当初は生産性運動に関しては熱心の取り組んでいませんでしたが、昭和45年11月から12月にかけて国労組合員が大量に脱退して、鉄労に鞍替えすると言う事態が発生しました。

これに関しては、国労40年史に下記のように記載されています。

少し引用してみたいと思います。

70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては、かなりショッキングな出来事が幾つかの地本で相次いでおこった。しかもそれは、全国規模で集中的に拡大する様相を呈しはじめた。国労動労)からの集団脱退、鉄労への集団加入であ連日、現場から報告されてくるその実態は、従来の組織攻撃とは、規模においても手段においてもまったく異なるものであった。

 ここにありますように、鉄労は10月1日時点で79,672人であったそうで、来年までに10万人突破が合い言葉であったことからも、その後強力なオルグが行われたことは早々に堅くなく、実際国労を脱退しないまでもマル生グループと言われた人たちにより、昭和45年5月20日の24時間ストでは、東京三鉄道管理局管内では、全列車の役60%が運転され、スト破りの国労動労)組合員もいたようで、彼等のことを、マル生グループとして半ば馬鹿にしていたようですが、こうした人たちが一斉に堰を切ったように、鉄労に移籍したものと思われます。

 

焦る国労本部は対応策を協議

大量の組合員脱退はさすがに、国労本部も驚きを隠せず、正月返上で「マル生」対策討議が行われたと言われています。

かなり過激な意見も出たようですが、組合の存在意義は組合員があってこそである以上真剣に受け止めなくてはならないとして、総力戦で戦うことが確認されたそうです。

その辺りを再び少し長いですが、引用してみたいと思います。

「今や組織の問題こそ真剣に、そして深刻にうけとめて、原則的な組織運動をすすめていく決意に立たなければならない・・・われわれの生命は組織である。国労組織に手を出す者には容赦なく、対決するキゼンたる根性を持つ必要がある」との意思統一がなされた。同時に、「交渉等において哀訴嘆願するようなことがあってはならない」こと、「役員間の不団結の間隙を縫って巧妙にクサビを打ち込んできている例が多い」こと、「中執はナメられているのではないか」等々が冷静に反省・検証された。そうした反省の上に立って、この討議では、「総力戦の結集」が決意された。(「生産性向上運動とわれわれはいかに闘うか」国労中央労働学校討議資料、71・1・7)

国労本部がここで考えた方策は、「国鉄一家」(鉄道の職場の上司を父と慕うといった考え方)からの脱却を図ることであり、職場における階級闘争を継続強化する事を確認したものでした。そして、この方策に従い71年春闘からマル生に対する反対闘争であるという認識がなされました。

そしてこれを受けて、国労では春闘での闘いは元より、1月24日付の国鉄新聞(国労機関紙)でくたばれ生産性運動の掲載が始まったそうです。

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

この根底には、「生産性運動は合理化を推進するてことしての経済運動であるが、同時に組合運動の昂揚(こうよう)を押さえる思想運動であると規定していましたが、こうした運動は早くも頓挫することとなりました。

このチラシは、週刊誌版4ページ、色刷り、漫画入りのリーフレットで15話まで続くもので、その全文は国鉄マル生闘争資料集に記載されています。

国労は、「嘘だよ生産性運動」の冊子などを作成するも

生産性運動の責任者でもあった、大野光基氏は、自身の著書

国鉄をうった官僚たち」で、くたばれ「生産性運動」の中に次のような一節がある、としていますが、マル生運動資料集には収録されていませんので、他のチラシか何かだったかもしれませんが、

「成果の公正配分で、ソ連や中国は生産手段の私的所有がないので生産の成果も、全労働者。全国民のものとなり、生産性を上げれば、成果が公正に配分される、反面資本主義では、資本家に搾取されると言う理論展開をしていました。」

(現在、ソ連は崩壊してロシアとなり、共産党一党独裁中華人民共和国共産主義で有りながら社会資本を導入することで経済発展を遂げ、日本を抜いてGNP第2位の地位に上がってきたのはご存じの通りです。

共産主義=理想の国、日本やアメリカなどは地獄の国というイデオロギーを植え付けようとした考え方は、当時の国労組合員が大量に脱退したことの危機感への裏返しで有ったと言えそうです。

そして、その決意は下記のように、正念場の闘いだと言う認識をしていました。

その辺を再び国労40年史から引用してみたいと思います。

「マル生」運動に対する基本的な取り組み方が決定されたとはいえ、「乾坤一擲の勝負をしなければならない」(春闘体制確立・当面の行動について」指令第16号71・2・2)と言う言葉に代表されるように、国労にとってはこれ以降が組織の浮沈を掛けた正念場のたたかいとなった。

こうして取り組んだのが前述の、「嘘だよ生産性運動」などの冊子で有ったわけですが、組合員一人ひとりが、階級を意識して運動に取り組む、生産性運動は資本家により搾取されるものだという意識付けを図り、分断を図ろうとしましたが結果的には上手くいかなかったのです。

社会党国労の要請を受けて動くも空振りに

昭和46年3月には、国労の要請を受けて動き出し、大野氏は「国鉄における生産性運動」を説明したそうです。

一人の社会党議員は、途中で退席したそうですが、社会党運輸部会の会長久保三郎議員は、生産性運動に賛同、3月2日の衆議院社会労働委員会社会党川俣健次郎議員は、下記のように質問しています。

国会議事録から引用したいと思います。

○川俣委員 
 そこで私は、赤字問題ということとからんで、総裁のほうで非常に苦労しておやりになっているようだが、生産性向上運動、これにからませて質問したいと思います。
 私は、生産性を上げるということは必要だと思います。しかし、当局がやっておる生産性向上運動というのは、どうやら目的じゃなくて、何かの手段というか、その辺をこれから少し質問なり論争していきたいと思います。
 それでは、生産性向上運動というのは、どこの国で生まれていつごろ日本に上陸してきたかということをどのようにつかんでおるか。それから、私たちから見ると、去年、おととしあたりから大国鉄の赤字に対して、生産性向上運動というのがおそい。企業ではもう貿易自由化というので、十何年前から、生産性向上をやらなければならぬ、それで日本の場合もいわゆる日本生産性本部というものができたようです。これに対しても質問します。
 日本生産性本部に対して、国鉄当局はどのように思っておるのか。あれを指導理念を生む一つの機関だと思っておるのか。日本生産性本部というのはどういうような組織体で、どういうような資本でつくられて、どういうような経費でやって、そうしてどういう指導をやっておるのか、こういったところもお伺いしたいと思います。

 

○磯崎説明員 生産性本部の詳細につきましては、担当常務から申し上げさせます。
 ただ、私が現在部内に生産性運動を持ち込みました、これは確かに先生のおっしゃったようにもうおそかったかもしれません。もっと早く、まだ国鉄が黒字だった時分からこういう問題にもっと真剣に取り組むべきだった、この点は私大いに反省しているところでございます。先ほど先生のおっしゃったとおり、私をごらんになっても、民間会社の社長さんとは気魄が違う、赤字に耐えているような顔じゃないとおっしゃった、まさにそのとおりかと私は存じます。その意味で、もっともっと早くからこの生産性運動を私としては真剣に始めるべきだったというふうに思います。
 私どもといたしましては、この生産性運動は一つの精神運動というふうに考えております。生産性本部の三原則その他につきましては、先生が御承知のとおりでございますが、百年たって、このいわば老体化、斜陽化した国鉄を、冒頭に申し上げましたように、二十一世紀に向かってさらに発展させ、要らないものを切って、ほんとうに国民のお役に立つものだけを残して、そうして将来の国民の福祉のお役に立ちたいというふうな姿勢にするためには、やはり部内の気持ちもここで変えなければいけない、いままでのお役所主義の、これは私以下全部でございますが、お役所主義の考え方では、もうこの競争激甚な輸送競争にはついていけないということを考えまして、ここでもって一種の精神の、何と申しますか、躍進と申しますか、改革と申しますか、そういう意味の生産性運動を、これは国鉄職員としてのかまえを私は考えました。

長くなりましたが、一部抜粋の上アップさせていただきました。

質問している、社会党川俣健次郎議員は、国労水戸分会出身の社会党議員で、社会党右派に所属する議員で、国労動労としてみれば脱退者が毎月数千人規模で起こる状況を何とかしてもらいたいとして、社会党に質問をしてもらったわけですが、むしろ生産性運動の導入が遅いのではないかと逆に質問されたとしており、国労動労の面目は丸つぶれとなってしまいました。

こうして、国労の最初の生産性運動に関する取り組みは脆くも失敗に終わったわけでした。

 

昭和46年3月2日 衆議院 社会労働委員会 第8号。磯崎総裁と、川俣健二郎議員の質問に関する議事録部分を全文抜粋しました。

jnr-era.blogspot.com

合わせてご覧ください。

関連 

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生産性運動導入から、中止まで 第一九話

今回から、大幅に時間を戻して、再び昭和46年3月まで時間を巻き戻したいと思います。

今回も、鉄労編纂、「国鉄民主化の道」を参考に、関連する資料等があれば、それも併せてアップしていきます。

生産性運動はどのような経緯で導入されたのか?

国鉄が生産性運動を導入した背景にはどのような経緯があったのでしょうか。

この点を明らかにしないと、生産性運動だけが一人歩きしてしまいます。

生産性運動に関しては、国鉄当局としては、止むにやまれず導入した経緯があると言えそうです。

生産性運動=国鉄当局の不当労働行為だった・・・終わりでは、何故そうなったのかという部分が全く見えてきません。

国鉄が生産性運動導入に踏み切った背景には、国鉄財政再建問題がありました。

さらに、磯崎氏自身が、総裁に就任するための言ってみれば実績を上げたかったという点もあったかと思われます。

これは、昭和44年に一回目の国鉄財政再建計画が策定された事が呼応していると言えます。
実際には、その後、昭和48年、更に昭和51年にも再建計画が策定されることになるのですが、いずれも取りあえず制度だけを作ると言ったいわば官僚の作文になっていました。

この辺は、葛西氏が「未完の国鉄改革」で下記のように発言しています。

そのとき先輩から「この再建計画は2年もつように作られている,二年経ったら新しい計画を作る」と聞いた。10年計画のうち、当面の1~2年は収入も経費も現状に近い形で堅めに見積もってあるので計画との乖離はすくない。もちろん、現状は赤字であるからそのままではどうしようもない。そこで、当初の1~2年は現状に近い線でスタートするが3年目くらいから設備投資によるサービスの質的・量的改善の効果が現れはじめ、収入が伸びるという筋書きにしなければならない。

未完の国鉄改革 第2章 赤字転落・借金漬け経営へ 37ページから引用

 

他にも、磯崎総裁就任前後には、支社制度の廃止と、再建計画が策定されていることにまず注目していただきたいのです。

さらに、就任後も全国行脚と称して,東京南局を皮切りに,一週間に一回の割合で現場を訪れ現場長との対話を行いましたが、これも、磯崎氏なりのアピールであったのではないかと思われる節がその後多々出てくるのですが、詳細は省略させていただきます。

磯崎氏の総裁就任は,消極的な理由から

実は、磯崎氏が、矢継ぎ早に施策を打っていった背景には、政府当局に対する磯崎氏の評判が芳しくないことも一つに挙げられるかもしれません。

特に、新聞報道されていたにも関わらず、待ったがかかって一週間ほど就任が遅れたというのは前代未聞であったと言えそうです。

その辺の事情を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

運輸相の原田は、財界人をあきらめ、第6代国鉄総裁に磯崎叡を昇格させることにし(もちろん首相の了承も得て)5月20日閣議で正式に決定する、と新聞発表した。・・・・中略・・・・ところが、20日閣議では決まらなかった。23日の閣議でも決まらなかった。・・・中略・・・本当は自民党の一部から、「磯崎は社会党と親しく、組合にも甘いと聞く。これでは国鉄の再建はおぼつかない」というクレームが付いた、と言うことらしかった。

 こうした背景があったことから、前述したように、就任直後の現場行脚や、生産性運動の導入などで、焦りと言いますか、頑張っているアピールをしたかったのではないかと考えてしまうのです。

実際、生産性運動を導入したのも、そうした批判に対するポーズとも取れますし、第一回目の再建計画策定が、総裁就任直後というのもいたずらに符合しているとも言えないでしょうか。

磯崎総裁とはどんな人?

磯崎氏は、生粋の国鉄官僚であり、強きに弱く、弱きに強い、典型的な官僚でした。

その経歴をwikipediaの記事を参照しながら列記してみたいと思います。

  •  1935年   鉄道省に入省
  • 1939年1月   大臣官房人事課配属
  • 1941年1月   広島鉄道局運輸部貨物課長、後に、興亜院事務官この時、大平正芳等若手事務官で「九賢会」を作ったことが後に政界とのパイプとして役立つこととなる
  • 1949年6月~ 下山定則総裁下で職員課長
  • 1950年     加賀山之雄総裁下では文書課長国鉄スワローズ設立の推進役となる
  •  この間   弘名鉄道管理局長
  • 1956年8月~  本社営業局長
  • 1960年1月   常務理事昇格
  • 1962年   国鉄退職
  • 1963年   国鉄復帰、副総裁として石田総裁を支える
  • 1969年5月27日、石田総裁退任に伴い、第6代国鉄総裁に就任

更に注目すべきは、十河氏とは折り合いが悪かったという点で、営業局長か常務理事まで昇進するのですが、1962年には十河総裁から解任通知を出され、その後石田禮助氏が国鉄総裁に就任すると、社会党の受けも良かったこともあり、各方面から、磯崎氏を副総裁にと言う声が多くて、1963年5月には再び副総裁として国鉄に返り咲くこととなったのでした。

ただし、社会党や組合の受けが良いということは前述の通り、総裁に相応しいのかという点で大きく問題視されたことも事実でした。

  

 という点を指摘されたことが、総裁就任直後の現場行脚であり、生産性運動の導入であり、第一回再建計画の導入などに繋がっていると思われます。

結果的に、磯崎氏としてみれば、頑張っているアピールをしたかったのでは無いかと思えるわけです。

  

国鉄生え抜きの鉄道総裁

 

総裁の全国行脚と生産性運動の本音

磯崎総裁は、就任後東京南局を皮切りに、全国の現場を訪ねたのですが、実際にはこの対話集会と言う名の現場行脚も、結果としては取りあえず実施してみました・・・的な雰囲気であったと、「民主化の道」には書かれています。

そのあたりを再び引用させていただこうと思います。

この総裁との対話集会に出席した現場長に感想を聞いたら、「膝を交えて話し合うなどという雰囲気ではなかった。何でも思うことを話せ、と言うが、局の総務部長や意地悪な課長が陪席しているのだから、本音を話したら、すぐお目玉だ。第一、最初から実情を説明したり、決意を披瀝する人が、局の指名で決まっていました」と言っていた

 と有るように、管理局でも現状は十分把握していたとしても、それを覆い隠す雰囲気が合ったこと、そしてその辺も十分総裁も承知していたと思われます。

実際、現場の職員の一部に反国鉄分子がいるが他の職員は優秀で善良だ。これら善良な職員をまとめて、反国鉄分子に対抗する力に育てるのが現場長の責任だが・・・そのためにはどうすれば良いかが問題だ」と発言しており、これが生産性運動を導入させる伏線になると思うのですが、前述したように、管理局も現場の恥を外に出さないという雰囲気が有ったわけで、どこまでも、本当の現場の実情を総裁が把握できたのかはいささか疑問に思えてしまいます。

 

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未完の国鉄改革



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生産性運動導入から、中止まで 第一八話

鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。

本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。

はじめに

今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。

ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。

なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、その提言をおこなったのは、当時国鉄監査委員を務めていた、西野嘉一郎氏で有り、氏が国鉄監査委員長を務めていた石田礼助氏(十河総裁の後任総裁)に提案して、それが実現したそうですが、石田氏が退任後、磯崎総裁は支社制度を廃止してしまいます。

磯崎氏と言うよりも国鉄幹部の考え方が、中央集権的な考え方に凝り固まっていた事が原因とは思われますが、いわゆる大企業病に侵されていたと言うべきかもしれません。

当時の支社制度導入に関しては、国鉄部内誌、国有鉄道1982年4月号 「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」で、以下のように書かれていますので引用したいと思います。

国鉄再建の途は分権化よりほかないと考え石田委員長に進言した。
当時の国鉄は北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていたが、総支配人には何の権限もなくすべて中央集権であった
何十万人かの職員を有する大国鉄を1人の総裁と数人の常務理事で運営することは至難のわざである。とくにそのころの中央幹部の仕事はスト対策等労務管理に大部分の時間が費やされていたのである。
私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念することであった。

中略

君のいう支社制度の案は大変よい。早速十i河さんにいって実施しようではないか。」ということで,この制度はただちに実施されたのである。

 

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国有鉄道昭和57年4月号からキャプチャ

支社制度の廃止がもたらす本社の問題

国鉄当局が全国的に生産性運動を広めようとしていたとき、当局では昭和32年4月に発足した、支社制度を廃止して、本社→管理局という昔ながらの中央集権制度に改めることになりました。

支社制度は、全国を9支社(発足当初は6支社)を設置、本社権限を大幅に降ろした地方分権制度にすることで意思決定の迅速化などを目指したものでした。

支社制度とはどのようなものであったのか、以下に概要を示してみたいと思います。

  • 従来の本社直轄組織でとして地方6カ所に駐在して居た、総支配人制度を廃止し、新たに地方機関として全国に6支社を設置する。
  • 地方機関である支社には、本社の権限を大幅に降ろすことになる。
  • 経営単位として支社に権限を与え、管理局毎の収入目標などをもし者において責任を持たせる
  • これにより、本社から支社に以下のように権限が降ろされることとなりました。
  1. 現場機関・職場の設廃(ただし、旅客車が利用する駅の設置は従来通り本社権限、引き続き仮乗降場は支社権限)
  2. 連絡運輸に関する事(私鉄との連絡運輸は支社長の権限とする(共同使用駅の使用料や、他社との連絡運輸による乗入れ等の承認
  3. 急行券・特別2等車、寝台券の割り当て枚数の決定
  4. 旅客運賃・料金の後払い承認を支社内相互発着の場合は支社長権限とした
  • 輸送関係では、準急・快速列車以上は本社権限は引き続き変わらないが、他支社に影響を及ぼさない普通列車及び貨物列車は支社権限とするほか。臨時列車についても準急以上の優等列車は不可だが、普通列車などは支社権限で実施できる
  • 他支社に影響を及ぼさない、準急・快速列車の指定
  • 他にも人事関係なども支社に権限が降ろされ、管内の課長以下の転勤、賞罰等の権限が支社に降ろされる

など、これでもかなり端折った内容ですが、従来のお飾り的であった、総支配人制度と異なり、支社長にかなりの権限が降ろされることになりました。

こうした権限を大きく下ろした支社制度でしたが、

昭和45年8月20日は、支社制度が廃止されてしまい、総局、輸送計画室が新設されることになります。これにより四国は総局に移行、九州・北海道支社も管理局機能を統合した総局に改組されました。

当初は、九州・四国は西部支社に、新潟は関東支社でした 支社制度発足

支社制度発足

支社制度は何故廃止されたのか?

その原因を支社幹部の人事権を本社が握っていたことが原因ではないかと指摘しています。

その辺を、「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を,本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2.3年すれば本社勤務になる、というようなことでは、支社制度のうま味ははっきできない。運輸調査局理事長の石川達二郎(元国鉄常務理事で昭和50年退職)は『運輸と経済』の58年3月号に「巨大組織の克服」という論文の中で、支社制度が廃止されたことについて、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「支社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指導し運営管理する経営管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。

ここで書かれているように、国鉄本社の権限を支社に中々下ろそうとしなかったと書かれていますが、実際に権限を下ろしたとは言え、かなり末節な部分が多く、重要な所は本社で持っていたことも事実でありましたが、その背景にはもう一つは、それだけの分権するための胆力が総裁になかったと言えそうです。

少なくとも、本来であればさらに権限を本社から移していって、本社が調整機能を持たせるだけとなっていたならば、場合によっては中国支社と四国支社の統合といった形で、比較的自由に動けたのではないかと思いますが、旧態依然とした中央集権体制に戻してしまったことは、本社内の空気は,生産性運動などの改革、興味がなかったと言えるのではないでしょうか。

その辺は、さらに磯崎氏の行動などを詳細に調べてみる必要がありそうです。

支社制度廃止と、国鉄諮問委員会らの提言

昭和45年12月21日は、国鉄諮問委員会から、「国鉄経営についての意見書」が提出され、新規採用者の抑制や地方宇ローカル線の廃止もしくは、地域への委譲が提言されていました。

以下は、弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21

国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、

  1. 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
  2. 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
  3. 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する

などとなっている

 さらに、国鉄の赤字を圧縮するために、「徹底した生産性向上に努めて昭和53年度までは新規採用を殆ど行わず、要員規模を11万人縮減して人件費を抑える」としていましたが、それでも45万人の職員は、当時の輸送量からしても過剰と言えるものであったと言えます。

しかし、合理化を進めることは、当然のことながら国労動労を強く刺激することとなり、生産性運動の反対は、反合理化闘争と絡めて大きな運動となっていくのでした。

 

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

久々に更新になります。

今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。

今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

生産性運動と鉄労

鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。

昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。

その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論は、ほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。

 鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄再建と言うことで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。

当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性の理念で、既に生産性教育をやっている。と言っていた。

と有りますように、鉄労としては、昭和37年の新国労時代から生産性運動に取り組んできたと言うことを主張しています。

元々生産性運動は、昭和30年には確立した理論で有り、当時から国鉄当局も取り組もうとしましたが、導入することが出来ないまま、組合との対立が続き、国鉄を取り巻く環境は更に悪化したわけです。

その中で、当局もやっと生産性運動を取り入れたと主張しているわけです。

実際に、新国労発足当初から雇用安定協約を率先して締結するなど、国労動労が、どちらかというと、力で権利を奪い取ろうと考えていたのに対し、主張すべきところは主張するが、よりよい条件を引き出して妥結するという意識が見え隠れしています。そうした意味では、どんどん左傾化していく動労や、国労とは常に一線を画する組合でありました。(動労左傾化については、改めてどこかのタイミングで取り上げたいと思います)

当局の実施する生産性運動を遅きに失したと発言

そして、鉄労は現在当局が進めている生産性運動に対しては一定の評価をしつつ、遅きに失したとして、下記のように批判しています。

再び引用してみたいと思います。

昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやく取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。・・・中略・・・現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている

 この指摘は、非常に重要です。

当局の生産性運動自体が変節してしまっている、もしくは中間管理職と言われる人たちに正しく伝わっていないことを示しています。

実際、生産性運動も当初は、日本生産性本部に委託する形で行われていましたが、途中から国鉄当局自身で行う生産背運動も増えており、結果的に劣化コピーの生産性運動を生んでしまったように見えます。

そこで、鉄労としては、自らが正しい生産性運動の理論を身につけるべきだと主張しています。

そして、生産性運動が進められていた頃、国労動労を脱退して、鉄労に加盟する組合員が増えており、当時は8万5千人に達していました。

国労、生産性運動反対を確認

国労は、2月24日・25日に広島の尾道で中央委員会が開催されたそうですが、生産性運動に関しては当然のことながら反対という事で、生産性運動に関連して、鉄道学園での教育。昇給・昇格・昇職に差別的扱いの報告がなされ、総括として、「的の国家権力を背景とした攻撃に対して、組織の総力をあげるため、どう団結を図っていくかにある。・・・中略・・・全員が討議に参加する方法に改めたい」とし。

国労としては、マルクス階級闘争を組合員に浸透させていく事を強調していました。

なお、動労もそうですが、反戦青年委員会*1が参加して、盛んにヤジを飛ばすなど議事の進行を邪魔するのですが、国労は、反戦青年委員会を排除する方向に動いていたの対し、動労はむしろ育成に努めているところが有り、やがて鬼の動労と呼ばれる萌芽がこの頃からでていたと言えそうです。

動労も生産性運動反対を確認

動労中央委員会は、3月5日・6日、千葉県茂原市の日立労働会館で開催されました。

成田空港建設反対闘争が厳しい時期で有り、三里塚では、2月下旬から機動隊と国際空港建設反対同盟が衝突するなど緊迫した事態となりました。

動労でも生産性運動に対し質問等が投げ出されてくるのですが、ここでもこうした反対の急先鋒は、反戦青年委員会のメンバーが中心でした。

動労では、マル生運動とは言わず、生運研(生産性運動研究会?)と呼ばれており、彼らが中心になって運動が進められていました。

この頃の、動労反戦青年委員会を育成の方向を目指しており、国労とも反目することも多く、国労が彼らを押さえ込もうとしていた事と対照的な動きが見られました。

職場での報告としては、「生運研参加者を除名せよ」とか生産性運動参加者を村八分的にしていると言った報告もあったそうです。

このように動労も、国労も生マル生運動に対して批判的では有ったものの、どのように取り組んでいくかという点にあっては、未だに答えが出せない状況であったのも事実でした。

国労は、鉄労がマル生運動を利用していると批判

鉄労視点ばかりではなく、国労側の視点ということで、国鉄労働組合四〇年史から再び引用したいと思います。

国労としては、生産性運動は鉄労の育成であると位置づけ、下記のように記しています。

そして鉄労は、総裁の提起した労務管理政策が、生産性向上運動の名のもとに管理局から現場に向かって浸透しはじめたとき、「生産性運動ーーそれは鉄労の躍進につながる。組合結成以来、絶好の好機が到来した」として、積極的にその性格に追随したのであった。まず、はじめの役割分担は現場管理者の手足となって、「マル生」グループの結成とその育成に努めることであった。そのことが、国労動労の切り崩し、鉄労の組織化育大につながる。

と書かれています。

鉄労は、結成当初から提唱していた生産性運動を当局が導入したと言い、国労は、鉄労が当局と結託したとしています。

もっとも、組合に限らず組織が拡大を図るのは自明の理で有り、まして複数の組合に一人の職員が加盟できない以上、いわゆる組合員の拡大はどこかが増えれば、どこかが減少するゼロサムゲームのようなものですから、仕方が無いことでしょう。

ただ、個人的な見解を述べさせていただければ、国労動労もこの時点では、生産性運動ではなく、国労ではマルクス階級闘争を浸透させることが大事であるとして、また動労は更に左傾化して。反戦青年委員会等のメンバーが中心となった活動をしており、どこまでも対立するという視点だけで進めているのは、後付けの知恵で考えると、大事な時点で引き返すべき時に引き返せなかったのではないかと思ってしまうわけです。

実際、国鉄貨物が壊滅的に減っていくのは、この1970年頃からで有り、経済が発展しているにも関わらず、国鉄の貨物輸送だけが当初予測を覆して一人負けしていく背景には、国鉄の度重なるストライキの結果で有り、高速道などの開通も相まって、そのシェアはどんどん落としていくことになるのですが、その辺は国労動労も気づいていなかったように思われます。

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今回参考にした、国鉄民主化の道並びに、国鉄労働組合史40年史

 

続く

 

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*1:ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会

生産性運動導入から、中止まで 第一六話 鉄労組合員の増加と国労

長らく間が空いてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。

今回も、鉄労友愛会議編纂の、国鉄民主化への道と、国鉄労働組合40年史を参考に書かせていただこうと思います。

最初は意識もしていなかったマル生運動

国労としても当初は、マル生運動を、得体の知れない運動ではあるが、大きな影響を及ぼさないであろうと考えていたような節があります。

実際どの程度に考えていたのかは、もう少し複数の資料を探す必要があろうかと思いますが。国鉄労働組合四〇年史を参照しますと、下記のように、マル生運動開始初期には、さほど重要視はしていなかったと書かれています。

以下、国鉄労働組合四〇年史から引用したいと思います。

「マル生」運動が、従来とはちがった得体の知れないドス黒さをもって、「国労組織の崩壊」にねらいを定め。着々と実施されていたことについて、国労は1970年の秋頃までは。それほど深刻には受け止めていなかった。もちろん、第九一回中央委員会(70.10.29~30)では、当局の「組織攻撃の多様性」にたいする「キメ細かい組織対策」の必要性、・・・中略・・・「マル生」運動にたいし、「非人道的、人権無視の行為・・・国労に対する全面的な組織破壊の挑戦」であるとの認識は、いまだ明確ではなかった。

 ところが、70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては。かなりショッキングな出来事がいくつかの地本で相次いで起こった

 国労四〇年史、P180~引用

ショッキングな出来事とは、国労組合員が集団で離反し、鉄労に加盟しているという事実でした。

実際、当時の鉄労は、10月1日現在で7万9,672人であり、当時の合い言葉は、来年までに組合員を10万人に持って行こうということで、鉄労としてはかなり意気軒昂であったのではないかとも容易に推測できます。

実際、この頃から国労の集団脱退、さらには鉄労への集団加入が全国的規模で拡大していったわけで、翌年の10月には10万人を突破することになりました。

国労のマル生運動への反撃

当事、国労は「スト権奪還」をテーマに。「権利討論集会」を全国で開催していたが、中央執行部の役員を急遽呼び戻し、マル生運動の対策を取るべき行動に移したと書かれています。

当時の生産性運動は、すでに他のところでも述べましたが、大きなうねりとなっており、国労自身が認めていますが、生半可な反対運動などでは到底対応できない状況に置かれていました。
そこで、国労としても、本腰を入れなければならないとして「総戦力の結集」すると書かれています。

その辺を再び、国鉄労働組合40年史から引用したいと思います。

ちょうどその頃、国労は全国各地において、「スト権奪還」をテーマに「権利討論集会」を開催していたが、・・・中略・・・やがて、その討議を経て、磯崎体制による組織攻撃は、「いまや理屈抜き、どんな小手先の対策をうってみても、対策にならない」、「今や組織の問題こそ真剣に、そして深刻にうけとめて、原則的な組織運動をすすめていく決意に立たなければならない・・・われわれの生命は組織である。国労組織に手を出す者には容赦なく、対決するキゼンたる根性を持つ必要がある」との意思統一がなされた

ここで強調されたのは、組合員に対して、「階級闘争」を全面的に打ち出してきたことでした。
従前から言われてきた良き伝統でもある、「国鉄一家」という流れを断ち切り、組合員として、階級を意識させることに注力したと書かれています。

個々で言う階級というのは、いわゆる資本家階級と労働者階級の戦いであるとして、当局側を資本家階級と見做して、組合員は労働者階級であり、搾取される側の人間であるという意識付けを行ったのでした。

こうした運動により、国労では階級闘争の意識を強烈に再認識させたと記述しています。その辺を再び、国鉄労働組合40年史から引用したいと思います。

そうした反省の上に立って、この討議では「総戦力の結果」が決意された(「生産性向上運動とわれわれはいかに闘うか」国労中央労働学校討議資料、71.1.7)から少し長いですが全文引用します。

この時期に、「組合内部における役員相互間の不団結」をみずからいましめ、「一人ひとりの組合員の階級意識」を啓発しながら、「総力戦」への意思統一がはかられたことは、少なくとも二つの重要な意義を持っていた。すなわち、この意思統一は、「柔軟策」で対応し、当局の攻撃をすり抜けようとする企業内組合にありがちな方法をとることなく、従業員意識(国鉄一家」意識)の払拭を呼びかけ、階級意識にたった労働組合運動の継続発展の方針を今一度再確認したものであった。したがって、それはまた、階級的な自覚の形成を基礎に、一人ひとりの仲間にたいする期待と信頼、さらにそれを結集した「組織の力量」にたいする期待と信頼を意味した。

「階級的組合運動」は国鉄再建の「障害物」であるとされ、「全面否定の攻撃」がかけられているさなか、その対象者である一人ひとりの組合員と国労組織が、何をもってすれば反撃に転じうるか、なんといってもそれは、仲間と組織にたいする熱い期待と信頼以外にはない。それを確認した右の意思統一は、その後の「マル生」闘争の"質”を基礎づけた。

国労四〇年史、P181~182 引用

国鉄労働組合四〇年史

国鉄労働組合四〇年史

鉄労の生産性運動に関する考え方は、後ほど詳述します。

 

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一五話 全施労結成

今回も、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道を参照しながら、適宜他の資料も参照しながら、お話を進めたいと思います。

国労は一貫して、マル生運動に対して対立姿勢

国労では、昭和45年4月11日から始まった生産性運動は、当初のは無視を決め込んでいた国労ですが、国労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えてきたことなどから、国労としても危機感を抱くようになり、よく昭和46年1月12日には国労本部で、不当労働行為対策会議で組織破壊攻撃(マル生攻撃)への対応策を協議したほか、2月24・25日の拡大中央委員会では、マル生攻撃と戦う職場闘争の強化を決定するなど、組織的な対抗策を考えていきます。

この背景には、国労を退職して鉄労に移籍する組合員が多かったことに対する危機感からでした。

更にもう一つ注目していただきたいのが、組合内における、極端な左傾化でした。
その要素としては、組合なのに育ちつつあった新左翼(いわゆる極左勢力)の台頭で有ったと言われています。

国労動労における、反戦青年委員会の台頭

国労動労内に、反戦青年委員会による台頭もあったかと思われます。

反戦青年委員会とは、*1日韓基本条約の批准やベトナム戦争に反対するために、日本社会党や総評系の労働組合青年部が中心となって、1965年(昭和40年)に結成された組織で、共産党は、革命的であるトロツキスト暴力集団を受け入れられないとして、これを拒否したことから、新左翼諸派に合流していったもので、特に革マル派(革命的マルクス主義)の影響を強く受けていました。

国労は、反戦青年委員会を育成させない方向でいたのに対し、動労は、むしろ育成の方針をとったことから、後に「鬼の動労」と言われるように過激な方向に走ることとなります。
動労が、国労以上に過激になっていく背景にはこうした点があったことも注目していただければと思います。

国労内で過激な活動家によるグループが誕生

話が横道にそれてしまいましたが、こうした反戦青年委員会の組合員が組合の中で育っていくとともに、昭和46年3月15日には社会主義協会系の実戦部隊が、「国労中央合理化研究会」(国労反合研)を結成します。このグループが、鉄労組合員に暴力を振るいマル生粉砕の中心勢力となるわけですが、マル生闘争資料集には、設立されたと年表には記載されていないことから、国労内部でも余り触れたくないのかもしれません。

当時の様子を、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道から引用させていただきます。

これから、約半年後に、鉄労組合員に暴力を振るい、”マル生粉砕”の中心部隊になる「国労中央反合理化研究会(国労反合研)が、三月十五日に結成された。

 国労会館の一室で、「会社は潰れても鉱山は残る」と言う発言で有名な社会主義協会系の向坂逸郎資本論研究会」が四十三年から、定期的に開かれていることは、すでに書いた。この実戦部隊が「国労反合研である」

この研究会の責任者は、新鶴見駅構内作業掛の職員であったが、実質的な責任者は、元三井三池労組書記長が行なっていました。

 

全施労(全国鉄施設労働組合)の誕生

 そのような中で、国労内から再び新しい組合が分裂しました。

それが、全国の保線区などが中心になって結成した、全施労でした。

結成は昭和46年4月27日で、大阪市淀川区にある大阪コロナホテルで、「全国鉄施設労働組合(全施労)」の結成大会が行なわれたそうです。

国労を脱退した、保線を中心とする施設関係の組合員により結成された組合で、委員長に松山保線区の渡辺博、副委員長に大鉄局施設部保線課)福間恭、大分保線区、三浦義正、書記長に尼崎保線区の草刈収を選出とされています。

「政党支配を排除し、組合主義に徹することで、屋外労働者の作業安全・労相衛生の向上に努力する」と謳い鉄労との協調を期待していたが、こうした一連の動きのなかで、名古屋を中心とする国労施設協の組合員が大量に脱退して全施労に移籍するという動きがあり、これに驚いた国労幹部が、国鉄総裁の磯崎総裁に泣きつき、磯崎総裁もこれを了承して、名鉄局長に脱退を思いとどまるように指示をしたと書かれています。

この話が本当ならば、片方でマル生運動を進めながら、組合員の移動に対して当局が介入したことになり、不当労働行為のそしりは免れないと思います。

実際には、その後組合側からの反撃でもあっさりと、その旗を降ろしてしまい、現場管理者は多くが退職や降格、亦は配置転換(所謂左遷人事)を受けており、当局側の現場管理者に対する裏切りは許されない部分があるかと思われますが。この辺は更に今後明らかにしていくこととしましょう。

この辺の事情を再び「鉄労友愛会議、国鉄民主化への道」から引用させていただきます。

 

 国労施設協議会議長の秋元貞二(施設協のボスなどと言われていた)も、国労を脱退することは確実とみたれ、秋元が脱退すれば。一万人ぐらいはついていくだろうといわれていた。

 更にびっくりする噂が流れた----。名古屋を中心にする国労施設協の組合員が大量に脱退して、全施労に移るという動きがあった。この動きに驚いた国労の酒井と富塚が、国鉄総裁の磯崎に会って談判した、磯崎総裁は国労の主張を了承、直ちに名鉄名古屋鉄道管理局)局長の篠原良男に、手を打つように命令した。そうしたら、脱退の動きがぴたりと止まったという。篠原は国鉄土木のボスである(東大土木を昭和十一年に卒業、後に施設局長、常務理事)

とかかれています。当然のことながら、マル生資料集にそうした記事は出ていません。

国労としては大量脱退を止めたいというの想いは当然のことながらあることはわかりますが、こうした圧力と言えないまでも、労働者脱退を特定組合の意向で当局が動くのは、いかがなものかという疑問は、残ってしまいます。

 

国鉄マル生闘争資料集並びに、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道

国鉄マル生闘争資料集並びに、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道 2冊の書籍を参考にしています。

続く

 

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*1:正式には「ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会」と言う名称で呼ばれている。