日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第二十三話 国労による反マル生運動

長らく間が開いてしまいましたが、本日も生産性運動導入から中止までということでお話を進めたいと思います。

今回は、国鉄労働組合40年史を参照しながら、国労から見た生産性運動という視点から見ていきたいと思います。

国労視点で見る生産性運動は不当労働行為

国労は、左傾化した昭和30年頃から職制の分断という視点から運動を進めていたこともあり、生産性運動のように、職制と一緒になって職場を盛り上げていくと言うことは受け入れられないという雰囲気がありました。

特に生産性運動がある程度浸透してきた1970年代の秋以降は、生産性運動の研修を終えた人たちから自発的に「国鉄を守る会」、「国鉄を明るくする会」などの親睦団体が全国各地に雨後の筍のように、立ち上げられ、その加入者も増えていくのでした。

そうしたことに対して、国労では当局が、「職場管理」「労務対策」という名を借りた不当労働行為が行われたとしています。

実際には、不当なストライキや職場集会をさせないなどごく一般的なことであり、むしろ正常な労務管理だと思うのですが、それを不当だという発言には多少なりとも首をかしげざるを得ません。

また、これにより当局が直接組合を辞めさせると言うことはできませんが、鉄労が現場管理者と協調して、「守る会」などの自発的グループの国労動労組合員を鉄労に加盟させる手助けをしている・・・等々

国鉄労働組合40年史には以下のように、国鉄当局が不当労働行為を仕掛けてきたとして下記のような具体例を書いていますので、その部分を引用してみたいと思います。

天王寺鉄道管理局の「管理体制の強化につて」(これは真鍋職員局長の講義をまとめたものといわれた)は、次のような内容であった。すなわち、「マル生」運動とは、「良識ある職員を育成する運動」である。この運動を通して「職員の意識を変え、労働組合の体質改善に全力をあげる必要」がある、総裁は再建に協力しない職員と労働組合に対決する方針」であるとして、本社のバックアップがあることを明らかにした。*1従って安心して「人事権を存分に活用した管理手段」を用い、「昇給、昇格」で引き締めるなどして「惰性に流れない」、「さらに厳格な組合対策」を講じるよう呼びかけていた。

国鉄労働組合40年史 P165から引用

ただ、管理者が持っている人事権を使って、良識ある職員を育成することはむしろ企業としては当然のことだと思うのですが、その辺が階級闘争で、職制を分断していかなくてはならないという考え方の中では、良識ある職員を育成するのは困るということだったのでしょうか。

再び国鉄労働組合40年史から引用してみたいと思います。

この時期、現場向けの具体的な労務管理の指針としては、全国的に概ね次のような内容の指導が行われた。すなわち、「中間管理者(助役・指導・教導・営業・検査長など)の範囲をさらに拡大」し、特に「助役を増すことにより準管理者層を広げ」て管理体制の強化を図りたい。その管理体制ものとで現場管理の徹底をはかるためい「現場長を通じ調査・系統別部長の個別面接」を行い、「要注意者」を洗い出し。それらに対する「日常行動の監視」を実施し、他方で「良識は職員を中心にした懇談会」を開催しながら「組合の質的変化」をはかる、というものである。*2

国鉄労働組合40年史 P165から引用

 普通に考えれば、大きな問題になるとも思えず、当局としてもマル秘扱いで現場管理者に伝えられたとされていますが、運動の過程で露骨な組合誘導や、昇給・昇格を一つのきっかけとして誘導していた可能性も捨てきれず、それが組合に突っ込まれる遠因となったかもしれません。

少なくとも、磯崎氏にしてみれば財政再建は喫緊の課題であったことは間違いないのですが、いかんせん典型的な官僚型能吏ですので、どうしても政府などに意識がいっていたのではないかと推測されます。

さらに、国労の資料だけなのでなんとも言えませんが、国労の資料によれば、1971年の夏頃には、「マル生運動が何故必要なのか」と言った内容から、マル生グループの育成状況などを報告させる、方向に変わっていったと書かれています。

現場での生産性運動の重要性はどこまで理解されたのか?

たしかに、生産性運動の理念も通り一辺倒では浸透するわけもなく、何度も何度も行って初めて身につくものですので、そうした意味では、生産性運動の趣旨がマル生グループの育成などの管理体制に移行してしまったのではないかという点が気になります。

少なくとも、助役などの準管理者にしてみれば理念を問われるよりも、マル生グループを育成したとか、監視したと言った報告の方が楽ですので、逆に、監視や管理が仕事であると思ってしまう可能性はなきにしもあらずだと思うわけです。

さらに、国労としては、反合理化闘争などを行ってきているわけですから、生産性運動で生産性が上がっても、その差額は当局が吸い上げてしまうとして、生産性運動は、富の搾取だという論理展開を図って組合員を締め付けるのでした。

国鉄当局はこの点について下記のように反論しています。

国有鉄道」という冊子に「生産性運動をめぐる諸問題」という連載記事があり、その第2話で、生産性運動に関して下記のような記述があります。

再び引用してみたいと思います。

生産性運動は、労使が信頼と協力によって生産性を向上し、それをとおして福祉の向上をはかろうとする運動ですから、これに反対をすることは、イデオロギーにもとづく反対を別とすれば本当はおかしいわけで、そこには誤解があるといわざるを得ません。
*****中略*****
また第二の「労使の協力・協議」については、労使は基本的に対立するものであり、労使協議制を通じて、実質的に団体交渉を骨抜きにするものであると主張し、第三の「成果の公正配分」については、国鉄の予算制度の下では、たとえ黒字になっても勝手に賃金をふやすことができない建前になっているし、仮りにそれが可能だとしても、生産性の向上によって大きくなった、パイ、の取り分は常に使用者側の方に大きくなると主張し、三原則のいずれをとっても、国鉄にはあてはまらないものであり、そのような生産性運動は当局の不当労働行為の道具にほかならない、とまで主張しています。

昭和46年8月号 国有鉄道

昭和46年8月号 国有鉄道からキャプチャ


国有鉄道 1971年8月号生産性運動をめぐる諸問題から引用

実は、国労の見解は非常に無理があるのですが、無理を承知で運動を進めてきたのです、というのは国鉄当局は資本家階級でも何でも無いわけです。

民間企業であれば資本家がいて、労務を提供する労働者階級があるとなりますし、資本家階級は自らの利益を自ら処分することが出来ます。

翻って国鉄はどうでしょうか。

国鉄では運賃値上げも、利益の処分も国鉄総裁が行えるわけではありません。

賃上げ一つにしても、交渉権はあっても最終的にそれで妥結しない場合は仲裁裁定という公的機関の決定を持って進められるわけです。

ですから、組合も当然のことながらその辺は理解しているのですが、組合が解禁されて、そこに共産党が入り込んで、労使対決路線(いわゆる資本家階級と労働者階級の分断、ひいては暴力革命による共産党政府樹立)を持ち込んだものですから、どうしても組合としてはその方向で行かざるを得なくなったと言えそうです。

あくまでも、この辺は個人的な見解であることをお断りしておきます。

 

続く

 

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*1:(その後総裁は、国会で陳謝するとともに組合に大幅な譲歩を認めることとなり、真鍋職員局長は左遷の憂き目を追うことになるのは後述)

*2:国労的には、ここが不当労働行為に当たると判断したのかもしれませんが、監視が行き過ぎるのはどうかと思いますが、常識の範囲内は問題はないと言えないでしょうか?)

生産性運動導入から、中止まで 第二十二話 国労による反マル生運動

長らく更新でいてきていませんでしたが、改めて更新させていただきます。

昭和46年春闘に関しては、国鉄当局としては合理化の道筋を立てたいという思いから、わざとストライキに入らせようとした節もあったようで、公労協がスト回避のための調停案を出そうとしたにもかかわらず、当局は組合と交渉を続けており、公労協の合同調停委員会の委員を激怒させたと言った話も残っています。

仲裁裁定と国労

公労協が5月20日に24時間ストを計画していたのでそれを避けるべく、公労委の合同委員会【議長・峯村光郎 国鉄調停員長 金子美雄】両名は、19日夕刻から三公社五現業の賃金調停作業に入ることとなりましたが、肝心の国鉄労使が現れない。

肝心要の、国労動労によるストライキを回避させるための委員会なのに肝心の国鉄の労使が現れなかったそうです。

国鉄からは当然に電話連絡もなく、夜11時になって国鉄の常務理事、真鍋洋が委員会に現れたのでした。その背景には、国鉄としても賃金引き上げだけではなく、合理化をも認めさせたいという思いがあったわけで、「46年度以降の合理化近代化計画の見通しをつけ、要員計画をはっきりさせることが前提だとしたわけです。財政再建の見通しを立てるには勿論いろいろの施策が必要ですが、企業努力としての合理化、近代化は免責のない前提であるとしたわけです。」この言葉に集約されていると言えそうです。

以下は、国鉄部内紙 国有鉄道 1971年7月号 こだま 明るい職場で国鉄の再建をから、少し長いですが、引用させていただきます。

当局は、国労などから合理化の譲歩を引き出したかった

真鍋 物価の上昇はこの数年間4%から7%ぐらいのところですから、賃金のあがり方がはるかにそれを上回っているわけですネ。国鉄の場合も、アップ率は、昨年15.42%、今年は14.26%で消費者物価の上昇率の2倍近くも上っています。
一一国鉄の場合、年間総額どれくらいの増加になりますか...・・。
真鍋 今年のベ・ア所要額は743億円です。このほかに定期昇給があり、これをベース・アップに加えますと1人あたりの増加は月額9,780円となり、人件費のふえ方は年間1000億円という大台になります。これは運輸収入目標の1割近いものに当ります。年々10%以上の増収が続かない限り財政上の辻つまが合わないことになるわけですネ。そうして、経営費のなかに占める人件費の割合も、現在72%ですが、それが75%近くにもなります。
一一一国鉄の労使の交渉では、最初当局側から賃金引き上げの中味をいわれませんでしたネ・・
真鍋 それは昨年もそうであったわけですが、46年度の職員の賃金引き上げを検討するに当つては、組合に提案している46年度以降の合理化近代化計画の見通しをつけ、要員計画をはっきりさせることが前提だとしたわけです。財政再建の見通しを立てるには勿論いろいろの施策が必要ですが、企業努力としての合理化、近代化は免責のない前提であるとしたわけです。そうして.19日の夜、合理化、近代化のメドが立ったと判断した段階で、「賃金引上げについては、この際、他公社、現業との均衡を考えたい」という意向を表明しましたが、それから3公5現の最終調停が始まったわけです
。一一相変らず違法なス卜を組合側はやったわけですが、最後の幕引きに副総裁と国労、勤労の委員長との会談がありましたネ...一
真鍋 両組合は、いわゆるトップ会談を申し入れてきまして、そこで生産性運動をやめるべきである、不当労働行為、差別取扱をしてはならない、今回の闘争による解雇者を出さないようにしてくれといったような主張をしたわけですが、これは結局行き違い議論に終ったということです。生産性の問題にしても、解雇のことにしても、当方としては組合のいうととに従うわけにはいかない。不当労働j行為、差別取扱いは当然やるべきことではないし、やるつもりもない。そういうことで双方それぞれの立場で見解を述べたようなかたちで終ったわけですネ
一一今後仲裁裁定の取扱いはどのようになされますか...
真鍋 今年の予算には5月以降5%の給与費がもり込んであるわけです。これは323億円です。この分は運輸大臣の認可があればベース・アップに使えます。あとは予備費ですネ。昨年の例からすれば190億円程度は予備費の流用が考えられます。そうしても、差引き230. 億円はやはり足らないというととになります。さらにむつかしいととは、いままでは工事経費の中にかなり自己資金がありましたが、今年はそれが全くない。したがって、工事経費を切って給与費にもってく.るといいましても、すべて利子のついている金ですから、借金をそのままもってくることになります。これは再建途上の財政問題としては大変な問題といえましょう。この不足額をどのように措置するか、今年は、これから国鉄として関係方面と十分折衝していかなければならない問題になります。

ここで書かれているように、当局としてはなんとしても合理化への道筋を立てたかった、それ故に公労委の合同委員会をボイコットしたとも言えますし、あえてストライキに突入させて、処分をすることを狙っていたとも言えます。

さらに、注目すべきは、昭和46年の段階で人件費が全体の75%に及ぶという事実に注目しなくてはなりません。

国有鉄道 1971年7月号 真鍋職員局長 明るい職場で国鉄の再建を

国有鉄道 1971年7月号

定期昇給があり、これをベース・アップに加えますと1人あたりの増加は月額9,780円となり、人件費のふえ方は年間1000億円という大台になります。これは運輸収入目標の1割近いものに当ります。年々10%以上の増収が続かない限り財政上の辻つまが合わないことになるわけですネ。そうして、経営費のなかに占める人件費の割合も、現在72%ですが、それが75%近くにもなります。

これだけの賃金上昇が見込まれるとなれば、当然のことながら出を抑えないと破綻するのは自明の理ですから、合理化への道筋を付けさせたいという真鍋職員局長の方針は決して間違っていないのですが、生産性運動中止後に真鍋職員局長は左遷されることとなり、当局は、国労に対して大幅な譲歩をせざるを得なくなり、国鉄の財政は更に悪化していくこととなりました。(その辺は後述)

違法スト中でも電車が動く

このような状況の中、生産性運動を信じて国鉄再建のためにと言うことで、違法ストライキ期間中でも活動するグループがいました。

彼らは、鉄労組合員や、職制*1の他、マル生グループと呼ばれる、国労動労組合員であるがストに参加しない人たちでした。

こうしてストライキ時でも東京の電車は約60%の運転が確保されたと言われています。

その辺を、再び国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

右のように20日には、国労動労が19時間ストを行ったが、東京の国電の60%は運転された。管理者、鉄労組合員は言うまでもなく、国労動労の組合員の中にも、組合指令に従わず乗務する人がいた。

国労編集の「マル生資料闘争集」の中の座談会で、当時国労中執だった細井宗一は、

 あの時は、電車が動いたからね。だからオレは東京地本に文句をいって、「おまえら、ストライキでも電車動かすのか」と言ったら、「動かすんではなく動いているんだ」(笑い声)「動いているんなら、とまるまでストライキだ」と言ったことがあるけどね。職制とマル生グループで動かしておったですからね。

 

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このように、生産性運動中の国鉄では、その意識が少しずつ現場では変わりつつあったと言えそうです。

  

続く

 

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*1:現場の助役など、中間管理職

生産性運動導入から、中止まで 第二一話 国労による反マル生運動

今回も、生産性運動に関するお話を、鉄労の「国鉄民主化への道」並びに、大野光基氏の「国鉄を売った官僚たち」を参考にしながら、他の資料なども参照して、お話を進めさせていただきます。

国労は、マスコミを利用して生産性運動に対抗することに

国労は、昭和45年後半から本格的な反撃に出るのですが、こうした場合、例えば国労の資料だけを見ると国労有利な記述になり、鉄労主体で見ると鉄労有利な記述となり、当然のことながら当局側視点に立つと当局有利となるのはやむを得ないところがあるのですが、どうも時期的な部分や、細かいところで見解が異なる記述があったりして、その整合性をどのように取るべきか少し頭を悩ませています。苦笑

まぁ、そこをどのように整理していくか、もしくは追加の資料を探していくべきかと頭を悩ませています。苦笑

ただ、国労としてもマスコミを使おうとしたことはほぼ間違い無いようで、マスコミ共闘会議を紹介された後に、毎日新聞の記者、内藤国夫が、国労の幹部と会って、新聞沙汰になる記事を引き受けたとするのが、道も流れとしてはすっきりするようです。

  • マスコミ・文化労働組合共闘会議(略称・マスコミ共闘)のメンバーを紹介される。
  • 毎日新聞社の新聞記者が、国労幹部と会った
  • 国労に有利な記事を量産して、他の記者の競争心をあおり立てようとした。

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国労国鉄当局に潰されるという情報をマスコミに流す

最初の、「マスコミ・文化労働組合共闘会議(略称・マスコミ共闘)のメンバーを紹介される。」というのは、国労弁護団と恒例の忘年会席上で出た話が具体化したというもので、国鉄民主化への道で以下のように書かれています。

引用したいとおもいます。

あれはたしか1970年の年末だったと思う、恒例の国労弁護団の忘年会だった。(中略)この私の話を聞いてくださったのが弁護団の一人である小島成一先生である。先生は酒を飲まれなかったようにおもう。その先生が酒を飲みながらの私の話に頷きながら、「酒井さん、それならばいい人を紹介しよう」とのこと。主席から出た話が実を結ぶことになった。それが反マル生闘争の陰で活躍した「宣伝プロジェクト」である。小島先生から紹介されたのは宣伝を本職とするマスコミ共闘の面々であり、その中心がマスコミ共闘事務局長の隅井さんであった。

また、ここで、1億円の闘争費用を出すこととしたとも書かれているのですが、これは多分、「ここが変だよ生産性運動」等の印刷物に使った費用と思われ、記者に金が流れたというわけではなさそうです。

次の、「毎日新聞社の新聞記者が、国労幹部と会った」と有るのは、同じ年〈1970年)の年末に、中川新一国労委員長、酒井一三書記長、富塚三夫企画部長に毎日新聞記者内藤国夫が呼び出されたことが切っ掛けでした。

戦後の労働運動を牽引してきた、国労が潰されかかっていると言われ、内藤国夫が、労働記者クラブの記者諸氏の競争心をあおり立てると言う作戦を展開することにしたと記しています。

その辺を、「国鉄を売った官僚たち」から引用してみようと思います。

戦後の労働運動の牽引車的役割を果たしてきたと自負する国鉄労働組合が、いま、つぶされかかっている、というのだからコトは穏やかではなかった」

そこで、内藤は次のような作戦を立てた。

「まずは毎日新聞が独走することで、労働記者クラブの記者諸氏の競争心をあおりたて、やがて『新聞ザタ』洪水を起こそう、との作戦」(『一人ひとりがつくる労働組合を』より)

引用終わり

とあるように、国労が潰されかかっているというので、マスコミが一肌脱ごうという事になったわけで、早速色々な記事を書いて、謂わば国労に有利になるような記事を書きまくったとされています。

そのときの心持ちは、組合の機関紙に書くような気持ちで書いたと記しています。

再び、国鉄を売った官僚たちから引用させていただこうと思います。

「5月19日の夕刻、上野駅から新聞社に戻った私は、まるで労働組合の機関紙に書くような気持ちで、現場の組合員たちの訴えを記事にした・・・中略・・・一字一句、直されず、私の書いたままの記事が社会面のトップに載っている。私はそのゲラを持って国労本部へとかけつけた

毎日新聞の記者が、完全に国労の走狗となっていたと言えます。

ただし、こうした記事自体は、新聞ザタにはならなかったものの、その起爆剤となった事は間違い無く、朝日新聞がこの作戦に乗ってきたのは、朝日新聞であったそうです。

事もあろうか、ヤラセ投稿を行ったというのです。

架空の人格を作って、自宅まで来て組合を変われと強要されたという投書を「声」欄にとうこうしたわのですが、この投書は、後に、鉄労の調査で、架空の職員であることが判明したわけでした。朝日新聞は知っていながらそのまま掲載したのであろうとされています。 

毎日新聞の記事が起爆剤となって、飛び火

実際に、毎日新聞が殆ど毎日、マル生運動に関する記事を書くとなると、朝日新聞としては書かざるを得なくなるわけで、こうなってくると国労の思うつぼとと言いますか、競争で記事を書こうとするし、積極的に国労に記事を取りに行き、朝日・毎日が続くと、読売もやはり関心を持たざるを得ずという形となり、そこにサンケイが時々加わるというイメージでした。

こうなってくると、各マスコミは、国労の良いように情報をコントロールされる状態になっていったと言えそうです。

多分、この時点で国労は、生産性運動に対する勝機を得たと言えるのではないでしょうか。

毎日新聞が連日、国労に関する記事を出すものですから、朝日新聞も追随することとなるのですが、個々で朝日新聞はあるミスをしてしまいます。
それは、国労が提供した記事をよく検証しないままに、記事にしてしまった(いわゆる誤報)のでした。

新聞が国鉄の生産性運動を、組合対策、神がかり、復古調というように批判的に取り上げた記事だったのですが、中央学園歌として紹介されているのは、明らかに間違っているのに、新聞社は確認もしないでそのまま国労が提供した記事を掲載したと言うことが露見したというものでした。

その辺を『国鉄を売った官僚たち』から再び引用させていただきます。

国鉄の吹き荒れる生産性運動」「われ再建の人柱、オレがやらなきゃだれがやる」「暗夜の儀式」「復古調」「ケチケチ」「組合対策」「対立」と見出しをみただけでも、生産性運動つぶしを露骨に狙った全く意図的な記事であることが分かる。

 特集記事はなんともひどいことに、国労資料をそっくり載せておりながら、あたかも『朝日新聞』が独自に取材したかのようなかきかたをしているのだ。」

として、中央鉄道学園歌として紹介しているのは、鉄道研究社発行の国鉄職員向け雑誌『フォアマン』に掲載された、生産性運動に関する歌をそのまま中央鉄道学園の学園歌として紹介したものであった。

普通に読めば学園で、「再建」とか「生産性」と言った言葉が出てくるわけがない(元々、学園は中立的意味合いが強く、生産性運動に関しても強く難色を示していた)わけで、その原因は、国労からもらった資料の内、国労教育宣伝部発行の『生産性運動の原理と国鉄における実態ー俺がやらねば誰がやる』というパンフレットの中に、「中央鉄道学園の歌詞」として、誤って先ほどの歌が掲載されていたため、そのまま転用してしまったことが原因であったそうです。

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生産性運動導入から、中止まで 第二〇話 国労による反マル生運動

組合員の大量脱退で焦る国労本部

今回は、国労の反撃という点に絞って、何回かに分けてお話をしていこうと思います。

生産性運動は、燎原の火のごとくと表現されるほど、現場に浸透していきました。

国労は、当初は生産性運動に関しては熱心の取り組んでいませんでしたが、昭和45年11月から12月にかけて国労組合員が大量に脱退して、鉄労に鞍替えすると言う事態が発生しました。

これに関しては、国労40年史に下記のように記載されています。

少し引用してみたいと思います。

70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては、かなりショッキングな出来事が幾つかの地本で相次いでおこった。しかもそれは、全国規模で集中的に拡大する様相を呈しはじめた。国労動労)からの集団脱退、鉄労への集団加入であ連日、現場から報告されてくるその実態は、従来の組織攻撃とは、規模においても手段においてもまったく異なるものであった。

 ここにありますように、鉄労は10月1日時点で79,672人であったそうで、来年までに10万人突破が合い言葉であったことからも、その後強力なオルグが行われたことは早々に堅くなく、実際国労を脱退しないまでもマル生グループと言われた人たちにより、昭和45年5月20日の24時間ストでは、東京三鉄道管理局管内では、全列車の役60%が運転され、スト破りの国労動労)組合員もいたようで、彼等のことを、マル生グループとして半ば馬鹿にしていたようですが、こうした人たちが一斉に堰を切ったように、鉄労に移籍したものと思われます。

 

焦る国労本部は対応策を協議

大量の組合員脱退はさすがに、国労本部も驚きを隠せず、正月返上で「マル生」対策討議が行われたと言われています。

かなり過激な意見も出たようですが、組合の存在意義は組合員があってこそである以上真剣に受け止めなくてはならないとして、総力戦で戦うことが確認されたそうです。

その辺りを再び少し長いですが、引用してみたいと思います。

「今や組織の問題こそ真剣に、そして深刻にうけとめて、原則的な組織運動をすすめていく決意に立たなければならない・・・われわれの生命は組織である。国労組織に手を出す者には容赦なく、対決するキゼンたる根性を持つ必要がある」との意思統一がなされた。同時に、「交渉等において哀訴嘆願するようなことがあってはならない」こと、「役員間の不団結の間隙を縫って巧妙にクサビを打ち込んできている例が多い」こと、「中執はナメられているのではないか」等々が冷静に反省・検証された。そうした反省の上に立って、この討議では、「総力戦の結集」が決意された。(「生産性向上運動とわれわれはいかに闘うか」国労中央労働学校討議資料、71・1・7)

国労本部がここで考えた方策は、「国鉄一家」(鉄道の職場の上司を父と慕うといった考え方)からの脱却を図ることであり、職場における階級闘争を継続強化する事を確認したものでした。そして、この方策に従い71年春闘からマル生に対する反対闘争であるという認識がなされました。

そしてこれを受けて、国労では春闘での闘いは元より、1月24日付の国鉄新聞(国労機関紙)でくたばれ生産性運動の掲載が始まったそうです。

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

国労の反撃としてスタートした、ここが変だよ生産性運動のチラシ

この根底には、「生産性運動は合理化を推進するてことしての経済運動であるが、同時に組合運動の昂揚(こうよう)を押さえる思想運動であると規定していましたが、こうした運動は早くも頓挫することとなりました。

このチラシは、週刊誌版4ページ、色刷り、漫画入りのリーフレットで15話まで続くもので、その全文は国鉄マル生闘争資料集に記載されています。

国労は、「嘘だよ生産性運動」の冊子などを作成するも

生産性運動の責任者でもあった、大野光基氏は、自身の著書

国鉄をうった官僚たち」で、くたばれ「生産性運動」の中に次のような一節がある、としていますが、マル生運動資料集には収録されていませんので、他のチラシか何かだったかもしれませんが、

「成果の公正配分で、ソ連や中国は生産手段の私的所有がないので生産の成果も、全労働者。全国民のものとなり、生産性を上げれば、成果が公正に配分される、反面資本主義では、資本家に搾取されると言う理論展開をしていました。」

(現在、ソ連は崩壊してロシアとなり、共産党一党独裁中華人民共和国共産主義で有りながら社会資本を導入することで経済発展を遂げ、日本を抜いてGNP第2位の地位に上がってきたのはご存じの通りです。

共産主義=理想の国、日本やアメリカなどは地獄の国というイデオロギーを植え付けようとした考え方は、当時の国労組合員が大量に脱退したことの危機感への裏返しで有ったと言えそうです。

そして、その決意は下記のように、正念場の闘いだと言う認識をしていました。

その辺を再び国労40年史から引用してみたいと思います。

「マル生」運動に対する基本的な取り組み方が決定されたとはいえ、「乾坤一擲の勝負をしなければならない」(春闘体制確立・当面の行動について」指令第16号71・2・2)と言う言葉に代表されるように、国労にとってはこれ以降が組織の浮沈を掛けた正念場のたたかいとなった。

こうして取り組んだのが前述の、「嘘だよ生産性運動」などの冊子で有ったわけですが、組合員一人ひとりが、階級を意識して運動に取り組む、生産性運動は資本家により搾取されるものだという意識付けを図り、分断を図ろうとしましたが結果的には上手くいかなかったのです。

社会党国労の要請を受けて動くも空振りに

昭和46年3月には、国労の要請を受けて動き出し、大野氏は「国鉄における生産性運動」を説明したそうです。

一人の社会党議員は、途中で退席したそうですが、社会党運輸部会の会長久保三郎議員は、生産性運動に賛同、3月2日の衆議院社会労働委員会社会党川俣健次郎議員は、下記のように質問しています。

国会議事録から引用したいと思います。

○川俣委員 
 そこで私は、赤字問題ということとからんで、総裁のほうで非常に苦労しておやりになっているようだが、生産性向上運動、これにからませて質問したいと思います。
 私は、生産性を上げるということは必要だと思います。しかし、当局がやっておる生産性向上運動というのは、どうやら目的じゃなくて、何かの手段というか、その辺をこれから少し質問なり論争していきたいと思います。
 それでは、生産性向上運動というのは、どこの国で生まれていつごろ日本に上陸してきたかということをどのようにつかんでおるか。それから、私たちから見ると、去年、おととしあたりから大国鉄の赤字に対して、生産性向上運動というのがおそい。企業ではもう貿易自由化というので、十何年前から、生産性向上をやらなければならぬ、それで日本の場合もいわゆる日本生産性本部というものができたようです。これに対しても質問します。
 日本生産性本部に対して、国鉄当局はどのように思っておるのか。あれを指導理念を生む一つの機関だと思っておるのか。日本生産性本部というのはどういうような組織体で、どういうような資本でつくられて、どういうような経費でやって、そうしてどういう指導をやっておるのか、こういったところもお伺いしたいと思います。

 

○磯崎説明員 生産性本部の詳細につきましては、担当常務から申し上げさせます。
 ただ、私が現在部内に生産性運動を持ち込みました、これは確かに先生のおっしゃったようにもうおそかったかもしれません。もっと早く、まだ国鉄が黒字だった時分からこういう問題にもっと真剣に取り組むべきだった、この点は私大いに反省しているところでございます。先ほど先生のおっしゃったとおり、私をごらんになっても、民間会社の社長さんとは気魄が違う、赤字に耐えているような顔じゃないとおっしゃった、まさにそのとおりかと私は存じます。その意味で、もっともっと早くからこの生産性運動を私としては真剣に始めるべきだったというふうに思います。
 私どもといたしましては、この生産性運動は一つの精神運動というふうに考えております。生産性本部の三原則その他につきましては、先生が御承知のとおりでございますが、百年たって、このいわば老体化、斜陽化した国鉄を、冒頭に申し上げましたように、二十一世紀に向かってさらに発展させ、要らないものを切って、ほんとうに国民のお役に立つものだけを残して、そうして将来の国民の福祉のお役に立ちたいというふうな姿勢にするためには、やはり部内の気持ちもここで変えなければいけない、いままでのお役所主義の、これは私以下全部でございますが、お役所主義の考え方では、もうこの競争激甚な輸送競争にはついていけないということを考えまして、ここでもって一種の精神の、何と申しますか、躍進と申しますか、改革と申しますか、そういう意味の生産性運動を、これは国鉄職員としてのかまえを私は考えました。

長くなりましたが、一部抜粋の上アップさせていただきました。

質問している、社会党川俣健次郎議員は、国労水戸分会出身の社会党議員で、社会党右派に所属する議員で、国労動労としてみれば脱退者が毎月数千人規模で起こる状況を何とかしてもらいたいとして、社会党に質問をしてもらったわけですが、むしろ生産性運動の導入が遅いのではないかと逆に質問されたとしており、国労動労の面目は丸つぶれとなってしまいました。

こうして、国労の最初の生産性運動に関する取り組みは脆くも失敗に終わったわけでした。

 

昭和46年3月2日 衆議院 社会労働委員会 第8号。磯崎総裁と、川俣健二郎議員の質問に関する議事録部分を全文抜粋しました。

jnr-era.blogspot.com

合わせてご覧ください。

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生産性運動導入から、中止まで 第一九話

今回から、大幅に時間を戻して、再び昭和46年3月まで時間を巻き戻したいと思います。

今回も、鉄労編纂、「国鉄民主化の道」を参考に、関連する資料等があれば、それも併せてアップしていきます。

生産性運動はどのような経緯で導入されたのか?

国鉄が生産性運動を導入した背景にはどのような経緯があったのでしょうか。

この点を明らかにしないと、生産性運動だけが一人歩きしてしまいます。

生産性運動に関しては、国鉄当局としては、止むにやまれず導入した経緯があると言えそうです。

生産性運動=国鉄当局の不当労働行為だった・・・終わりでは、何故そうなったのかという部分が全く見えてきません。

国鉄が生産性運動導入に踏み切った背景には、国鉄財政再建問題がありました。

さらに、磯崎氏自身が、総裁に就任するための言ってみれば実績を上げたかったという点もあったかと思われます。

これは、昭和44年に一回目の国鉄財政再建計画が策定された事が呼応していると言えます。
実際には、その後、昭和48年、更に昭和51年にも再建計画が策定されることになるのですが、いずれも取りあえず制度だけを作ると言ったいわば官僚の作文になっていました。

この辺は、葛西氏が「未完の国鉄改革」で下記のように発言しています。

そのとき先輩から「この再建計画は2年もつように作られている,二年経ったら新しい計画を作る」と聞いた。10年計画のうち、当面の1~2年は収入も経費も現状に近い形で堅めに見積もってあるので計画との乖離はすくない。もちろん、現状は赤字であるからそのままではどうしようもない。そこで、当初の1~2年は現状に近い線でスタートするが3年目くらいから設備投資によるサービスの質的・量的改善の効果が現れはじめ、収入が伸びるという筋書きにしなければならない。

未完の国鉄改革 第2章 赤字転落・借金漬け経営へ 37ページから引用

 

他にも、磯崎総裁就任前後には、支社制度の廃止と、再建計画が策定されていることにまず注目していただきたいのです。

さらに、就任後も全国行脚と称して,東京南局を皮切りに,一週間に一回の割合で現場を訪れ現場長との対話を行いましたが、これも、磯崎氏なりのアピールであったのではないかと思われる節がその後多々出てくるのですが、詳細は省略させていただきます。

磯崎氏の総裁就任は,消極的な理由から

実は、磯崎氏が、矢継ぎ早に施策を打っていった背景には、政府当局に対する磯崎氏の評判が芳しくないことも一つに挙げられるかもしれません。

特に、新聞報道されていたにも関わらず、待ったがかかって一週間ほど就任が遅れたというのは前代未聞であったと言えそうです。

その辺の事情を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

運輸相の原田は、財界人をあきらめ、第6代国鉄総裁に磯崎叡を昇格させることにし(もちろん首相の了承も得て)5月20日閣議で正式に決定する、と新聞発表した。・・・・中略・・・・ところが、20日閣議では決まらなかった。23日の閣議でも決まらなかった。・・・中略・・・本当は自民党の一部から、「磯崎は社会党と親しく、組合にも甘いと聞く。これでは国鉄の再建はおぼつかない」というクレームが付いた、と言うことらしかった。

 こうした背景があったことから、前述したように、就任直後の現場行脚や、生産性運動の導入などで、焦りと言いますか、頑張っているアピールをしたかったのではないかと考えてしまうのです。

実際、生産性運動を導入したのも、そうした批判に対するポーズとも取れますし、第一回目の再建計画策定が、総裁就任直後というのもいたずらに符合しているとも言えないでしょうか。

磯崎総裁とはどんな人?

磯崎氏は、生粋の国鉄官僚であり、強きに弱く、弱きに強い、典型的な官僚でした。

その経歴をwikipediaの記事を参照しながら列記してみたいと思います。

  •  1935年   鉄道省に入省
  • 1939年1月   大臣官房人事課配属
  • 1941年1月   広島鉄道局運輸部貨物課長、後に、興亜院事務官この時、大平正芳等若手事務官で「九賢会」を作ったことが後に政界とのパイプとして役立つこととなる
  • 1949年6月~ 下山定則総裁下で職員課長
  • 1950年     加賀山之雄総裁下では文書課長国鉄スワローズ設立の推進役となる
  •  この間   弘名鉄道管理局長
  • 1956年8月~  本社営業局長
  • 1960年1月   常務理事昇格
  • 1962年   国鉄退職
  • 1963年   国鉄復帰、副総裁として石田総裁を支える
  • 1969年5月27日、石田総裁退任に伴い、第6代国鉄総裁に就任

更に注目すべきは、十河氏とは折り合いが悪かったという点で、営業局長か常務理事まで昇進するのですが、1962年には十河総裁から解任通知を出され、その後石田禮助氏が国鉄総裁に就任すると、社会党の受けも良かったこともあり、各方面から、磯崎氏を副総裁にと言う声が多くて、1963年5月には再び副総裁として国鉄に返り咲くこととなったのでした。

ただし、社会党や組合の受けが良いということは前述の通り、総裁に相応しいのかという点で大きく問題視されたことも事実でした。

  

 という点を指摘されたことが、総裁就任直後の現場行脚であり、生産性運動の導入であり、第一回再建計画の導入などに繋がっていると思われます。

結果的に、磯崎氏としてみれば、頑張っているアピールをしたかったのでは無いかと思えるわけです。

  

国鉄生え抜きの鉄道総裁

 

総裁の全国行脚と生産性運動の本音

磯崎総裁は、就任後東京南局を皮切りに、全国の現場を訪ねたのですが、実際にはこの対話集会と言う名の現場行脚も、結果としては取りあえず実施してみました・・・的な雰囲気であったと、「民主化の道」には書かれています。

そのあたりを再び引用させていただこうと思います。

この総裁との対話集会に出席した現場長に感想を聞いたら、「膝を交えて話し合うなどという雰囲気ではなかった。何でも思うことを話せ、と言うが、局の総務部長や意地悪な課長が陪席しているのだから、本音を話したら、すぐお目玉だ。第一、最初から実情を説明したり、決意を披瀝する人が、局の指名で決まっていました」と言っていた

 と有るように、管理局でも現状は十分把握していたとしても、それを覆い隠す雰囲気が合ったこと、そしてその辺も十分総裁も承知していたと思われます。

実際、現場の職員の一部に反国鉄分子がいるが他の職員は優秀で善良だ。これら善良な職員をまとめて、反国鉄分子に対抗する力に育てるのが現場長の責任だが・・・そのためにはどうすれば良いかが問題だ」と発言しており、これが生産性運動を導入させる伏線になると思うのですが、前述したように、管理局も現場の恥を外に出さないという雰囲気が有ったわけで、どこまでも、本当の現場の実情を総裁が把握できたのかはいささか疑問に思えてしまいます。

 

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未完の国鉄改革



続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一八話

鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。

本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。

はじめに

今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。

ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。

なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、その提言をおこなったのは、当時国鉄監査委員を務めていた、西野嘉一郎氏で有り、氏が国鉄監査委員長を務めていた石田礼助氏(十河総裁の後任総裁)に提案して、それが実現したそうですが、石田氏が退任後、磯崎総裁は支社制度を廃止してしまいます。

磯崎氏と言うよりも国鉄幹部の考え方が、中央集権的な考え方に凝り固まっていた事が原因とは思われますが、いわゆる大企業病に侵されていたと言うべきかもしれません。

当時の支社制度導入に関しては、国鉄部内誌、国有鉄道1982年4月号 「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」で、以下のように書かれていますので引用したいと思います。

国鉄再建の途は分権化よりほかないと考え石田委員長に進言した。
当時の国鉄は北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていたが、総支配人には何の権限もなくすべて中央集権であった
何十万人かの職員を有する大国鉄を1人の総裁と数人の常務理事で運営することは至難のわざである。とくにそのころの中央幹部の仕事はスト対策等労務管理に大部分の時間が費やされていたのである。
私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念することであった。

中略

君のいう支社制度の案は大変よい。早速十i河さんにいって実施しようではないか。」ということで,この制度はただちに実施されたのである。

 

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国有鉄道昭和57年4月号からキャプチャ

支社制度の廃止がもたらす本社の問題

国鉄当局が全国的に生産性運動を広めようとしていたとき、当局では昭和32年4月に発足した、支社制度を廃止して、本社→管理局という昔ながらの中央集権制度に改めることになりました。

支社制度は、全国を9支社(発足当初は6支社)を設置、本社権限を大幅に降ろした地方分権制度にすることで意思決定の迅速化などを目指したものでした。

支社制度とはどのようなものであったのか、以下に概要を示してみたいと思います。

  • 従来の本社直轄組織でとして地方6カ所に駐在して居た、総支配人制度を廃止し、新たに地方機関として全国に6支社を設置する。
  • 地方機関である支社には、本社の権限を大幅に降ろすことになる。
  • 経営単位として支社に権限を与え、管理局毎の収入目標などをもし者において責任を持たせる
  • これにより、本社から支社に以下のように権限が降ろされることとなりました。
  1. 現場機関・職場の設廃(ただし、旅客車が利用する駅の設置は従来通り本社権限、引き続き仮乗降場は支社権限)
  2. 連絡運輸に関する事(私鉄との連絡運輸は支社長の権限とする(共同使用駅の使用料や、他社との連絡運輸による乗入れ等の承認
  3. 急行券・特別2等車、寝台券の割り当て枚数の決定
  4. 旅客運賃・料金の後払い承認を支社内相互発着の場合は支社長権限とした
  • 輸送関係では、準急・快速列車以上は本社権限は引き続き変わらないが、他支社に影響を及ぼさない普通列車及び貨物列車は支社権限とするほか。臨時列車についても準急以上の優等列車は不可だが、普通列車などは支社権限で実施できる
  • 他支社に影響を及ぼさない、準急・快速列車の指定
  • 他にも人事関係なども支社に権限が降ろされ、管内の課長以下の転勤、賞罰等の権限が支社に降ろされる

など、これでもかなり端折った内容ですが、従来のお飾り的であった、総支配人制度と異なり、支社長にかなりの権限が降ろされることになりました。

こうした権限を大きく下ろした支社制度でしたが、

昭和45年8月20日は、支社制度が廃止されてしまい、総局、輸送計画室が新設されることになります。これにより四国は総局に移行、九州・北海道支社も管理局機能を統合した総局に改組されました。

当初は、九州・四国は西部支社に、新潟は関東支社でした 支社制度発足

支社制度発足

支社制度は何故廃止されたのか?

その原因を支社幹部の人事権を本社が握っていたことが原因ではないかと指摘しています。

その辺を、「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を,本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2.3年すれば本社勤務になる、というようなことでは、支社制度のうま味ははっきできない。運輸調査局理事長の石川達二郎(元国鉄常務理事で昭和50年退職)は『運輸と経済』の58年3月号に「巨大組織の克服」という論文の中で、支社制度が廃止されたことについて、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「支社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指導し運営管理する経営管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。

ここで書かれているように、国鉄本社の権限を支社に中々下ろそうとしなかったと書かれていますが、実際に権限を下ろしたとは言え、かなり末節な部分が多く、重要な所は本社で持っていたことも事実でありましたが、その背景にはもう一つは、それだけの分権するための胆力が総裁になかったと言えそうです。

少なくとも、本来であればさらに権限を本社から移していって、本社が調整機能を持たせるだけとなっていたならば、場合によっては中国支社と四国支社の統合といった形で、比較的自由に動けたのではないかと思いますが、旧態依然とした中央集権体制に戻してしまったことは、本社内の空気は,生産性運動などの改革、興味がなかったと言えるのではないでしょうか。

その辺は、さらに磯崎氏の行動などを詳細に調べてみる必要がありそうです。

支社制度廃止と、国鉄諮問委員会らの提言

昭和45年12月21日は、国鉄諮問委員会から、「国鉄経営についての意見書」が提出され、新規採用者の抑制や地方宇ローカル線の廃止もしくは、地域への委譲が提言されていました。

以下は、弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21

国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、

  1. 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
  2. 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
  3. 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する

などとなっている

 さらに、国鉄の赤字を圧縮するために、「徹底した生産性向上に努めて昭和53年度までは新規採用を殆ど行わず、要員規模を11万人縮減して人件費を抑える」としていましたが、それでも45万人の職員は、当時の輸送量からしても過剰と言えるものであったと言えます。

しかし、合理化を進めることは、当然のことながら国労動労を強く刺激することとなり、生産性運動の反対は、反合理化闘争と絡めて大きな運動となっていくのでした。

 

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

久々に更新になります。

今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。

今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

生産性運動と鉄労

鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。

昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。

その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論は、ほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。

 鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄再建と言うことで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。

当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性の理念で、既に生産性教育をやっている。と言っていた。

と有りますように、鉄労としては、昭和37年の新国労時代から生産性運動に取り組んできたと言うことを主張しています。

元々生産性運動は、昭和30年には確立した理論で有り、当時から国鉄当局も取り組もうとしましたが、導入することが出来ないまま、組合との対立が続き、国鉄を取り巻く環境は更に悪化したわけです。

その中で、当局もやっと生産性運動を取り入れたと主張しているわけです。

実際に、新国労発足当初から雇用安定協約を率先して締結するなど、国労動労が、どちらかというと、力で権利を奪い取ろうと考えていたのに対し、主張すべきところは主張するが、よりよい条件を引き出して妥結するという意識が見え隠れしています。そうした意味では、どんどん左傾化していく動労や、国労とは常に一線を画する組合でありました。(動労左傾化については、改めてどこかのタイミングで取り上げたいと思います)

当局の実施する生産性運動を遅きに失したと発言

そして、鉄労は現在当局が進めている生産性運動に対しては一定の評価をしつつ、遅きに失したとして、下記のように批判しています。

再び引用してみたいと思います。

昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやく取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。・・・中略・・・現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている

 この指摘は、非常に重要です。

当局の生産性運動自体が変節してしまっている、もしくは中間管理職と言われる人たちに正しく伝わっていないことを示しています。

実際、生産性運動も当初は、日本生産性本部に委託する形で行われていましたが、途中から国鉄当局自身で行う生産背運動も増えており、結果的に劣化コピーの生産性運動を生んでしまったように見えます。

そこで、鉄労としては、自らが正しい生産性運動の理論を身につけるべきだと主張しています。

そして、生産性運動が進められていた頃、国労動労を脱退して、鉄労に加盟する組合員が増えており、当時は8万5千人に達していました。

国労、生産性運動反対を確認

国労は、2月24日・25日に広島の尾道で中央委員会が開催されたそうですが、生産性運動に関しては当然のことながら反対という事で、生産性運動に関連して、鉄道学園での教育。昇給・昇格・昇職に差別的扱いの報告がなされ、総括として、「的の国家権力を背景とした攻撃に対して、組織の総力をあげるため、どう団結を図っていくかにある。・・・中略・・・全員が討議に参加する方法に改めたい」とし。

国労としては、マルクス階級闘争を組合員に浸透させていく事を強調していました。

なお、動労もそうですが、反戦青年委員会*1が参加して、盛んにヤジを飛ばすなど議事の進行を邪魔するのですが、国労は、反戦青年委員会を排除する方向に動いていたの対し、動労はむしろ育成に努めているところが有り、やがて鬼の動労と呼ばれる萌芽がこの頃からでていたと言えそうです。

動労も生産性運動反対を確認

動労中央委員会は、3月5日・6日、千葉県茂原市の日立労働会館で開催されました。

成田空港建設反対闘争が厳しい時期で有り、三里塚では、2月下旬から機動隊と国際空港建設反対同盟が衝突するなど緊迫した事態となりました。

動労でも生産性運動に対し質問等が投げ出されてくるのですが、ここでもこうした反対の急先鋒は、反戦青年委員会のメンバーが中心でした。

動労では、マル生運動とは言わず、生運研(生産性運動研究会?)と呼ばれており、彼らが中心になって運動が進められていました。

この頃の、動労反戦青年委員会を育成の方向を目指しており、国労とも反目することも多く、国労が彼らを押さえ込もうとしていた事と対照的な動きが見られました。

職場での報告としては、「生運研参加者を除名せよ」とか生産性運動参加者を村八分的にしていると言った報告もあったそうです。

このように動労も、国労も生マル生運動に対して批判的では有ったものの、どのように取り組んでいくかという点にあっては、未だに答えが出せない状況であったのも事実でした。

国労は、鉄労がマル生運動を利用していると批判

鉄労視点ばかりではなく、国労側の視点ということで、国鉄労働組合四〇年史から再び引用したいと思います。

国労としては、生産性運動は鉄労の育成であると位置づけ、下記のように記しています。

そして鉄労は、総裁の提起した労務管理政策が、生産性向上運動の名のもとに管理局から現場に向かって浸透しはじめたとき、「生産性運動ーーそれは鉄労の躍進につながる。組合結成以来、絶好の好機が到来した」として、積極的にその性格に追随したのであった。まず、はじめの役割分担は現場管理者の手足となって、「マル生」グループの結成とその育成に努めることであった。そのことが、国労動労の切り崩し、鉄労の組織化育大につながる。

と書かれています。

鉄労は、結成当初から提唱していた生産性運動を当局が導入したと言い、国労は、鉄労が当局と結託したとしています。

もっとも、組合に限らず組織が拡大を図るのは自明の理で有り、まして複数の組合に一人の職員が加盟できない以上、いわゆる組合員の拡大はどこかが増えれば、どこかが減少するゼロサムゲームのようなものですから、仕方が無いことでしょう。

ただ、個人的な見解を述べさせていただければ、国労動労もこの時点では、生産性運動ではなく、国労ではマルクス階級闘争を浸透させることが大事であるとして、また動労は更に左傾化して。反戦青年委員会等のメンバーが中心となった活動をしており、どこまでも対立するという視点だけで進めているのは、後付けの知恵で考えると、大事な時点で引き返すべき時に引き返せなかったのではないかと思ってしまうわけです。

実際、国鉄貨物が壊滅的に減っていくのは、この1970年頃からで有り、経済が発展しているにも関わらず、国鉄の貨物輸送だけが当初予測を覆して一人負けしていく背景には、国鉄の度重なるストライキの結果で有り、高速道などの開通も相まって、そのシェアはどんどん落としていくことになるのですが、その辺は国労動労も気づいていなかったように思われます。

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今回参考にした、国鉄民主化の道並びに、国鉄労働組合史40年史

 

続く

 

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*1:ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会