日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第六回

ほぼ5ヶ月ぶりに更新になります。

長らく開けてしまって申し訳ございません、動画の作成なども重なり中々時間がとれなかったと言い訳をしておきます。苦笑

動労の行った機関助士反対闘争は、それまでの機関助士の処遇をどうするのかという問題もあり、国労以上に動労には切実な問題でした。

弊blog 日本国有鉄道 労働運動史 国鉄労働組合史詳細解説 22-3 を参照しますと、最終的には動労は、夜行列車などにおける機関助士常務を認めさせたほか、廃止される機関助士にあっては、EL・DL乗務助士9,000人中、約3,500人の存置の確認、 廃止助士については、機関士・・検査係へ逐次登用させることで、一定の整理を図れたとしていますが。

こうして、自らの組合としての勝利と書いているもののかなり薄氷を踏むような状況であったようです。

国労も機関助士反対闘争では同調していますが、元々電車乗務員が多い国労の場合電車は一人乗務が基本ですので、一緒に機関助士反対闘争に乗っかるメリットはないわけで。どちらかと言えば、合理化反対闘争の一環であり、実際には鉄労とともに組合員の引き抜きもあったようです。

そうしたことも動労を過激な方向に向かわせていった点もあるかと思われます。

特にこの時期は鉄労からもかなり強力な引き抜きもあったようで、詳細は今一度調べてみますが、動労自身が存続の危機に陥ったと言われています。

動労の反合理化反対闘争のきっかけは、昭和36年の5月まで遡るようで、動労としては特に機関助士反対闘争に力を入れた背景には、昭和41年4月に当局が 普通課程運転二科を 開設 したことによる反発が大きかったようです。

普通課程運転二科とは

それまでの国鉄では、中学卒業後機関区などで直接採用された場合は検査係などを経て数年の後に、機関助士、更には機関士へという流れでしたが、動力近代化により操作方法なども高度化していること、更には輸送力増強に伴い、適性を持つ機関士(動力車乗務員)を早期に確保したいという思惑から、昭和41年度から高校卒業者を直接機関士に養成するという手法がとられました。

しかしこうした方法では、長らく機関助士をしている職員の機関士への道を絶つこととなることから、動労としてはこの運動には敏感に反応しました。

この辺の事情は、当時の監査報告書(1966年 P130)では以下のように書かれています。

少し長いですが、引用させていただきます。

(2)職員の資質向上


職員の取扱い誤りに起因する事故を防止するため、上述の保安設備の強化はもちろんのこと動力車乗務員、車掌、駅の運転取扱職員等をはじめとして、施設および電気関係の職員を含めて、運転業務に直接関係する職員に素質の良い職員の確保に努める必要がある。
最近、動力車乗務員の質の確保は運転保安上特に重要になってきたので、昭和40年度から中央鉄道学園に中学校卒業者を対象に普通課程運転科を開設し、さらに昭和41年度から関束、中部および関西の第1種鉄道学園に高等学校新規卒業者を対象として普通課程運転二科を開設し直接動力車乗務員として養成することを試み、その結果きわめてよい成果を収めている。

とあるように、それまでの庫内手(検修係)を経て機関助士、機関士と進む徒弟制度的な流れから、いきなり学校を卒業後数年で機関士(動力車乗務員)になることは、当然のことながら、現在の機関助士等からすれば、機関士の道が閉ざされることに繋がりかねないわけで、組合としても、組合員の確保という視点からも強く反発することとなりました。

二つの目よりも四つの目で安全を確保できるとアピールするが・・・。

昭和40年代前半のこの頃は、動労にあっては反戦青年委員会所属だった組合員も多く、その後動労にあって暗然たる勢力を持つ松崎明氏も、当時は青年部長として動労でも発言力を強めて行くのでした。

特に、蒸気機関車では必須であった機関助士も電気や内燃ではほとんど必要とせず、当局にしてみれば合理化を図りたいわけですが、組合員の減少を招くことですので、組合側は当然のことながら強く反発。

安全確保には、二つの目よりも4つの目として二人乗務の正当性を訴えていくのでした。

しかし、昭和43年6月27日深夜に起こった膳所駅での貨物列車脱線事故では、2人いても安全は保てないことを自ら証明することになってしまいます。

参考:

事故の直接の原因は機関士・機関助士両名の居眠りとされており、当事者の聞き取り調査を動労も行っている(安全黒書)のですが、かなり無理な弁明であり、最後は当局が悪いとしているのですが、少なくとも個人の資質に問題があることは間違いなく。

動労としても、大学の教授などにも有利な報告書を書いてもらうことを期待したようですが、十分な成果を得ることは出来なかったようです。

こうした事故もありながらも、当局は合理化の一環として機関助士反対闘争を強力に推し進めることとなりました。

特に、昭和44年からは、当局に押し切られるような形で進められるのですが、動労も強く反発を行って行くこととなります。

 

機関助士反対闘争では、多くの機関助士が職をなくすとして強く反対することとなります

機関助士反対闘争では、多くの機関助士が職をなくすとして強く反対することとなります。

少し長いのですが、昭和44年5月の機関助士反対闘争に関する出来事を弊サイト国鉄があった時代から、書き出してみました。

国鉄当局、6月1日以降3段階に分けて助士廃止計画を実施することを組合に通告 5/12
    国鉄当局、国労動労に対し、6月1日からハンプ押し上げ機関車と一部貨物列車の1人乗務を実施し、EL・DL乗務員を一人乗務に切り替えることを提案(1人乗務を段階的に実施)

国労動労は、一人乗務に対して反対闘争を行なうことを表明 5/12
国鉄機関助士廃止問題・国民安全調査委員会」発足 5/24

動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~

    動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった

動労、機関助士廃止に反対し、ATS順法闘争(自動列車停止装置の警報が鳴ると停車・徐行する)を開始 5/28
EL・DL調査委員会の5氏、「調査報告書は一人乗務を無制限に認めたものではない。技術上の諸条件の完備、労働 条件、生活条件の改善向上、個体条件への配慮などと関連 して団交で善処されることをのぞむ」という趣旨の覚書を発表 5/29
機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1

    報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
    中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された

最終的には、寝台列車等夜間走行の列車に限り機関助士をのこすこととしたものの、EB(Emergency Brakeの略)装置の設置などで国鉄当局は一人乗務を押し切らせることとなりました。
余談ですが、電車などで試用されていたデッドマン装置は国鉄では採用されず、帰還者にあってはEB装置(一定時間機械操作をしなかった場合に警報が鳴って、その後非常ブレーキがかかる)の導入となりましたが、電車にあっては装備はされたものの、組合の反対があり、国鉄時代には殆ど使われていなかったように記憶しています。

 


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