2ヶ月ほど放置状態になっていました。
申し訳ありません、今回も国鉄の生産性運動前後の国労、動労の動きと言うことでお話をさせていただこうと思います。
動労の松崎委員長とは
動労と言う組合は、国鉄末期には革マル派という答えが返ってくるかも知れませんが、委員長の松崎明が、革マルの幹部であったことからとも言われました。
更には、鉄労と協調して労使協調宣言すり寄っていくイメージを持たれる方も多いかと思いますが。
動労が過激な方向に走り、革マル派が増えた背景には、当時の動労の委員長松崎明の存在が大きかったと言われています。
動労を過激な運動組織にしていった背景には松崎の存在が大きいと言えそうです。
「国鉄動力車」という本によれば、当初の動労というのは職能組合として、極めて穏健で昔ながらの職人気質の性格の組織であったと回想しています。
松崎 なんと言っても当時の機関車労働組合というのは、メーデーその他の集会に行っても歌一つうたえない。デモも基本的にできないという労働組合であった・・・職場の段階では、ある意味では当局に庇護されている様な職能イズムな運動であったから、したがって職場闘争というものは全くない・・・以下略
国鉄動力車 P46 あるべき運動の姿 から引用
と有るように、当時の動労は職能組合として極めて階梯意識の強い組合であり、機関区という独特の組織であったと回想しています。
そうした中で、松崎らは青年部を動労の中にも結成させると共に、そこで頭角を現すことになります。
機関車労組は先細り という不安から?
青年部は郵政の全逓も国労も比較的早くに誕生するのですが、動労は昭和36年まで待たねばなりませんでした。
その背景には、前述のように階梯制意識の強い職場であったことも大きく影響していました。
当初機関車労組と名乗っていたのですが、国鉄が動力分散化方式を選択する中で、機関車労組は、その名称を昭和34年動力車労働組合(動労)に変更することとなりました。
その背景には、国鉄が動力近代化として気動車や電車などの動力分散列車を中心に構成することとなり、機関車を漸次廃止していく方針としたことも要因だったようです。
ここに昭和32年当時の機関車労組の地方別国労・機労の組合員の比率を示す資料があります。交通年鑑の資料を基に筆者が作成したものです。
これによりますと昭和31年当時の全国の国労組合員359,235人にこれに対して機労組合員は、全国で53,495人、その比率は全国平均17.99%となります。
機関士が全員機関車労組組合員というわけではなく、国労に残った機関士もいるため、東京などでは極端に少なくなっていることがご理解いただけると思います。
また、電化や気動車化で機関区が気動車区や電車区に改変もしくは統合される場合もあり、その場合は機労から国労に変わることから、機関車労組の組合員が相対的に減少していくという問題も抱えていたようです。
マスが黄色のところは、全国平均よりも機関車労組の組合員が多い管理局を示しています。
二つの派閥が動労内で誕生
機関車労組は、昭和34年7月24日~28日の機関車労組全国大会で組織名を「動力車労働組合」に変更することを決定しています。
ここで、改名すると共に、総評への加入を試みた点は注目に値されるかと思います。
その背景には、前述の通り当局の合理化による組合員の減少を懸念したものでした。
そして、もう一つ注視すべきことは、機関車労組の中では二つの派閥が生まれていたことです、昔ながらの職能別組合を目指す、国鉄一家主義を肯定するグループ(機関車同志会)と、左翼的要素が強く、総評加盟を目指していたも政策研究会でした。
- 機関車同志会(後に労運研)
昔ながらの機関車労組の階梯組織を意識した組織
秋田、仙台、千葉、金沢、広島、四国、門司地本 - 政策研究会(政研派)
左派的要素が強い組織で、翌年誕生する青年部を応援することとなり、動労の左傾化を進めることとなりました。
釧路、旭川、青函、盛岡、高崎、東京、名古屋、大阪、岡山
政研派は、初代青年部長に就任した松崎明(東京地本出身)らを育てる方向に進み。やがて主導権を労運研から奪うこととなりました。
これは、全逓(郵政の組合)や国労が青年部を抑え込もうとしていたのに対して反対の動きを行った訳で、結果的に動労は機労誕生当初よりも攻撃的な組合へと変質することとなり、初代青年部委員長が革マル幹部であった松崎明であったことが、動労=革マルという認識を持たせることとなりました。
機関車労組第9回全国大会を開催 国鉄動力車労働組合と改称 7/24~7/28
甲府市において開催し、運動方針、役員の再選を行い、名称を動力車労働組合と変更。総評加盟問題は136対112で否決となり、本年度は総評加盟の方向を指向するということになった
青年部初代委員長で松崎明は頭角を現す
動労自体は、やがて主導権は政研派が握ることとなり、国労以上に過激な組織となっていくわけですが、その背景には松崎明が(政研派)をバックとして先陣を切る形となって新しい時代の組合運動を行っていった点が大きいと考えられます。
そうしたことを容認した背景には、機関車乗務員の養成は時間がかかるという事も大きな課題でした。
更に、国鉄が進める無煙化と動力分散方式への移行は動労にしてみれば前述の通り機関車が無くなる=職場の減少に繋がるわけですから、それは組合員数の減少を意味しますので。
動労は、ここで昭和36年以降積極的に合理化反対闘争を打ち出します。
以下は、弊サイトから反合理化闘争を抜粋したものです。
反合理化闘争で動労が9拠点で十割休暇闘争(当時はストライキとは言わなかった。)実施 3/15
全国9拠点(旭川・長万部・青森・浜松・奈良・高松・広島第二・鹿児島)で十割休暇闘争を実施、これにより動労は「協議においては相互の完全了解を図ることを目的」とするなど、当局が一方的に実施できないようになった
昭和38年
動労、3・31闘争 3/31
EL・DL時短、2人乗務維持闘争など
動労、12・13闘争を実施 12/13
車検委答申に基づく基地統廃合反対闘争
総評年末第三次統一行動。動力車は時限スト 12/13
昭和40年
動労 12・10闘争 12/10
EL2人乗務、東北・常磐線電化問題を議論
昭和40年
昭和42年動労、運転二科反対闘争 3/29
動労を中心とする、反合理化闘争 12/23
業務の部外委託、職業教育制度、乗務員賃金・時短などを当局側が提案に対し17拠点において半日ストライキが行われた
昭和43年
昭和44年国鉄労組、反「合理化」で第2次順法闘争 2/27~3/2
国労27地本で、第二波闘争が実施され、通勤通学列車に大きな乱れか生じた動労は動労28地本を中心に第4次全国統一行動・順法闘争 最終日の3月2日 国鉄労組は機関区、検修関係職場、工場など 全国38拠点で半日スト。動労も13拠点でスト。時短など一部は前進したが大部分は引きつづき協議
動労がスト、ダイヤが混乱 5/25~動労は、国鉄当局が提案した6月1日からの電気機関車、ディーゼル機関車の1人乗務制に反対して、25日から全国で順法闘争、30日から6月1日までの3日間主要線区で半日ストにはいつた。このため27日、東京周辺の国電44本、東北本線17本が運休するなどダイヤが乱れはじめ。30日は全国主要線で運休、遅れなどが続出、全国的にダイヤが混乱、ことに東京周辺の国電は、28日朝から30日夜にかけて、はげしい”スト地獄”がつづき、警視庁機動隊が出動して規制した。この事態を収拾するため30日夜トップ会談をひらき、さらに団体交渉で「1人乗務制による助士廃止については、引きつづき協議し、意見の一致を期するよう努力する」ほかで合意妥結、動労は同夜ストを中止し、予定していた3日間の連続ストは初日だけで終わった
機関助士反対で動労スト突入 5/30~6/1報告書の答申を無効と主張する動労は、これに反対して30日から6月1日までの3日間、全国主要幹線を中心に連日12時間以ヒのストを計画、30日は午前2時から予定どおり全国約40拠点でストに突入
中央・東北・常磐・上信越・山陽・山陰・鹿児島各線とその関連線区では特急・急行をはじめとする中・長距離列車が軒なみ運休、遅延した。とくに国電中央線では快速10本に9本の割で運休したため、通勤・通学輸送は大混乱となった、労使の交渉は、スト突入以来約15時間ぶりに午後8時半から行なわれ、31日未明、1人乗務は一応延期するという方向で妥協点に達し、引きつづき協議の覚書を締結。5.3以降のストは中止された
動労はこの闘争を反合理化闘争、第6波と位置づけEL・DLの助士廃止に関する団体交渉は精力的に行なわれたが、ついに合意に達せず、国労、動労は北海道から九州に至る太平洋ベルト地帯の主要幹線で、17時間といういまだかつてない大規模のストに突入。そのため各線はかなりの混乱をみせたが、28日の異例の支社長、関係管理局長会議の召集や関係局の綿密な諸対策の結果、貨物列車の早め待避や、乗務員の確保に万全の努力が尽され、列車の遅れ、乱れは予想よりも少なかった
「10月決着」ということで労使合意に達した筈の1人乗務問題、話し合いによる円満な解決をという国民の願いはまたもや裏切られ、相変わらずの実力行使による違法ストとなった
このため、1日朝の国電湘南・横須賀線がマヒ状態になったのをはじめ東海道、中央、山陽、鹿児島線など、主要幹線のダイヤが大きく乱れた。労使交渉の結果、当面3,300人から3,500人の助士を残す。一人乗務旅費を5割増、1日平均7時間を標準とする等残すほかで合意し、1日13時間半におよぶストが中止され、3年越しの助士廃止問題に決着がついた