日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第二十五話 鉄労視点による生産性運動の意義

鉄労からみた、生産性運動とは

今回は、国鉄民主化への道から見ていこうと思います。

鉄労による生産性運動

国鉄当局が生産性運動の導入を行う前から、鉄労では独自の生産性運動を組織拡大の一環として取り組んでいたそうです。

国鉄内の地域・職域労組の連合体であった、新国労は1968年10月20日に、単一組織化されて、鉄労に改称していますが。

その2年後、昭和44(1969)年春頃から積極的に組織拡大の一環として、生産性運動に取り組むこととし、各地で「国鉄を守る会」「国鉄を再建する会」「国鉄を明るくする会」などが設置され、組織の拡大に努めていました。

その辺を国鉄民主化への道から引用したいと思います。

当局が生産性教育を開始する頃と同じ頃、鉄労も独自の生産性運動教育を開始した。

会場は伊東市の小室山の麓にある伊東ユースホステルを中心に、都内の今は無いが、飯田橋の富士紡会館等を使用、各回約50名を集めて開催された。こうして鉄労も生産性運動に積極的に取り組んだが、決してそれは当局のそれを全面的に認めてのものではなかった(後略)

当局の生産性運動は昭和44年11月24日から東京オリンピック村で開催された、日本生産性本部の研修会に国鉄の中堅機関士が国鉄として初めて参加したものでしたが、正式に国鉄が生産性本部に委託費を払って導入したのは、昭和45(1975)年度でした。

国鉄は昭和39年以来赤字決算を続け、累積欠損金も食い潰しということで、その状況は待ったなしのところに追いやられていましたが、国労は「日本の国鉄はいま、”経営の危機”であっても、国鉄そのものの危機ではない」と国労の運動方針で示したとされています。

国鉄はそのシェアを奪われつつあった

要は、親方日の丸である国鉄は潰れることはないという意味合いで有ったろうと思われます。

その背景には、三井三池闘争の時に向坂逸郎が「会社は潰れても鉱山は残る」とした発想そのものであり、石炭も過激な闘争が自らの職場を追いやったように、国鉄も自らの運動で、国鉄を追いやっていったのは間違いないでしょう。

国内旅客輸送シェア

旅客輸送シェア

国内貨物輸送シェア

貨物輸送シェア

これを見ても判るように、1960年頃と比べると旅客輸送で50%以上占めていたシェアが70年代には40%を割り込んでいます。実際、この頃には、東京対北海道は飛行機のシェアが鉄道を逆転しており、その後も国鉄の運賃値上げの繰り返しなどで、そのシェアは小さくなるばかりでした。
貨物輸送に至っては、1970年代には20%を割り込む状況になります。
国鉄としても物資別輸送の改善などを行おうとしますが、その一方で組合は独占資本に協力的な国鉄当局とか、大企業優先の格安運賃とか言って、貨物輸送をやり玉に挙げることとなります。

国労動労の問題

国労動労は依然として「独占に奉仕する国鉄貨物」という認識で、ストの時には、まず貨物列車からストップさせ手来たことが、荷主の信頼を失っていったわけで、その辺を国鉄民主化の道から再び引用しますと

国労動労は依然として「独占に奉仕する国鉄貨物」という認識で、ストの時には、まず貨物列車からストップさせた。この年の国労動労は「70年安保を目指す行動の年」と「国鉄16万5千人合理化粉砕」をメインスローガンにしていた。

引用終わり

と有るように、国鉄の運動は国鉄が危機でも国鉄は残るという誤った認識であり、この認識は国鉄改革が叫ばれ出した、昭和57年以降も顧みられることはなかったと言えそうです。

 

続く

 

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