久々に更新させていただきます。
直接生産性運動とは直接関係が無いのですが、生産性運動前に廃止された支社制度についても触れておきたいと思います。
支社制度とは
支社制度とは、それまでの総支配人制度に代えて、昭和32年1月16日に発足した制度でした、それまでの総支配人制度は、北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていましたが、総支配人には何の権限もなく、いわば中央の連絡役に過ぎませんでした。
当時の国鉄は、総裁と数人の常務理事で方針が決定されるというもので、特に本社ではスト対策等の労務管理に費やす時間が多かったことから、思い切って地域ごとに権限を委譲するというものでした。
その制度は、十河総裁時代に導入されたのですが、支社制度を進言したのは石田禮助が監査委員長をしていた際に、国鉄監査委員として補佐した西野嘉一郎であったそうです。
以下は、国有鉄道 1982年4月号
「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」
には、以下のように書かれていました。引用してみたいと思います。
私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念する ことであった。
とありますように、支社長に大幅な権限を持たせるというもので、これを聞いた石田禮助監査委員長は早速、十河氏に進言、当初は総支配人室を支社に置き換える形で、六支社体制でスタートすることになりました。
当初は、総支配人室を支社に置き換えたもので、西部は九州と広島・山口が、関西支社は四国を包括していました、新潟支社も関東支社と一体でしたが、昭和34年にそれぞれ各支社から分離しています。
支社には、支社間での調整をしない列車の設定や、駅の設置・改廃など順次その権限は、支社長に降ろされることとなりました、更に昭和34年には更にいくつかの権限が支社長に委譲されることになりました。
例えば、支社を跨いで走行する特急列車などは本社の権限ですが、支社管内で完結する列車の場合は、支社長の権限で設定できるとされています。
旅客の営業関係などを参照しますと、普通急行以上は本社権限ですが、支社管内で完結する準急列車は支社長権限で設定できることとなりました。
以下にも、旅客関係で支社長に権限が降ろされた代表的なものをいくつか列挙してみたいと思います。
しかし、こうした権限委譲が何されたとしても、その権限委譲は一部に留まり、運賃割引などの重要事項は本社権限とされたことから、十分な権限委譲がされなかったとも言われています。
支社制度は、昭和45年度に廃止されてしまうことに
国鉄の支社制度は、制度自体が肥大化しているとして、昭和45年8月14日廃止されてしまうことになりますが、その理由に関しては、鉄労の国鉄民主化の道では、以下のように記述されています。
支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を、本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2・3年すれば本社勤務になる、と言うようなことでは、支社制度のうま味は発揮できない。運輸調査局理事長の石川達二郎【元国鉄常務理事で昭和50年退職】は「運輸と経済」の58年3月号の「強大組織の克服」という論文の中で、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指揮し運営する管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。
ともありますように、国鉄の本社では、肝心要の予算とか運賃割引などの多くを本社が握ることとなり、結果的に幹部人事も本社での発言となれば、どうしても支社長も本社の意向に沿わせてしまうなど、問題が多かったとされていますが、ここでもう少し踏ん張って、以下のような国鉄査問委員会での意見に関しては、支社単位の方がよりスムーズに話合いも行えたように思います。
国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出
更に、昭和45(1970)年12月21日には、国鉄再建の観点から、国鉄諮問委員会は、「国鉄経営の意見書」をまとめ磯崎総裁に提出しています。
この意見書では、国鉄の財政は、昭和53(1978)年度には、償却前で3000億円を上回る赤字となることから、国鉄の近代化体制を確立して、昭和53年度までに財政の健全性を回復することが目標に掲げられていました。
概要は以下の通りです。
国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21
国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、などとなっている
とあり、ここで書かれていますように、生産性を図るとともに。路線の廃止もしくは移管でスリム化を図りたいとしており。更に、徹底した生産性向上と合理化で、昭和53年度までは新規採用も殆ど行わず、要員規模を約11万人削減するというものであり、国労・動労からしてみれば、合理化による人員削減は当然のことながら容認できるわけでは無く、強く反発することになるのでした。
こうした捩れが、更に生産性運動の反発へと繋がって言った訳です。
続く
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