日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)

動労と生産再運動と言うことを検討する前に、もう少し時代を遡って、動労による機関助士反対闘争についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

動労の行った機関助士反対闘争とはどのようなものだったのか?

動労による機関助士反対闘争は、昭和42年3月に国鉄当局が5万人合理化の一環で打ち出したもので、

国鉄各組合に五万人の合理化案を発表 3/31

国鉄当局、三労組に対し第三次長期計画のための近代化・合理化案を提示。国労動労、「合理化」案に対し断固撤回を求めると抗議声明 3/31

ということで、特に機関車乗務員を多く擁する動労では、EL及びDLにおける機関助士の反対運動を強く打ち出していました。

そして、この運動はた昭和43年9月20日, 「安全問題については,第3者による調査を依頼し, その答申を尊重し、労働条件については協議して きめる」ということで当面の集約が行なわれたと以下のように記されていますが。

当然のことながら、これに対してより有利な条件を引き出したい動労は、一人乗務反対闘争を打ち出し、当局と激しくタイル津することとなります。

 

この運動に関しては、当局側の見解ではどうであったのか?

国有鉄道 昭和43年11月号 EL・DL一人乗務問題では以下のように総括しています。

  • 国鉄ではEC・DCにあっては原則的に一人乗務であり80%が一人乗務となっていること。(タブレットの授受を伴う優等列車の場合などは助士が乗務)
  • 蒸気機関車のように機関車操作と焚火作業と言う業務を分担しているわけではにないこと
  • 機関車も1960年頃からデッドマン装置(EB装置)を整備するなど、一人乗務に対するバックアップが行われていたこと。
  • ATSその他の保安装置も整備されてきていること
  • 外国では既に機関車も一人乗務が進んできていること

等を理由に挙げていました。

以下を引用してみたいと思います。

国鉄における近代動力車の乗務員数問題は,動 力近代化の進展に伴い、すでに昭和34年から労使 間で取り上げられており, EC・DCについては 組合と協定を締結し、約80%が1人乗務となって いる。
いわば,近代動力車の1人乗務問題は,今日ま で10年近い経緯をもっているものであって、突然に昨年提起されたものではないといえる。
もちろん、今回提案した,EL・DLについて も近代動力車という点に変りはなく、本来的に1 人乗務が可能なような車両構造となっている。
すなわち、蒸気機関車が操縦作業と焚火作業と いう異質の2作業があることにより機関士,機関 助士の2人が必要であるのに対し,近代動力車 は、焚火作業の必要性がなく、機関士1人で操縦 できるようになっている。
さらに保安の点からみても、車両設備の近代 化、ATSの完備,信号機など地上設備の整備, 増設などを行ない、安全度の面でも何ら心配ない ようになっている。
ちなみに、1人乗務について外国の例をみてみ ると,欧米鉄道においてはすでに1人乗務が実施 されており、特にスイス連邦鉄道では98%が1人 乗務となっている。このほかイギリス国鉄58%、 (EL・DL), フランス国鉄=EL25%, DL38 %, スウェーデンDL 90%, アメリカ90%(貨物) など逐次1人乗務化が進められており,日本の大 手私鉄をみても、ELはすべて1人乗務となっている。

と書かれているように、国鉄としては、近代動力車の一人乗務を進めたいのですが、その背景には国鉄財政が、4年続きの赤字であること。

その解決のためには合理化を行う必要があるとしていたわけですが、当時の国労動労にしてみれば合理化=人減らし・・・組合員の減少という考え方に凝り固まっていて。

そこに、階級闘争という考え方が入ってくるものですから、合理化を受け入れることは資本家の搾取をさせるものだという考え方に陥っていました。

実際、生産性運動が始まってからの攻撃でもこの辺を常に突いていたことからも窺えるわけですが、少なくとも当時の動労にしてみれば、動力車乗務員を囲い込んでおきたいという思いは人一倍強かったと思われます。(機関車乗務員が全員動労と言うことはなく、電車運転士などは国労も多く、もちろん鉄労も居たわけで、完全な職能別と言うわけではなかった点は注目していただきたいと思います。

国鉄は、昭和42年度の決算発表した時、組合に対しても合理化方針を提示、その1週間後には国労動労は、機械化・近代化に反対して闘争を行うという方針を発表しています。

昭和43年 年表 出典:国鉄があった時代

昭和42年度決算発表 8/16

42年度決算を4年続きの赤字で 繰越欠損金1,477億円、長期負債1兆6,435億円と発表

中略

国労動労ダイヤ改正 反合理化闘争方針発表 8/22

労・動労は、22日、10月ダイヤ改正と、機械化・近代化に反対して闘争を行なう方針を発表

国労・動労、ダイヤ改正 反合理化闘争方針発表 8/22

国労動労ダイヤ改正 反合理化闘争方針発表 8/22

これに対して、国労動労は上記のように反対闘争を打ち出します。

更に。動労社会党を通じて、反対運動を展開していくこととなります。

以下は、当時の議事録を参照したものからの引用ですが、こうした質問は動労からの意向を受けて行われたものでした。

該当部分だけを抜粋してみたいと思います。

第57回国会 衆議院 社会労働委員会 第2号 昭和42年12月14日

 

○後藤委員 前略
 さらに機関車乗務員の、機関助士を廃止してしまおう。これもことしの初めに動労のほうには説明があったそうでございますが、来年の四月ごろからやるという説明が、一月一日から実施をしたいというふうなことで、そういうふうなやり方自体が今日のこういう事態を起こしておる原因ではないだろうか。聞くところによりますと、両組合におきましても、合理化問題につきまして反対はいたしておるけれども、この問題についてはこうだ、この問題についてはこうだといって、きちっと整理をしておるそうでございます。何でもかんでも、とにかくまっこうから反対なんだという態度ではないと私見ております。ただ、これらの問題を、労働組合と管理者側のあなた方のほうと、十分な話し合いもせずに、来年四月にやると言っていたものを一月に繰り上げて実行しようとしたり、あるいはいままで団体交渉もやらずに一片の説明だけで終わってしまって、すぐ合理化の実行に移してしまおう、こういうふうな無理な持っていき方をされたところに今次のようなこういうかっこうが生まれたのではないだろうか、こういうように私は考えておる次第でございます。
中略、人間は感情の動物でありますから、どうもこじらかす原因がそこらにあるのではないだろうかというふうに私は考えるような次第でございます。この点についてどうお考えになるか、ひとつお答えをいただきたいと思います。

 

後藤委員(後藤俊男)とは、日本社会党の議員  国鉄職員です。

参考:衆議院議事録 *1

 

同じく、参議院議員の議事録も参照してみたいと思います。

○稲葉誠一君 私は、日本社会党を代表しまして、今日、国民が最も不安に思い、明らかにしてほしいと考えていることを、率直にお尋ねいたします。

中略
  第三は、国民生活に関しての問題であります。国民生活は不安で一ぱいであります。物価はさっぱり下がらないし、その上、合理化攻撃が労働者に加えられております。物価については、さきに質問がありましたけれども、一体、上がることをいいと考えているのか、悪いと考えているのか、やむを得ないと考えているのか、アメリカなどでは一、二%くらいであるのに、なぜ日本だけこんなに上がるのですか。政府は、本年度どういう抑制策をやるのか。勇断をもってやると言いながら、さっぱりやらないではありませんか。自由主義経済では本来、物価の抑制というような問題に対しても限界があるのですか。中小企業は三月危機におびえております。大企業は栄えても、それが中小企業に回ってくるころには、不況がきて、しわ寄せがくるのですからたまりません。もちろん三公庫の四半期ごとの融資も一~三月はふやすと言っておりまするけれども、それだけでは足りないのでありまするから、四十三年度予算の事実上の先食いをしてまでこれを救済すべきではないでしょうか。
 国鉄の五万人の合理化問題は、基幹産業という名のもとに、独占資本の特別運賃輸送や赤字線区の建設、借金をさせての膨大な工事計画などで採算の合わない政策を押しつけるために、労働者の犠牲による合理化を徹底してやろうとしてこの案が作成されました。輸送力は四十六年には二百五十万キロに達するわけですから、増員こそ必要なのに、このような提案は、首切り、労働条件の低下を招き、安全輸送に影響を及ぼすものではないか。したがって、撤回すべきものと考えるのでありまするが、どうですか。機関助士の廃止は合理化以前の暴挙であり、保安を全く無視しているのではありませんか。検修新体制にしても、経費節約の美名のもとに各地方間の競争と職場の締めつけ、要員の圧縮が行なわれます。このようにした結果、事故が起きたら一体どうするのですか。その責任を総理大臣や運輸大臣、あなた方が負うのですか。国鉄の赤字問題は、国家がどの程度協力するかにかかっているわけです。造船には百二十五億の利子補給をし、国鉄に五十四億とは非常におかしい、増額すべきではないでしょうか。国鉄運賃や私鉄運賃の値上げは国民生活に非常に大きな圧迫を加えておりまするので、運賃、定期とも値上げを差し控えるべきではないですか。特に私鉄が巨額の利潤をあげておりながら、これに便乗をして定期代の値上げをはかるというのは許せません。所見を承りたいのであります。運輸省汚職が多過ぎます。綱紀粛正の措置と運輸行政の今後のあり方についてのお考えをお聞きいたします。
 以下。略

稲葉誠一日本社会党議員で、検事・弁護士から社会党代議士になっています。

参考:参議院議事録 *2

なお、全文は、別途blogに抜粋して貼付しておきますのでそちらをご覧ください。

全文はこちらを参照してください。

jnr-era.blogspot.com

jnr-era.blogspot.com

このように、動労は総評を通じ、日本社会党からも機関助士反対闘争を行ったとされています。その辺は、国鉄動力車 順法闘争と労働運動では、以下のように記述されています。

一方、国会においても社会党を中心に、社会労働・運動各委員会で運輸省国鉄当局に対する追及が行われたのであるが、世論操作の担い手であるマスコミは、助士廃止を"果たして安全か"という方向でキャンペーンをはったのである。

 それは、国会における社会党の追及などが"二つの目より四つの目”"安全確保こそ国鉄輸送の最大使命"という観点に立ち、もっぱら助士は医師が危険だという論拠をしめしたこともあって、輸送の安全確保という観点から助士廃止をとらえ、国鉄当局は科学的に"安全性"を立証するべきだという論調を連日のように掲載した。

参考資料:国鉄動力車 順法闘争と労働運動 *3

 

思わず、長くなってしまいましたので、機関助士廃止反対闘争のところで終わってしまいましたので、機関助士反対闘争に関してもう少し続けさせていただきます。m(_ _)m

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

*1:第57回国会 衆議院 社会労働委員会 第2号 昭和42年12月14日

*2:第58回国会 参議院 本会議 第3号 昭和43年1月31日

*3:松崎明 谷恭介 共著 三一新書

生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に

久々に更新させていただこうと思います。

生産性運動に対して有効打を打てないままの国労にあって、国労はこの後動労と一緒に反撃に出るわけですが、ここで少しだけ寄り道して、当時の組合を取り巻く事情を考慮してみたいと思います。

生産性運動への反対は青年による突き上げが大きかった

有効打を打てないままずるずると追い詰められていった国労ですが、ここで少しだけ当時の動労の様子も見ていきたいと思います。

この頃の国労動労も生産性運動に対する有効な打開策は見つかっておらず、国鉄当局自身が生産星運動は経営哲学であるとして、ここまで進めた以上当局もおいそれと看板は下ろさないであろうと、その反面、国労動労も理念だけの反対であり、

組合側は 「特効薬はない ,反撃あるのみ」といって ,反対闘争を展開する。これでは一体どういうことになるだろうか。目下のところ,泥沼闘争化するだろう 、という予想しかつかないわけである。

労働評論家有賀宗吉氏は手厳しく述べています。

f:id:whitecat_kat:20220414235251j:plain

国有鉄道1971年10月号

その後のスト権ストなどでも、共闘する動労ですが、この当時の動労はかなり厳しい状況に追い込まれていたようです。

元々、機関助士反対闘争で多くの処分を出してきたこともあり、そこに来て生産性運動による脱退、鉄労への加入もあって、国労内でも動労を再び統合すべき時期に来ているのではないかという風潮がありました。

動労はかなり厳しい組織運営を迫られることに

元々、機関車労組として出発した動労昭和32年に改名)では、元々は穏健派の同志会(後に労運研)と呼ばれるグループが中心で、結成当初は本社運転局が後援したとも言われたが、この頃には反主流派である左派の「政策研究会(政研派)」が徐々に力をつけて行くとともに、政研派の影響を強く受けた反戦青年委員会を中心とするグループが生産性運動反対の急先鋒になっていったわけで、これは国労も同じく、青年部による行動が大きかったと言えます。

この頃の動労は、反戦青年委員会の力が強く(これは国労も同じですが、国労は彼らを封じ込める方向に動いたのに対して、動労は政策研究会(政研派)がむしろ擁護に動いたこともあり、後に鬼も動労と言われるような過激な運動に向かうこととなりました。(反戦青年委員会の中には、動労ではその急先鋒と言えたのが、当時、動労東京地方本部書記長であった松崎明(本人は、1963年に国鉄を解雇されており移行は専従組合員)であり動労は更に過激な集団へと進んでいくことになります。

そんな中で、動労自身は比較的穏健であった同志会(後の労運研)は徐々に追いやられていくこととなります。
そこで再び視点論点を参照しますと、国労動労に対して下記のような発言をしています。

現在の動労について、組織の危機というような点がささやかれ,国労の運動方針には、「動労に対しては、近い将来恒常的な共闘態勢の発展の中から、組織の統ーをはかるよう 、ねばり強く呼びかける」と書かれてお り、両労組の合併も時間の問題ではないか、と見ている 人もいる位 だ。動労の幹部の心のうちには,祝賀気分にひた
ってばかりはいられない、きびしい何ものかがあったと思う。

これに対して動労はコメントを発表していませんが、鉄労も同様に新組合員獲得に動いており、動労としてはかなり厳しい状況に置かれていたことは間違いないかと思われます。

鉄労は以下のように鉄労大会で発言

ここで当時の鉄労はどのように生産性運動を捉え、また行動していたのかというと、鉄労も新規組合員獲得に向けて、下記のよう運動方針であったとしています。

ここでは、国労権利闘争史から引用してみたいと思います。

鉄労の第4回・第5回全国大会での組織拡大・強化策は、当時の国鉄の実情を理解するのに欠かせないものといえる。まず、鉄労は、国労組織について、「この1年間に2万5000名減少し、71年6月1日現在24万台に凋落し・・・全施労*1の結成、大量処分発表」などにより「大きな動揺と混乱が続き、ますますその混迷を深めており、10万台への落ち込みは時間の問題」であると分析した。動労もこの間「5000名の脱退で5万を割り、崩壊寸前の様相を深めて」きたと評された。そして、このような組織情勢のもとで、「勢いの乗ってきた私たちの組織が10万から15万への躍進のチャンスを掴むことによって、国労に追いつき、追い抜き、主力組合に躍進する組織展望が10万達成を足がかりとして切り開かれた」とその自信のほどを示した。

とあるように、国労動労にとっては逆風であった生産性運動は鉄労に取っては追い風となっていたことは間違いないと思われます。

動労における派閥とは、労運研、政研派、中立【共産党を含む】の3派が鼎立、反戦青年委員会が政研派と接近することで動労は過激な方向に

動労における派閥とは

その反面、動労国労からも、鉄労からも草刈り場のようにされていしまった背景には、いずれ祖検証していく必要はありますが、動労が行った機関助士反対闘争でした。

機関助・・・蒸気機関車時代は必須で、開業当初は火夫(Fireman)後に「釜焚き」等とも呼ばれましたが、この存在は必要不可欠でしたが、動力近代化で無煙化されると、信号確認やタブレットの授受などが主な仕事であり、特に電化区間では自動信号化されている場合ほとんど信号確認だけと言うことになり、その処遇をどうするかという問題がありました。
そこで、合理化の一環で機関助士廃止が当局から提案されるものの機関助士の廃止は組合員の減少に直結するとして、長期の反対運動を展開、その中で解雇者を出すなどして行ったことから、組合を脱退するものも多く、機関助士反対闘争自身は、動労は敗北することとなります。

 

参考:機関助士反対闘争に関する記事

whitecat-kat.hatenablog.com

機関助士反対闘争中に起こした、米軍燃料輸送列車事故
【二つの目より四つの目】と言って反対してきたが・・・四つの目が事故を起こしてしまったわけで、その根拠はと問われることに。

ameblo.jp

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

 

*1:保線区を中心に分裂した組合で、一時期は保線区の大半が移籍すると思われたが、国労の介入で一部のみに留まることに

生産性運動導入から、中止まで 第二十九話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から 第2回

国労視点から見た、生産性運動

国労は当初は軽く見ていた生産性運動ですが、その動きは燎原の火のごとく広がりを見せ、毎月減少していく組合韻を目の当たりにして強い危機感を覚えるのですが、これといった有効打を打ち出せずにいました、そもそも国労では、生産性運動そのものについては、以下のように捉えていました。

国労から見た、生産性運動は

  • 鉄労組合員の育成
  • ストライキを行わせない組織の構築
  • 分会組織の分断、並びに弱体化

にあると考えていました。

実際、当時の鉄労では一〇万人加入を目標に行動しており、当時の職員数は四〇万人ほどいましたので、一〇万人を達成すればかなりの力を持つことになるわけで、鉄労としてもこれは達成したい、逆に言えば子黒にしてみればなんとしても阻止したかった現実でした。

国労は周知宣伝活動を図るが

そこで、国労は、多額の広告宣伝費を使って、ここが変だよ労働運動と言ったチラシなどを作成して国鉄当局を激しく批判することとなるのですが、こうした取り組みは最初はあまり上手くいきませんでした。

生産性運動 国労チラシ

生産性運動①

生産性運動 国労チラシ

生産性運動②

上記の2枚の画像は、国鉄マルセイ闘争資料集に収録されているチラシであり、実際は色刷りだったようで、当局が発行していた生産性ニュース下図参照は、モノクロで、現場の声を届けるとして、見かけよりも質を重視した内容でした。

職員局の能力開発課が発行した、生産性ニュース、モノクロガリ版刷であった

生産性ニュース創刊号

この時期、生産性教育を受けた国労動労の組合員はこぞって職場での生産性運動と言うことで新たな取り組みを始めて行くことになります。

また、これに伴いストばかりする国労動労から自らの意思で鉄労に加入する人も出てくるのですが、ここで現場の助役の中には、国労動労を脱退させて鉄労に加盟させることが労働運動であると勘違いしたり、結果的に自主的な時間外労働(いわゆる無償の時間外労働)を強要させる傾向があると現場でも報告されることとなりました。

生産性運動は、国労・動労の組合員の減少を招き鉄労組合員画像化することとなった

生産性運動は、国労動労の組合員の減少を招き鉄労組合員画像化することとなった。

生産性運動が首切りに繋がるのではないかという不安

生産性運動は、一人あたりの生産性を向上させると言うことで積極的な合理化が行われることを意味するわけで、それは結果的には作業人員の削減を伴うわけです。
民間企業であれば関連事業やグループ企業への出向・転籍もありますが、国鉄では関連事業の展開なども民業圧迫の名の下、自由に振る舞えず。
結果的には雇用不安を引き起こすのではないかということを組合は懸念することとなりました。

その辺の当時の事情を「大野光基著、国鉄を売った官僚たち」から引用させていただこうと思います。

事の始まりは、生産性運動による合理化で余剰人員が出たときにどうするのか?、配転で応じるとした当局の対応に、配転はいやだとごねるものあり、そのうち配転は受け入れるべきだという意見も出る中で、今度は余剰人員=整理解雇になるのではないかという意見が出てきて、これに対して当時の本社、能力開発課長が「首切りはしない」と宣言するも中々納得してもらえなかったため、総裁談話として掲載してもらうことにしたのでした。それが以下の記述になります。

「配転には応じるべきだ」

と言う意見が出たので、しばらくは若者たちの討議にまかせた。

次に、首切りするのじゃないか、と聞いたものがある。私は、

「首切りは絶対にしない」

と言った。

「課長がしないと言っても、総裁がしないかどうか分からないじゃないか」

と言う、

中略

若者たちの言う通りだ。生産性運動が究極的に首切りになることは、何としても阻止しなければならないと私は考えた。まず、真鍋常務に話した。

「そうか」

と少し考え込んでいたが、数日後、

「それもそうだな」

と了解してくれた。磯崎総裁には真鍋から了解を取ってもらった。しかし、口頭了解だけでは安心できないので文書に残すことを考えた。

中略

三坂職員管理室長の応援もあって、次のような文章となって「鉄道広報」に掲載された。

国鉄職員としての使命を自覚し、企業を愛し、再建に努力する職員の雇用安定には全力をつくす」

引用終わり

長くなってしまったのですが、究極の生産性運動は人減らしを行わざるを得なくなることを指摘したわけですが、これに対して東京側では、国鉄職員としての使命を自覚し、企業を愛し、再建に努力する職員の雇用安定には全力をつくす」と言う総裁談話を引き出すこととなりました。

このように、当局としても生産性運動に対する不安を払拭するための努力は行われたのですが、結果的には、前述のように生産性運動が無償時間外労働を強要することとなり、本来の生産性運動という概念から離れていく事例も見受けられました。

結成当時から生産性運動を提唱してきた鉄労もこうした事態に関しては批判をしているのですが、国労はこれを機会に不当労働行為告発メモとして、個々に団体交渉を行うのですが、中々有効だとはなり得ませんでした。

その背景には、国労動労理論武装は、階級闘争の再確認であり、以前にも書きましたが、管理者以上は資本階級であるという誤った認識(管理職は経営陣ではないことは当然のことなのですが、資本階級VS労働者という構図を作り社会的分断を図っていました。)により、国労は組合員の引き留めを図ろうとしますが、まだまだ十分とは言えませんでした。

そして、国労が取ったもう一つの行動はマスコミを味方の付けることでした。

現在のようにインターネットが普及していない時代、多くの人々はテレビ・ラジオ・新聞等を通じて情報を得るわけですが、とりわけ新聞の効果は大きく、国労はマスコミを通じて反マル生運動に取り組んで行くのでした。

生産性運動、不当労働行為告発調査団歓迎の垂れ幕を掲げる国労組合員

不当労働行為告発メモ

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

生産性運動導入から、中止まで 第二十八話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から

今回は、国労編纂のより、国鉄労働組合四〇年史を参照しながら、生産性運動に関しての国労の言い分を見ていきたいと思います。

生産性運動と深刻な国労離れ

生産性運動は、職員の意識改革を図るものということで、国労動労から脱退して鉄労に加盟する組合員も増えていきました。

これに対して、つなぎ止めるための方策を練るわけですが、妙案は有りませんでした。

また、国労自身は、1970年の秋頃まではさほど重要視はしていなかったと自ら告白しています。

むしろ、国労本部には、「反合理化闘争」と「スト権奪還闘争」に主眼が置かれていたと言われています。

国鉄労働組合四〇年史では以下のように記されています。

運動の軸は、組織力の着実な前進を基礎に、「反合闘争」と念願の「スト権奪還闘争」に置かれていた。このため、「マル生」運動に対し、「非人道的、人権無視の行為・・・国労に対する全面的な組織破壊の挑戦」で有るとの認識は、未だ明確ではなかった。

とありますように、国労本部の認識は、生産性運動はさほど重要視されていなかったとされています。

この方針が変更され、本部が本腰を入れ始めたのは、1970年の11月から12月にかけて国労動労)から鉄労への大量脱退が認められたからでした。
こうした脱退が地本単位で、報告されていました。
これに関しては、以前の組織攻撃とは規模においても手段においても異なっているとしています。【国労側の見解】
そこで、改めて国労本部でも生産性運動に関して本腰を入れることとなり、1971年1月、正月返上で対策が練られることとなりました。

国労が取った手段は,「国鉄一家意識」の払拭

国労からの大量脱退を目の当たりにして、国労が取った手段は国鉄一家意識(後藤新平が語った言葉とされており、従業員は駅長を父として、助役を母と慕い,あたかも家族の如く友愛を持って業務に当たるべしとしたもので、国鉄の中における家族主義と言えるものでした)の払拭を呼びかけ、階級意識 *1による労働組合運動を継続すべきであるとしていました。

その辺を再び、国鉄労働組合四〇年史に求めてみますと、以下のような記述を見ることが出来ます。

「階級的組合運動」は階級意識とは国鉄再建の「障害物」であるとされ、「全面否定の攻撃」がかけられているさなか、その対象者である一人ひとりの組合員と国労組織が、なにをもってすれば反撃に転じうるか、なんと言ってもそれは仲間と組織に対する熱い期待と信頼以外にはない。それを確認した右の意思統一は、その後の「マル生」闘争の質を基礎づけた。

としています。

ここで、改めて階級闘争とは何か?

簡単に振り返っておきたいと思います。

階級闘争とは、プロレタリアート(労働者階級はブルジョア階級に搾取されているという考え方)が根底にあり、国鉄労働者の場合は、助役以上の役職者をブルジョア階級と位置づけ、彼らに自信の労働力は搾取されていると言う考え方)となります。

実際には、国鉄は独立採算制を求められているとは言え、政府の機関であり、賃金決定権も最終的には政府に握られている以上、役職者が資本家階級にはなり得ないことは十分判っているのですが、それを明確化すると組合運動自体が成り立たなくなるので、その辺を曖昧模糊として、何となく助役や駅長などが資本家階級の手先であると言って、分断工作を図ってきた訳です。

f:id:whitecat_kat:20220130145636j:plain

国労による職場からの告発運動

国労は、職場での告発運動を展開することとなり、現場からの告発メモを元に交渉の材料としていました。

職員一人ひとりが現認メモ(摘発メモ帳)と書かれた小さなノートを所持して、その都度不当労働行為と認められものを告発するというものです。
助役以上の役職者による組合を変われという発言などは不当労働行為となるのですが、そうした事実があるとしてその都度確認するとし、当局との間で、

  1. 不当労働行為の疑いを持たれるようなことは、今後やらないよう十分指導、徹底する
  2. 局の過員し大して、組合所属の差別的扱いはしない
  3. 鉄労への加入慫慂(しょうよう)などは組織介入であり、やれるものでもないし、やらない

と言った確認が管理局単位で組合との間で行われたようです、国労のとしては、現場管理者レベルでは、こうした確認事項が守られず、相変わらず所属による差別的扱い等が行われていたという証言もあり、実際に露骨な鉄労への加入慫慂までは無かったとしても、全く無かったと言い切れないのではないかと思います。

組合による昇進差別的扱いについても、私が郵政局に勤務していた1990年頃でも、全逓組合員と全郵政組合員ではその扱いに差が【係長は現場管理者経験者ですが、郵政局では組合員になれるわけで、全郵政資格美愛員は居ませんでした、必然的に全逓の組合員は現場に一度出ると郵政局に帰ってこれないと言われたりしたものでした。】ありましたので、1971年当時の国鉄では、更に露骨な対処がなされていた可能性は否定できません。
もっとも、国労の資料だけでもちろん判断するわけではありませんし、鉄労だけの資料で同じく判断するわけではなく、総合的に判断するようにしています。

結果的に、こうした確認事項があったとしても、決定的な事項がないことから、不当労働行為があったのか、無かったのかは、言ったいわないの水掛け論となっていくのでした。

その後、マスコミによる現場でのオフレコ発言が録音されて、如何にも不当労働行為を助長しているような発言した助役がいたとしてそれが問題視されることになるのですが、その辺は改めて次回にアップしたいと思います。

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

*1:組合が言う階級意識は、マルクス主義による階級闘争を指すものであり、プロレタリアート【労働者階級】によるブルジョア【資本家階級】を打倒すべきであるとしたもの。ただし、現在の新自由主義の誤りは、多くの非正規労働者を生み出すこととなり新たなプロレタリアートを生み出している結果となって居ることにも注目する必要があります。

生産性運動導入から、中止まで 第二十七話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から

はじめに

生産性運動は、赤字経営に陥った国鉄を改善するための方策として導入された再建計画の一環でありました。
生産性を向上させることで、職員一人当たりの生産単価を引き上げることで財政を改善すると言うことは、至極当たり前と言えば当たり前のことなのですが。

昭和40年代頃から国労が取り入れた、職場の中に労働運動を、更には階級闘争と言う概念(管理者以上は資本家階級(ブルジョアジー)であり、組合員は労働者階級(プロレタリアート)であるという概念は、国鉄の大家族主義を分断するにための道具として機能してきたと言えます。

国鉄が導入した生産施運動は生産性本部が関わって教育を開始したときは十分な効果を発揮していったのですが、その後生産性運動を国鉄独自の施策として取り組むようになった頃からその雲行きが怪しくなっていきました。
すなわち、学園での自主的な生産性運動の展開で一気に水平展開を図ろうとしたわけですが、その結果は一部助役が、生産性運動の本来の趣旨を理解せず、生産性運動を組合自身で取り組んで来た、鉄労に加入させることが生産性運動であると短絡的に理解した管理者(助役)が居たこと。

さらに、悪いことに、そうした発言をマスコミに録音されてしまったという問題がありました。

当時普及しだしていたカセットレコーダーに録音されていたようで、国労の運動に賛同する新聞記者によりリークされたものであったと記憶しています。

こうした経緯を経て、国鉄総裁が国会で陳謝することとなり、最終的には生産生運動の方針を見直す為中止(実質的な廃止)に追い込まれるわけですが、その辺の事情などを

国労が編纂した、国鉄マル生闘争資料集等から参照しながら、何回かに分けてアップさせていただこうと思います。

国労が本格的な反撃に出ることに

国労の考え方に基づく生産性運動とは

生産性運動に関しては、日本生産性本部が3原則を提唱していますが

  • 生産性の向上は究極において雇用を増大する
  • 生産性向上のための具体的な方式は、労使協力して研究、協議する
  • 生産性向上の諸成果は、経営者、労働者、消費者に公正に分配される

となっており、生産性運動は単純に人減らしをするものではなく、特に第一項の「

生産性の向上は究極において雇用を増大する」はその後段には、以下のように書かれています。

過渡的な過剰人員については配置転換などで、可能な限り失業を防止する。

とあり、合理化による人員削減という原則は貫かれていないのですが、国労では、生産性運動を以下のように捉えていたようです。

 

  • 生産性の向上は究極において雇用を増大する→今まで以上に業務の近代化、合理化に」努力し生産性の向上に努めなくてはならない。それには、思い切った要員規模の縮減、新規採用者の抑制、配置転換等が必要である
  • 生産性向上のための具体的な方式は、労使協力して研究、協議する→現状に目を向け、労使が協調して生産性を高めていくこと、新しい国鉄を作っていくことを強調している
  • 生産性向上の諸成果は、経営者、労働者、消費者に公正に分配される→国鉄労使に残された大きな課題であり、今後の国鉄職員の給与決定方式を含めて、どうあるべきかは現在のところ具体的には語れないとしており、ベアなどは職員の再建努力次第であるとして、ストライキでは賃金は上がらないと国労動労を牽制した

と有るように、国労としてはあくまでも、闘争による賃金の獲得であり、労使協調という点に関しては、こちらも受け入れられないとするのが基本的な考え方であったことが窺えます。
実際、職場に労働運動をと言うことで、現場協議制を導入させた訳ですから、国労とすればそれを簡単に撤回することは中々できない相談であったと言えましょう。

国労権利闘争史

さらに、国労としては生産性運動が精神運動であるとして、以下のように批判しています。
引用してみたいと思います。
生産性とは、「なによりも精神の状態であり、現存するものの進歩、あるいは普段の改善をめざす精神状態である。それは今日は昨年よりも、よりよくなし売るという確信であり、更に明日は今日にまさるという確信である。」それはまた、「条件の変化に、経済社会生活を普段に適応させていくことであり、新しい技術と新しい方式を応用せんとする不断の努力であり、人間の進歩に対する信念である。」このような「信念」に基づいた「人類の福祉向上」が生産性運動の基本理念である。(『生産性運動研修』日本国有鉄道

と書かれているように、生産性運動をいささか精神論的に捉えているようにも見受けられますし、国労は、当局は「合理化」の居反対し手行くような組合【国労動労自身を指す】組合は障害物として認識し、生産性運動を是認し、合理化を容認する、鉄労は、味方であると書いていることからも判るように、国労にしてみれば、生産性運動云々もありますが、それ以上に反合理化を旗印に掲げ、当局と対抗してきた国労動労にしてみれば、生産性運動を進めようとする鉄労は当局の片棒を担いでいる御用組合だという論理に至っていることが判ります。

マル生運動は神がかりのような儀式と批判

国労は、生産性運動が電灯を消した中で異様な興奮状態を生み出して、職員に対して精神・思想教育が行われたとして激しく批判していますが、実際には国労でも同じようなシチュエーションで、同じような国労の研修を行っており、それはお互い様ではないかと、大野光基氏の著書、「国鉄を売った官僚たち」で痛烈に批判しています。

国労の言い分を再び引用してみたいと思います。

教育を実施する態様は、「目標の神格が最高で、大手に自発的にその目標に対する使命感を抱かせるよう感動的に誘導する」方法がとられた。たとえば、中央鉄道学園では4泊5日の研修が行われたが、伝統を消しローソクの明かりの中で、バックミュージックを静かに流し、"職場に帰って核分裂を起こそう" "オレが間違っていた。赤字国鉄を再建せにゃ”といった熱狂的雰囲気で最後の夜を結んだ(『朝日新聞」71.5.16)このように常軌を逸したやり方で精神・思想教育が行われたのあった。

続く

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

生産性運動導入から、中止まで 第二十六話 支社制度の廃止と国鉄

久々に更新させていただきます。

直接生産性運動とは直接関係が無いのですが、生産性運動前に廃止された支社制度についても触れておきたいと思います。

支社制度とは

支社制度とは、それまでの総支配人制度に代えて、昭和32年1月16日に発足した制度でした、それまでの総支配人制度は、北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていましたが、総支配人には何の権限もなく、いわば中央の連絡役に過ぎませんでした。

当時の国鉄は、総裁と数人の常務理事で方針が決定されるというもので、特に本社ではスト対策等の労務管理に費やす時間が多かったことから、思い切って地域ごとに権限を委譲するというものでした。

その制度は、十河総裁時代に導入されたのですが、支社制度を進言したのは石田禮助が監査委員長をしていた際に、国鉄監査委員として補佐した西野嘉一郎であったそうです。

以下は、国有鉄道 1982年4月号

「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」

には、以下のように書かれていました。引用してみたいと思います。

私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念する ことであった。

とありますように、支社長に大幅な権限を持たせるというもので、これを聞いた石田禮助監査委員長は早速、十河氏に進言、当初は総支配人室を支社に置き換える形で、六支社体制でスタートすることになりました。

支社制度【画像は九支社時代】

支社制度【画像は九支社時代】

当初は、総支配人室を支社に置き換えたもので、西部は九州と広島・山口が、関西支社は四国を包括していました、新潟支社も関東支社と一体でしたが、昭和34年にそれぞれ各支社から分離しています。

 

支社には、支社間での調整をしない列車の設定や、駅の設置・改廃など順次その権限は、支社長に降ろされることとなりました、更に昭和34年には更にいくつかの権限が支社長に委譲されることになりました。

例えば、支社を跨いで走行する特急列車などは本社の権限ですが、支社管内で完結する列車の場合は、支社長の権限で設定できるとされています。

旅客の営業関係などを参照しますと、普通急行以上は本社権限ですが、支社管内で完結する準急列車は支社長権限で設定できることとなりました。
以下にも、旅客関係で支社長に権限が降ろされた代表的なものをいくつか列挙してみたいと思います。

f:id:whitecat_kat:20210916003400j:plain

権限委譲された項目、昭和34年改正

しかし、こうした権限委譲が何されたとしても、その権限委譲は一部に留まり、運賃割引などの重要事項は本社権限とされたことから、十分な権限委譲がされなかったとも言われています。

 

支社制度は、昭和45年度に廃止されてしまうことに

国鉄の支社制度は、制度自体が肥大化しているとして、昭和45年8月14日廃止されてしまうことになりますが、その理由に関しては、鉄労の国鉄民主化の道では、以下のように記述されています。

支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を、本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2・3年すれば本社勤務になる、と言うようなことでは、支社制度のうま味は発揮できない。運輸調査局理事長の石川達二郎【元国鉄常務理事で昭和50年退職】は「運輸と経済」の58年3月号の「強大組織の克服」という論文の中で、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指揮し運営する管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。

ともありますように、国鉄の本社では、肝心要の予算とか運賃割引などの多くを本社が握ることとなり、結果的に幹部人事も本社での発言となれば、どうしても支社長も本社の意向に沿わせてしまうなど、問題が多かったとされていますが、ここでもう少し踏ん張って、以下のような国鉄査問委員会での意見に関しては、支社単位の方がよりスムーズに話合いも行えたように思います。

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出

更に、昭和45(1970)年12月21日には、国鉄再建の観点から、国鉄諮問委員会は、「国鉄経営の意見書」をまとめ磯崎総裁に提出しています。

この意見書では、国鉄の財政は、昭和53(1978)年度には、償却前で3000億円を上回る赤字となることから、国鉄の近代化体制を確立して、昭和53年度までに財政の健全性を回復することが目標に掲げられていました。

概要は以下の通りです。

出典:国鉄があった時代 昭和45年後半

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21

国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、
  1. 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
  2. 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
  3. 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する
などとなっている

とあり、ここで書かれていますように、生産性を図るとともに。路線の廃止もしくは移管でスリム化を図りたいとしており。更に、徹底した生産性向上と合理化で、昭和53年度までは新規採用も殆ど行わず、要員規模を約11万人削減するというものであり、国労動労からしてみれば、合理化による人員削減は当然のことながら容認できるわけでは無く、強く反発することになるのでした。

こうした捩れが、更に生産性運動の反発へと繋がって言った訳です。

代表的な組合の視点と国鉄再建

代表的な組合の視点と国鉄再建

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

生産性運動導入から、中止まで 第二十五話 鉄労視点による生産性運動の意義

鉄労からみた、生産性運動とは

今回は、国鉄民主化への道から見ていこうと思います。

鉄労による生産性運動

国鉄当局が生産性運動の導入を行う前から、鉄労では独自の生産性運動を組織拡大の一環として取り組んでいたそうです。

国鉄内の地域・職域労組の連合体であった、新国労は1968年10月20日に、単一組織化されて、鉄労に改称していますが。

その2年後、昭和44(1969)年春頃から積極的に組織拡大の一環として、生産性運動に取り組むこととし、各地で「国鉄を守る会」「国鉄を再建する会」「国鉄を明るくする会」などが設置され、組織の拡大に努めていました。

その辺を国鉄民主化への道から引用したいと思います。

当局が生産性教育を開始する頃と同じ頃、鉄労も独自の生産性運動教育を開始した。

会場は伊東市の小室山の麓にある伊東ユースホステルを中心に、都内の今は無いが、飯田橋の富士紡会館等を使用、各回約50名を集めて開催された。こうして鉄労も生産性運動に積極的に取り組んだが、決してそれは当局のそれを全面的に認めてのものではなかった(後略)

当局の生産性運動は昭和44年11月24日から東京オリンピック村で開催された、日本生産性本部の研修会に国鉄の中堅機関士が国鉄として初めて参加したものでしたが、正式に国鉄が生産性本部に委託費を払って導入したのは、昭和45(1975)年度でした。

国鉄は昭和39年以来赤字決算を続け、累積欠損金も食い潰しということで、その状況は待ったなしのところに追いやられていましたが、国労は「日本の国鉄はいま、”経営の危機”であっても、国鉄そのものの危機ではない」と国労の運動方針で示したとされています。

国鉄はそのシェアを奪われつつあった

要は、親方日の丸である国鉄は潰れることはないという意味合いで有ったろうと思われます。

その背景には、三井三池闘争の時に向坂逸郎が「会社は潰れても鉱山は残る」とした発想そのものであり、石炭も過激な闘争が自らの職場を追いやったように、国鉄も自らの運動で、国鉄を追いやっていったのは間違いないでしょう。

国内旅客輸送シェア

旅客輸送シェア

国内貨物輸送シェア

貨物輸送シェア

これを見ても判るように、1960年頃と比べると旅客輸送で50%以上占めていたシェアが70年代には40%を割り込んでいます。実際、この頃には、東京対北海道は飛行機のシェアが鉄道を逆転しており、その後も国鉄の運賃値上げの繰り返しなどで、そのシェアは小さくなるばかりでした。
貨物輸送に至っては、1970年代には20%を割り込む状況になります。
国鉄としても物資別輸送の改善などを行おうとしますが、その一方で組合は独占資本に協力的な国鉄当局とか、大企業優先の格安運賃とか言って、貨物輸送をやり玉に挙げることとなります。

国労動労の問題

国労動労は依然として「独占に奉仕する国鉄貨物」という認識で、ストの時には、まず貨物列車からストップさせ手来たことが、荷主の信頼を失っていったわけで、その辺を国鉄民主化の道から再び引用しますと

国労動労は依然として「独占に奉仕する国鉄貨物」という認識で、ストの時には、まず貨物列車からストップさせた。この年の国労動労は「70年安保を目指す行動の年」と「国鉄16万5千人合理化粉砕」をメインスローガンにしていた。

引用終わり

と有るように、国鉄の運動は国鉄が危機でも国鉄は残るという誤った認識であり、この認識は国鉄改革が叫ばれ出した、昭和57年以降も顧みられることはなかったと言えそうです。

 

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************