日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第九話

> 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。  

現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動

当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。

そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなりました。

生産性ニュース マル生運動

生産性ニュースが昭和46年4月25日に創刊号が発行された、国鉄を売った官僚たちから引用

国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

4月25日(創刊号) 蕨駅に生産性運動推進チーム(二〇数人)が誕生した
5月10日号 仙台運転所の生産性推進グループは現在24グループ(511人)である。東京西厚木駅に「国鉄再建同志会」(69人)が4月23日に結成、その補遺か宿河原駅国分寺駅武蔵小杉駅、西国立駅立川駅、原町田駅相模原駅、東飯野駅などでも結成された
東京南局の浜川崎駅、神田駅、品川機関区、蒲田電車区などで結成。旭川局の富良野線助役18人は4月28日に「国鉄を愛する会」を結成。青函局運転部有志53人による「明るく新しい国鉄にする会」が結成された。
中略
 6月10日号 大阪局の姫路車掌区では5月1日に「生産性運動推進チーム」(170人)を結成。
水戸局施設部係長(34人)は「施設部係長会」を結成。東京西局の機関区、電車区、客車区の事務職員(101人)は「運転事務再建会」を結成。同局の四方津駅武蔵新城駅上野原駅三鷹車掌区に「国鉄再建会」誕生。東京南局の根府川駅早川駅で「国鉄再建会」を結成。関東資材部の「再建同志会」の入会者は5月12日現在、302人。東京北局の本局係長(24人)が「係長会」を結成。仙台局の会津高田駅で4月18日に家族による再建会誕生。釧路局の「あかるい国鉄つくる会」(2000人)は昭和46年度総会を開催した。
 6月25日号 静岡局本局に生産性運動チーム誕生、4人を除く全課員が参加。盛岡局の「国鉄再建運動連絡協議会」の代表8名は5月26日に磯崎総裁に誓書を手渡した。天王寺局は「一職場に最低一つの生産性グループ」をモットーに運動を推進中。旭川客貨車区は全職員が生産性教育受講を強く希望。
 7月10日号 北海道追分駅では4月10日に生産性運動追分駅推進本部が会員69人で発足した。


もう少し続くのですが、冗長になっても行けませんのでこの辺で止めておきます。

生産性運動は、管理局の垣根を越えて

生産性運動を推進していくグループのもっとも頭が痛い問題は国労動労の違法ストや順法闘争に見られるサポタージュ対策でしたが、抗して規模が大きくなってくるとやがて、十分な国労動労に対するいわゆる抵抗勢力として成長していきました。
いわゆる、前述のマル生グループの誕生でした。

こうした中で、こうした生産性運動はやがて燎原の火のごとく、管理局を越えてブロックへ更には全国的な運動へと広がっていきました。
7月29日には、田沢湖高原に盛岡、秋田。仙台の東北三局の生産性運動リーダー43名が集まり、生産性合同討議集会が開催され、「国鉄再建の原動力は東北から」というスローガンの元、2泊3日の最終日に決議文が採択され、全国集会の呼びかけの中心になることが誓われたそうです

もちろん、こうした生産性運動に対して批判的であった国労動労は批判活動を行うのですがそれが、前述の国労新聞などでの批判などでした。
さて、個々で注目すべき事は、前述の生産性合同討議集会もですが、こうした運動は全て自主参加であり、開催の費用などもカンパと参加者の手弁当で行われたことでした。
しかし、抗したことに対して危機感を持った国労動労はその後本格的な反抗を行うこととなり、潤沢な活動資金を使ってマスコミなどへの工作などを行うことになるのでした。

国鉄幹部は生産性運動には無関心

こうして、国鉄の生産性運動は現場で過熱気味と言えるほど盛り上がるなか、国鉄本社でも、昭和46年の経営計画の中に、生産性運動の理念を織り込むことが理事会で決定され、鉄道管理局長、本社局長クラスを対象にした研修が、5月24日(第1回)、6月8日(第2回)に分けて3泊4日の開催されたそうです。
現場の管理局長は極めてその関心も高く、「もっと勉強したい」、「組合と対決する」と言った声が殆どであり。現場を預かるものとして、危機感を感じていたのだと思うのですが、本社はどこ吹く風といった風情であったようです。
実際、場管理局長がほぼ全員参加したのに対して、本社局長は1名のみの参加という状況が、それを如実に物語っています。
その辺の事情を再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用させていただきます。

 四月六日に昭和四十六年度経営計画が理事会で決定されたが、その中に新しい経営理念として、次のように生産性運動の理念が盛り込まれた。
 「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」
 この頃から、国鉄の生産性教育日本生産性本部の委託教育の域を脱して、国鉄の経営と一体の教育=運動に成長しようとしていた。
 第一回本社局長および鉄道管理局長研修が五月二十四日から、同じく第二回が六月八日から三泊四日の日程で開かれた。生産性研修は管理局長に対しても、強い自己反省の機会となった。「組合側に闘争をやらないでくれと当局は頼んでいた」「組合の前に当局は妥協に妥協を重ねてきた」「私自身じくじたるものがある。もっと勉強したい」というような発言が相つぎ、「もはや組合とは対決しかない」というのが、ほとんどの局長の結論であった。
 しかし、この本社局長および鉄道管理局長研修の参加状況は、管理局長は東京南鉄道管理局長の原田種達ほか数人が欠席しただけだったが、本社局長の参加は僅か一人にすぎなかった。自主参加とはいえ、いかに本社局長クラスは無関心であったかが分かるというものだ。

ということで、本社の生産性運動に関する関心はこの程度で有ったと言うことが窺えます。
冷静なのではなく、自分たちには関係がないという事であったかと思います。
これが、昭和50年以降の国鉄再建計画(再建のための再建計画ではなく、再建計画のための再建計画、再建が上手くいかなくても再建計画と言う計画を書いたので誰も責任を問われないという、そんな事態が続くことになります。

 

 blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************