日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一〇話

引き続き、生産性運動運動時代のお話をさせていただこうと思います。
生産性運動に関しては、改めて「国鉄を売った官僚たち」、並びに「国鉄民主化への道」から見ていこうと思います。

生産性運動は、現場管理者に十分理解されていたのか?

この時期、国鉄本社としては生産性運動を国鉄の柱にしたいとして、本社各部局に生産性運動の推進を依頼していました。
ただし、鉄労が指摘するように、一部現場管理者が生産性運動を正しく理解せず、誤った生産性運動を行っているという声も有ったことも事実であったと指摘しなくてはなりません。
これが後に、国鉄当局の不当労働行為だと突っ込まれる余地を作ってしまったといえそうです。
改めて、複数の視点から調べていかないと、誤った判断をしてしまうため、十分な検証が必要です。

 

国鉄本社では、能力開発課長が中心となって、昭和46年3月から4月にかけて本社内各局を回り、生産性運動の推進を根回ししたことで、新しい経営理念の中に生産性運動の文言を入れることに成功します。
これにより、生産性運動は労使一体となって取り組むべき問題であるとして、取り組まれることが国鉄全社的に取り組むことになったと言えます。

国鉄を売った官僚たちから、その辺を引用させていただこうと思います。

「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」

引用終わり

生産性運動の提案は鉄労だった?

なお、生産性運動は国鉄本社主導というイメージが強いのですが、鉄労の運動史を参照しますと、生産性運動の考え方は元々鉄労が以前から提唱してきたものであるとしています、その反面、生産性運動が十分管理者などで理解されず、超過勤務の強制や、分担業務以外の強要といった形でねじ曲げられた運動も見受けられるとして警鐘を鳴らしています。

その辺を「鉄労友愛会議著 国鉄民主化への道」から少し長いですが、全文引用したいと思います。

鉄労は2月22日、3日の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論はほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。
鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄当局も国鉄再建ということで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性運動の理念で、すでに生産性教育をやっていると言っていた。中略、私たちは経営者が生産性教育を実施するのは当然のことだと思いますし、わが国の有識者の手によって、昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやくとりあげたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。それだけに、国鉄当局が進めている生産性教育が、効果的で正しく普及することを期待するものでありますが、現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている事実が、随所に現れつつあります。

国鉄の生産性運動は、粗製濫造?と指摘されていた事実

国鉄の生産性運動は、短期間に燎原の火のように広がっていった背景には、良くも悪くも国鉄職員の純粋性にあったと言えるのではないかと考えてしまいます。
すなわち、国鉄職員の真面目さが扇動されやすいもしくは、染まりやすいと言う性格を生んだと言えるのです。

姉妹ブログで鉄労視点の記事も書いていますが、新潟闘争の時は、組合幹部の指令一下、一斉に業務をボイコットした職員がいました。

その後、新潟闘争の行き過ぎと言う反省から、国労新潟の非現業職員を中心にした組合員が国労を脱退し、新たに国鉄新潟地方労働組合を結成しています。
この話には後日談があって、その後雪崩を打つように現業職員の間でも国労を脱退して国鉄新潟地方労働組合に加入する人が増えたそうです。

良識ある現業職員は国労を脱退して、新組合に加入

下記の記事は、国鉄部内紙の記事から引用したものですが、現業機関である新潟駅(それまでは、国労の革同派(国鉄労働組合革新同志会)*1が強かったと書かれていますが、新潟地本自体が革同の拠点職場として国労本部でも認識しており、新潟闘争は国労新潟地本と国労本部のイニシアティブ争いという視点からも見ることができると言えそうです。

結果的には、地本の暴走を止めるために、本部預かりとしたものの、国労としては大量の解雇者を出すとともに、民同右派を中心とした勢力が国労を脱退するきっかけを作った訳で、機関車労組に次ぐ分裂劇となりました。(仮に、国労全電通全国電気通信労働組合)のように分裂していなければ、その後の国鉄の姿も変わってきたであろうし、民営化関連もまた違った側面を見せていたかもしれません。

実際に、国労から第二組合(国鉄新潟地方労働組合)に駅員が加入する人が増えたという記事を、国鉄線昭和33年9月号、「新潟地区の実態を聞くと」言う座談会の記録から引用してみたいと思います。

豊島
うちの組合は革同に支配されていて、一にもこにも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年7月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常K批判的になって来たのです。げま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は30分から
6時聞にもよりました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、それが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を趨超えています。私の駅でも55%から60%近くがこの批判組合に入っています。(豊島氏は新潟駅駅長)

国鉄線昭和33年9月座談会の記事から抜粋

国鉄線昭和33年9月座談会の記事から抜粋

ここで書かれていますが、新潟地本全体で20%程度の職員が、国鉄新潟地方労働組合に加入(新潟駅では、半数以上が加入)したとされています。

今回は、生産性運動の話というよりも、鉄労の前身、国鉄新潟地方労働組合の話が中心となってしまいましたが、良くも悪くも純粋な職員が国鉄を支え、生産性運動の時にも同様に、現場を支えたのはこうした純粋な人たちであったわけです。

その反面、国鉄本社の幹部連は残念ながら理念は作ったものの、それはそれ、これはこれということで、積極的に取り組むという姿勢を示すことはありませんでした。

その辺は、改めて次回書かせていただきます。

 

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*1:共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しないグループで、極めて共産党に近いこともあり過激な運動が行われていた