日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一八話

鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。

本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。

はじめに

今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。

ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。

なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、その提言をおこなったのは、当時国鉄監査委員を務めていた、西野嘉一郎氏で有り、氏が国鉄監査委員長を務めていた石田礼助氏(十河総裁の後任総裁)に提案して、それが実現したそうですが、石田氏が退任後、磯崎総裁は支社制度を廃止してしまいます。

磯崎氏と言うよりも国鉄幹部の考え方が、中央集権的な考え方に凝り固まっていた事が原因とは思われますが、いわゆる大企業病に侵されていたと言うべきかもしれません。

当時の支社制度導入に関しては、国鉄部内誌、国有鉄道1982年4月号 「初代監査委員長故石田礼助氏の信念に思う」で、以下のように書かれていますので引用したいと思います。

国鉄再建の途は分権化よりほかないと考え石田委員長に進言した。
当時の国鉄は北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていたが、総支配人には何の権限もなくすべて中央集権であった
何十万人かの職員を有する大国鉄を1人の総裁と数人の常務理事で運営することは至難のわざである。とくにそのころの中央幹部の仕事はスト対策等労務管理に大部分の時間が費やされていたのである。
私の提言は総支配人制度を廃止して各ブロックを支社制度にし、支社長を常務理事としてそのブロック経営の責任と権限のすべてを支社長に委譲、本社は統括管理と将来の計画立案に専念することであった。

中略

君のいう支社制度の案は大変よい。早速十i河さんにいって実施しようではないか。」ということで,この制度はただちに実施されたのである。

 

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国有鉄道昭和57年4月号からキャプチャ

支社制度の廃止がもたらす本社の問題

国鉄当局が全国的に生産性運動を広めようとしていたとき、当局では昭和32年4月に発足した、支社制度を廃止して、本社→管理局という昔ながらの中央集権制度に改めることになりました。

支社制度は、全国を9支社(発足当初は6支社)を設置、本社権限を大幅に降ろした地方分権制度にすることで意思決定の迅速化などを目指したものでした。

支社制度とはどのようなものであったのか、以下に概要を示してみたいと思います。

  • 従来の本社直轄組織でとして地方6カ所に駐在して居た、総支配人制度を廃止し、新たに地方機関として全国に6支社を設置する。
  • 地方機関である支社には、本社の権限を大幅に降ろすことになる。
  • 経営単位として支社に権限を与え、管理局毎の収入目標などをもし者において責任を持たせる
  • これにより、本社から支社に以下のように権限が降ろされることとなりました。
  1. 現場機関・職場の設廃(ただし、旅客車が利用する駅の設置は従来通り本社権限、引き続き仮乗降場は支社権限)
  2. 連絡運輸に関する事(私鉄との連絡運輸は支社長の権限とする(共同使用駅の使用料や、他社との連絡運輸による乗入れ等の承認
  3. 急行券・特別2等車、寝台券の割り当て枚数の決定
  4. 旅客運賃・料金の後払い承認を支社内相互発着の場合は支社長権限とした
  • 輸送関係では、準急・快速列車以上は本社権限は引き続き変わらないが、他支社に影響を及ぼさない普通列車及び貨物列車は支社権限とするほか。臨時列車についても準急以上の優等列車は不可だが、普通列車などは支社権限で実施できる
  • 他支社に影響を及ぼさない、準急・快速列車の指定
  • 他にも人事関係なども支社に権限が降ろされ、管内の課長以下の転勤、賞罰等の権限が支社に降ろされる

など、これでもかなり端折った内容ですが、従来のお飾り的であった、総支配人制度と異なり、支社長にかなりの権限が降ろされることになりました。

こうした権限を大きく下ろした支社制度でしたが、

昭和45年8月20日は、支社制度が廃止されてしまい、総局、輸送計画室が新設されることになります。これにより四国は総局に移行、九州・北海道支社も管理局機能を統合した総局に改組されました。

当初は、九州・四国は西部支社に、新潟は関東支社でした 支社制度発足

支社制度発足

支社制度は何故廃止されたのか?

その原因を支社幹部の人事権を本社が握っていたことが原因ではないかと指摘しています。

その辺を、「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

支社制度がなぜ成功しなかったか。一番の理由は、支社幹部の人事権を,本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2.3年すれば本社勤務になる、というようなことでは、支社制度のうま味ははっきできない。運輸調査局理事長の石川達二郎(元国鉄常務理事で昭和50年退職)は『運輸と経済』の58年3月号に「巨大組織の克服」という論文の中で、支社制度が廃止されたことについて、「本社権限を委譲しきれなかったこと」「支社別管理格差が開いてきたこと」「地域経済力の成長格差」などを上げ、特に「分権的管理が機能するもしないも、それを指導し運営管理する経営管理者の資質が決め手だ」と指摘していた。

ここで書かれているように、国鉄本社の権限を支社に中々下ろそうとしなかったと書かれていますが、実際に権限を下ろしたとは言え、かなり末節な部分が多く、重要な所は本社で持っていたことも事実でありましたが、その背景にはもう一つは、それだけの分権するための胆力が総裁になかったと言えそうです。

少なくとも、本来であればさらに権限を本社から移していって、本社が調整機能を持たせるだけとなっていたならば、場合によっては中国支社と四国支社の統合といった形で、比較的自由に動けたのではないかと思いますが、旧態依然とした中央集権体制に戻してしまったことは、本社内の空気は,生産性運動などの改革、興味がなかったと言えるのではないでしょうか。

その辺は、さらに磯崎氏の行動などを詳細に調べてみる必要がありそうです。

支社制度廃止と、国鉄諮問委員会らの提言

昭和45年12月21日は、国鉄諮問委員会から、「国鉄経営についての意見書」が提出され、新規採用者の抑制や地方宇ローカル線の廃止もしくは、地域への委譲が提言されていました。

以下は、弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。

国鉄諮問委員会「国鉄の経営をいかにすべきか」について意見書提出 12/21

国鉄財政再建策を審議していた日本国有鉄道諮問委員会は今後の国鉄のあり方について意見書をまとめ磯崎国鉄総裁に提出
それによると247線、約2万1000kmの全路線を幹線系線区と地方交通線に2分し、

  1. 幹線系67線区、1万1200knlは自主運営
  2. 残りの地方交通線180線区、1万1200kmは地方公共団体などの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する
  3. 地方交通線の赤字は国や地方自治体が負担する

などとなっている

 さらに、国鉄の赤字を圧縮するために、「徹底した生産性向上に努めて昭和53年度までは新規採用を殆ど行わず、要員規模を11万人縮減して人件費を抑える」としていましたが、それでも45万人の職員は、当時の輸送量からしても過剰と言えるものであったと言えます。

しかし、合理化を進めることは、当然のことながら国労動労を強く刺激することとなり、生産性運動の反対は、反合理化闘争と絡めて大きな運動となっていくのでした。

 

続く

 

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生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

久々に更新になります。

今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。

今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

生産性運動と鉄労

鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。

昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。

その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論は、ほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。

 鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄再建と言うことで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。

当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性の理念で、既に生産性教育をやっている。と言っていた。

と有りますように、鉄労としては、昭和37年の新国労時代から生産性運動に取り組んできたと言うことを主張しています。

元々生産性運動は、昭和30年には確立した理論で有り、当時から国鉄当局も取り組もうとしましたが、導入することが出来ないまま、組合との対立が続き、国鉄を取り巻く環境は更に悪化したわけです。

その中で、当局もやっと生産性運動を取り入れたと主張しているわけです。

実際に、新国労発足当初から雇用安定協約を率先して締結するなど、国労動労が、どちらかというと、力で権利を奪い取ろうと考えていたのに対し、主張すべきところは主張するが、よりよい条件を引き出して妥結するという意識が見え隠れしています。そうした意味では、どんどん左傾化していく動労や、国労とは常に一線を画する組合でありました。(動労左傾化については、改めてどこかのタイミングで取り上げたいと思います)

当局の実施する生産性運動を遅きに失したと発言

そして、鉄労は現在当局が進めている生産性運動に対しては一定の評価をしつつ、遅きに失したとして、下記のように批判しています。

再び引用してみたいと思います。

昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやく取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。・・・中略・・・現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている

 この指摘は、非常に重要です。

当局の生産性運動自体が変節してしまっている、もしくは中間管理職と言われる人たちに正しく伝わっていないことを示しています。

実際、生産性運動も当初は、日本生産性本部に委託する形で行われていましたが、途中から国鉄当局自身で行う生産背運動も増えており、結果的に劣化コピーの生産性運動を生んでしまったように見えます。

そこで、鉄労としては、自らが正しい生産性運動の理論を身につけるべきだと主張しています。

そして、生産性運動が進められていた頃、国労動労を脱退して、鉄労に加盟する組合員が増えており、当時は8万5千人に達していました。

国労、生産性運動反対を確認

国労は、2月24日・25日に広島の尾道で中央委員会が開催されたそうですが、生産性運動に関しては当然のことながら反対という事で、生産性運動に関連して、鉄道学園での教育。昇給・昇格・昇職に差別的扱いの報告がなされ、総括として、「的の国家権力を背景とした攻撃に対して、組織の総力をあげるため、どう団結を図っていくかにある。・・・中略・・・全員が討議に参加する方法に改めたい」とし。

国労としては、マルクス階級闘争を組合員に浸透させていく事を強調していました。

なお、動労もそうですが、反戦青年委員会*1が参加して、盛んにヤジを飛ばすなど議事の進行を邪魔するのですが、国労は、反戦青年委員会を排除する方向に動いていたの対し、動労はむしろ育成に努めているところが有り、やがて鬼の動労と呼ばれる萌芽がこの頃からでていたと言えそうです。

動労も生産性運動反対を確認

動労中央委員会は、3月5日・6日、千葉県茂原市の日立労働会館で開催されました。

成田空港建設反対闘争が厳しい時期で有り、三里塚では、2月下旬から機動隊と国際空港建設反対同盟が衝突するなど緊迫した事態となりました。

動労でも生産性運動に対し質問等が投げ出されてくるのですが、ここでもこうした反対の急先鋒は、反戦青年委員会のメンバーが中心でした。

動労では、マル生運動とは言わず、生運研(生産性運動研究会?)と呼ばれており、彼らが中心になって運動が進められていました。

この頃の、動労反戦青年委員会を育成の方向を目指しており、国労とも反目することも多く、国労が彼らを押さえ込もうとしていた事と対照的な動きが見られました。

職場での報告としては、「生運研参加者を除名せよ」とか生産性運動参加者を村八分的にしていると言った報告もあったそうです。

このように動労も、国労も生マル生運動に対して批判的では有ったものの、どのように取り組んでいくかという点にあっては、未だに答えが出せない状況であったのも事実でした。

国労は、鉄労がマル生運動を利用していると批判

鉄労視点ばかりではなく、国労側の視点ということで、国鉄労働組合四〇年史から再び引用したいと思います。

国労としては、生産性運動は鉄労の育成であると位置づけ、下記のように記しています。

そして鉄労は、総裁の提起した労務管理政策が、生産性向上運動の名のもとに管理局から現場に向かって浸透しはじめたとき、「生産性運動ーーそれは鉄労の躍進につながる。組合結成以来、絶好の好機が到来した」として、積極的にその性格に追随したのであった。まず、はじめの役割分担は現場管理者の手足となって、「マル生」グループの結成とその育成に努めることであった。そのことが、国労動労の切り崩し、鉄労の組織化育大につながる。

と書かれています。

鉄労は、結成当初から提唱していた生産性運動を当局が導入したと言い、国労は、鉄労が当局と結託したとしています。

もっとも、組合に限らず組織が拡大を図るのは自明の理で有り、まして複数の組合に一人の職員が加盟できない以上、いわゆる組合員の拡大はどこかが増えれば、どこかが減少するゼロサムゲームのようなものですから、仕方が無いことでしょう。

ただ、個人的な見解を述べさせていただければ、国労動労もこの時点では、生産性運動ではなく、国労ではマルクス階級闘争を浸透させることが大事であるとして、また動労は更に左傾化して。反戦青年委員会等のメンバーが中心となった活動をしており、どこまでも対立するという視点だけで進めているのは、後付けの知恵で考えると、大事な時点で引き返すべき時に引き返せなかったのではないかと思ってしまうわけです。

実際、国鉄貨物が壊滅的に減っていくのは、この1970年頃からで有り、経済が発展しているにも関わらず、国鉄の貨物輸送だけが当初予測を覆して一人負けしていく背景には、国鉄の度重なるストライキの結果で有り、高速道などの開通も相まって、そのシェアはどんどん落としていくことになるのですが、その辺は国労動労も気づいていなかったように思われます。

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今回参考にした、国鉄民主化の道並びに、国鉄労働組合史40年史

 

続く

 

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*1:ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会

生産性運動導入から、中止まで 第九話

> 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。  

現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動

当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。

そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなりました。

生産性ニュース マル生運動

生産性ニュースが昭和46年4月25日に創刊号が発行された、国鉄を売った官僚たちから引用

国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

4月25日(創刊号) 蕨駅に生産性運動推進チーム(二〇数人)が誕生した
5月10日号 仙台運転所の生産性推進グループは現在24グループ(511人)である。東京西厚木駅に「国鉄再建同志会」(69人)が4月23日に結成、その補遺か宿河原駅国分寺駅武蔵小杉駅、西国立駅立川駅、原町田駅相模原駅、東飯野駅などでも結成された
東京南局の浜川崎駅、神田駅、品川機関区、蒲田電車区などで結成。旭川局の富良野線助役18人は4月28日に「国鉄を愛する会」を結成。青函局運転部有志53人による「明るく新しい国鉄にする会」が結成された。
中略
 6月10日号 大阪局の姫路車掌区では5月1日に「生産性運動推進チーム」(170人)を結成。
水戸局施設部係長(34人)は「施設部係長会」を結成。東京西局の機関区、電車区、客車区の事務職員(101人)は「運転事務再建会」を結成。同局の四方津駅武蔵新城駅上野原駅三鷹車掌区に「国鉄再建会」誕生。東京南局の根府川駅早川駅で「国鉄再建会」を結成。関東資材部の「再建同志会」の入会者は5月12日現在、302人。東京北局の本局係長(24人)が「係長会」を結成。仙台局の会津高田駅で4月18日に家族による再建会誕生。釧路局の「あかるい国鉄つくる会」(2000人)は昭和46年度総会を開催した。
 6月25日号 静岡局本局に生産性運動チーム誕生、4人を除く全課員が参加。盛岡局の「国鉄再建運動連絡協議会」の代表8名は5月26日に磯崎総裁に誓書を手渡した。天王寺局は「一職場に最低一つの生産性グループ」をモットーに運動を推進中。旭川客貨車区は全職員が生産性教育受講を強く希望。
 7月10日号 北海道追分駅では4月10日に生産性運動追分駅推進本部が会員69人で発足した。


もう少し続くのですが、冗長になっても行けませんのでこの辺で止めておきます。

生産性運動は、管理局の垣根を越えて

生産性運動を推進していくグループのもっとも頭が痛い問題は国労動労の違法ストや順法闘争に見られるサポタージュ対策でしたが、抗して規模が大きくなってくるとやがて、十分な国労動労に対するいわゆる抵抗勢力として成長していきました。
いわゆる、前述のマル生グループの誕生でした。

こうした中で、こうした生産性運動はやがて燎原の火のごとく、管理局を越えてブロックへ更には全国的な運動へと広がっていきました。
7月29日には、田沢湖高原に盛岡、秋田。仙台の東北三局の生産性運動リーダー43名が集まり、生産性合同討議集会が開催され、「国鉄再建の原動力は東北から」というスローガンの元、2泊3日の最終日に決議文が採択され、全国集会の呼びかけの中心になることが誓われたそうです

もちろん、こうした生産性運動に対して批判的であった国労動労は批判活動を行うのですがそれが、前述の国労新聞などでの批判などでした。
さて、個々で注目すべき事は、前述の生産性合同討議集会もですが、こうした運動は全て自主参加であり、開催の費用などもカンパと参加者の手弁当で行われたことでした。
しかし、抗したことに対して危機感を持った国労動労はその後本格的な反抗を行うこととなり、潤沢な活動資金を使ってマスコミなどへの工作などを行うことになるのでした。

国鉄幹部は生産性運動には無関心

こうして、国鉄の生産性運動は現場で過熱気味と言えるほど盛り上がるなか、国鉄本社でも、昭和46年の経営計画の中に、生産性運動の理念を織り込むことが理事会で決定され、鉄道管理局長、本社局長クラスを対象にした研修が、5月24日(第1回)、6月8日(第2回)に分けて3泊4日の開催されたそうです。
現場の管理局長は極めてその関心も高く、「もっと勉強したい」、「組合と対決する」と言った声が殆どであり。現場を預かるものとして、危機感を感じていたのだと思うのですが、本社はどこ吹く風といった風情であったようです。
実際、場管理局長がほぼ全員参加したのに対して、本社局長は1名のみの参加という状況が、それを如実に物語っています。
その辺の事情を再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用させていただきます。

 四月六日に昭和四十六年度経営計画が理事会で決定されたが、その中に新しい経営理念として、次のように生産性運動の理念が盛り込まれた。
 「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展および職員の福祉向上につながる唯一の道でもある」
 この頃から、国鉄の生産性教育日本生産性本部の委託教育の域を脱して、国鉄の経営と一体の教育=運動に成長しようとしていた。
 第一回本社局長および鉄道管理局長研修が五月二十四日から、同じく第二回が六月八日から三泊四日の日程で開かれた。生産性研修は管理局長に対しても、強い自己反省の機会となった。「組合側に闘争をやらないでくれと当局は頼んでいた」「組合の前に当局は妥協に妥協を重ねてきた」「私自身じくじたるものがある。もっと勉強したい」というような発言が相つぎ、「もはや組合とは対決しかない」というのが、ほとんどの局長の結論であった。
 しかし、この本社局長および鉄道管理局長研修の参加状況は、管理局長は東京南鉄道管理局長の原田種達ほか数人が欠席しただけだったが、本社局長の参加は僅か一人にすぎなかった。自主参加とはいえ、いかに本社局長クラスは無関心であったかが分かるというものだ。

ということで、本社の生産性運動に関する関心はこの程度で有ったと言うことが窺えます。
冷静なのではなく、自分たちには関係がないという事であったかと思います。
これが、昭和50年以降の国鉄再建計画(再建のための再建計画ではなく、再建計画のための再建計画、再建が上手くいかなくても再建計画と言う計画を書いたので誰も責任を問われないという、そんな事態が続くことになります。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第八話

本日も、生産性運動導入から、中止までの第八話として。お話を進めさせていただこうと思います。

参照しているのは、「国鉄を売った官僚達たち」、鉄労編纂の「国鉄民主化への道」などを参照しながら。書かせてもらっていきます。

マル生運動の成果?スト破りする国労動労組合員

生産性運動は、職員の意識改革が大きかったようで、国労動労に所属したまま、スト破り(ストライキに参加しないこと)を行う組合員もいたそうで、生産性運動を受講して、自らの意識として、国労の運動について行けないと感じる組合員が一定数いたと言うことになります。
実際、昭和46年5月20日には首都圏でストライキが行われ、旅客列車だけで2,624本の電車が運休しますが、首都圏全体では実に60%の電車が国労動労のストにも関わらず動いたと言われています。

弊サイト、国鉄があった時代を参照しますと下記のように記されています。

国電スト 5/20

調停作業は徹夜で続けられ、20日早朝、峯村調停委員長によって、8%+2,300円の案が提示されたが、労働側の反対で調停は不調となり、仲裁裁定へと移行することとなった
一方、両組合は20日午前0時を期して全日ストに突入し、19時の中止命令までに、東京の国電を始め、中部、関西、東北の各地で、旅客計2,624本、貨物計1,724本、客貨合計4,348本の運休を含め、ダイヤの大騒な乱れを生じた

鉄労+マル生運動グループが運転を確保

その理由は、鉄労組合員の働きと。職制(管理者)による運転が行われたこともありますが、スト指令を受けながらもスト破り(ストライキに参加しない動労国労の組合員)があった事実も注目しておく必要がありそうです。

このように、マル生運動では不当労働行為が行われて、鉄労に加盟させることを職分としたした助役がいたとか、当局が組織ぐるみで不当労働行為をさせたと言った記事をよく見かけますが、実際はこのように違っていたと言うことにも注目していただきたいと思います。

さらに、国鉄職員が組合を変わるのは自由意志であるため、生産性運動が始まる前後くらいから自発的に、組合を変わる人が増えていったそうで、その後生産性運動により、その動きが加速したわけです。

国労が、マル生グループが(電車を)運転しているんだと指摘

実際、マル生資料集のなかでの座談会で、国労中央執行部の幹部は、下記のように回想しています。

あの時は、電車が動いたからね。だからオレは東京地本に文句を言って「おまえらストライキでも電車動かすのか」と言ったら「動かすんでなく動いているんだ」(笑声)「動いているんなら、止まるまでストライキだ」と言ったことがあるけどね。職制とマル生グループが動かしておったですからね。

ということで、鉄労とは言わず、「マル生グループ」と言う点に注目してください。
すなわち、国労動労でも、生産性教育を受けた組合員がスト破りをしたことを暗に認めていたと言えそうです。

更にこれを裏付ける話としては、東京三局の発表によると、東京北局で41%、東京西局で56%、東京南局が43%、東京三局併せて約五三〇〇〇人のうち、実に45%にあたる約25000人がストライキ反対の意思表示をしたと発表しています。

国鉄民主化への道」からその部分を引用してみたいと思います。

 当局三局の各総務部長が記者会見して「北局が18,925人中41%、西局が12,706人中56%、南局が22,140人中43%、3局合わせて53,771人のうち、45%にあたる24,292人がスト反対の意思表示をした」と発表した。このうち、鉄労組合員6,500人を除くと、国労37%、動労17%がスト反対の意思表示と言うことになる。

となっています。
少し話は前後するのですが、上述のように、国労から徐々に鉄労への移籍が進んで行くのですが、国労も組合員が減少していくことをただ指をくわえてみていただけではありませんでした。

反論に躍起となる国労執行部

昭和46年1月から機関紙の「国労新聞」には、「クタバレ生産性運動」(後に、「ウソだよ生産性運動」に改題)を連載、生産性運動自体を潰そうと考えたようです。

少しその例を挙げてみますと、下記のようなものがあったようです。

「生産性運動とは?一に洗脳。二に盲従、三,四で搾られ、五で追われ」とか

「赤く咲くのはけしの花、白く咲くのはゆりの花」と歌った漫画(宇多田ヒカルの母親、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」と言う歌をもじったというか、そのまま流用したもので、赤く咲く=労働者、白く咲く=資本階級(ここでは当局)であるとして、労働者階級はどこまでも搾取されるだけと言ういわゆる階級闘争を訴えたかったものいえます。

実際に、50代後半の方であれば、この曲を直接耳にしたことがある方も多いのではないかと思いますが、非常に暗くどちらかというと人生終わった・・・的な雰囲気を感じさせる歌でした。
まぁ、ネットで「人生オワッタ」・・・的に書くような感じではなく、本当に悲壮というか、明日すらないというイメージで歌われていたものでした。
その辺を上手く、取り込んで、国労は、資本家(当局)は、我々労働者階級はただただ搾取されるだけの存在であるという刷り込みを図っていたようです。

当局自らも賃金も運賃値上げも決定できないわけで、資本家でも何でも無いのですが、国労の執行部としては、当局は資本家の手先であるとしないと、具合が悪かったのでしょう。

実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。

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生産性運動導入から、中止まで 第七話

今回も、生産性運動に関して、今回も大野氏の本を底本として、私なりの解説などを加えさせていただこうと思います。

生産性運動は、現場の若手を中心に盛り上がりを見せ、鶯谷駅における朝ラッシュ時、鴬の声を流すのは、当時の駅員からのアイデァであるとされており、そのきっかけは、生産性運動であったことは、前回書かせていただきました。

生産性運動は、国鉄の中で浸透
そんな風に、国鉄の現場では、それこそ熱狂的とも言えそうです。

① 自主的勉強会
② 生産性掲示板や生産性大看板の掲出
③ 生産性職場報の自主発行
④ 生産性推進チームの結成
⑤ 違法ストへの不参加・反対運動など
⑥ その他具体的な実践活動

等に分類できると書かれており、実際に自主的勉強会は、いわゆる「カイゼン」活動であり、現場ならではの工夫などが披瀝されたそうです。

少しだけ引用してみたいと思います。

引用ここから

勉強会の一つである池袋電車区の模様を、昭和46年1月28日付の「交通新聞」は次のように書いている。
「仕事の終わった時間を見計らって勉強会が始まるのだが、三階の講習室に集まってくるのは油だらけのナッパ服の検修掛や制服の胸にまだ「運転士」の名札を付けたままの乗務員などだ。
討論が始まると室内はたちまち熱気をおびてくる、『パンタグラフの除雪方法』 『電車の折り返し時のドアスイッチの取扱方』 『増収対策としての車内広告』など、さすが現場だけに細かい具体的なテーマが多いが、いずれも事故防止、営業開発など債権の柱とも言うべき大きな問題ばかりである」


引用終わり

生産性運動推進グループが誕生
また、生産性運動推進グループが全国各地で誕生したそうです。
私の父親が勤務していました、天鉄局でも、多くの生産瀬運動拠点が誕生したようで、生産性ニュース8月25日号には、下記のように書かれていました。
鳳保線区に「大鳥会」が誕生、他にも「8月2日に生産性運動和歌山連絡協議会」が誕生、さらに、亀山客貨車区、熊取駅、串本、紀伊勝浦連区に生産性グループが誕生、天王寺駅では、7月31日に生産性大会を開催した・・・
他には、釧路局の上士幌保線支区に「しゃくなげ会」釧路保線区に「いちい会」が誕生、門司局の本局に「明門会」【会員1000人】が7月17日に、門司港駅に「みなと会」が誕生した。・・・というふうに全国的に多くのこうしたチームが誕生しました。

こうした生産性活動は徐々に広がりを見せ始めました、その中でももっとも頭を痛めていたのは、国労動労の違法スト及び順法闘争と言われたサポタージュに対する対策であり、また国労動労は組織として、生産性運動の批判を行ったわけですが、結果的には、生産性研修を受けた推進チームはやがて国労動労に対する抵抗勢力として、育っていくこととなり、その流れは最早、地区・管理局・地域ブロックと言った枠を越えて広まりつつありましたが、こうした推進チームの活動費は全て手弁当であり、また活動費も資金カンパによる細々としたものであり、労働組合からの潤沢な資金がある、国労動労の反撃には抵抗すべく術もありませんでした。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第六話

前回は、「管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。」
と言うことだったのですが、実際の生産性運動の実践効果はいかほどのものであったのか、再び「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきたいと思います。

生産性運動の実践効果として
① 自主勉強会
② 生産性掲示
③ 生産性職場情報の発行
④ そのほかの具体的実践活動
⑤ 生産性推進チーム(国鉄再建会)の結成
⑥ 違法スト反対・不参加行動
等に分類できます。

そして、生産性運動の中から、具体的な実践運動になった例の一つに鶯谷駅で、朝のラッシュ時にウグイスの声を流しているようですが、これも実は生産性運動の中から生まれたアイデアであったそうです。

その辺を、「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきます。

引用ここから

その各地の職場情報の中から生産性運動が具体的にどのような実践活動となって現れていったかを紹介してみましょう。
「生産性教育を受けた一職員のアイデアでした。鶯谷駅では、ラッシュに放送でがなり立てるより、いっそのこと、鶯の鳴き声の録音テープを流そうと言うことになりました」


引用ここまで

他にも、郡山ヤードの保線支区の支区長が貨車ヤードを眺めていますと、駅の人たちが草取りをしている、本来は草取りは駅職員の仕事なのですが、これを保線区で行うことで、駅職員には営業活動をしてもらってはどうかと言うことを発言したところ、職員も賛成してくれて、ヤード内の草取りは保線区が行うことになった・・・・等々、非常に良好な関係が構築されたと書いています。
このように着実にその成果を上げていく生産性運動は、昭和45年度監査報告書では下記のように高く評価されていました。

特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行われたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつあります。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。

また、監査報告書では、生産性運動を行っている反面で、違法ストライキなどにより、未だ争議行為が続いているとして、国鉄財政再建に労使一体となって取り組んでいるとは言えないとして、下記のように記述しています。

昭和45年度においては、 近代化、合理化の諸問題の解決が比較的順調に行われ、 実質的には、 労使の歩み寄りに前進がみられたものとしえましょう。しかしながら、 一部においては依然として争議行為等が行われ、 国民の目からは、 労使が一体となって国鉄財政再建に取り組んでいるとはいい難い現状である。



国鉄監査報告書 昭和45年

また、国鉄当局、特に本社などでも、幹部クラスは生産性運動に懐疑的というか、現状維持を図りたいグループがあったようで、秘書課長や文書課長、労働課長といった、最上席課長が、生産性運動の青年職員意見発表会に欠席するなど精彩を欠き、むしろ国鉄の最高幹部層の生産性運動に関する考え方がどのようなものであったのかを物語っていると言えそうです。
そして、こうした、守旧派的な考え方は、国鉄改革時の時にも見えるわけですが、変わることを拒むということは、時には時代に大きな過ちを犯すことになります。

次回は、幹部クラスの非協力と組合の反撃という点でお話をしたいと思います。

 

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生産性運動導入から、中止まで 第五話

>国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。
しばし開けてしまいましたが、久々に投稿させていただきます。
今回も、「国鉄を売った官僚たち」大野光基氏の本を参照しながら当時の生産性運動を振り返ってみたいと思います

全国行脚を始めた、大野労働課長

生産性運動を導入した、能力開発課長の大野氏は、自らも昭和45年6月頃から中央鉄道学園で週3回程度講演していたそうで、「生産性運動を広めよう」というタイトルで繰り返していたそうです、さらに、7月からは全国に生産性運動の概念を知ってもらうために、全国行脚を始めたとそうです。
そこで、多くの現場の人に話をする訳ですが、上意下達に慣れている人が多く、生産性運動そのものを理解していない人も少なからずいたそうで、「生産性運動も、国鉄再建も自分のこととして考えてください」という話をするらしいのですが、講演会の直後に、「自分には関係ない」とか、「結局、何を講師は言いたかったのだろう」と言った「生産性運動の理念」を理解していない人が多くて困ったと回想しています。
そのような人もいる反面、わずか3時間の講演で自らに落とし込んで行動に起こす人も少なからずおり、そうした人に出会うことを期待して全国に遊説に出かけたそうです。

局長以下全員が感激した金鉄局の講演

金沢では、生産性運動に感激した職員が早速、局長に決心を述べに言ったとか、看板を掲げたという話が出てきますので、少しその部分を引用してみたいと思います。

引用ここから

『能力開発情報』第九八号は金沢管理局での後援会の模様を次のように書いている。
「大野・丸山両氏が講演したとき、500名になんなんとする聴講者の半数の両眼は光っていた。局長も男泣きしました。そして翌日、糸魚川、青海、親不知の各駅長はあまりにも嬉しくて(こんな話は就職以来初めて聞くすごい話と)局長のこところに『わしがやらにや誰がやるんだ』と決心を述べにいきました。また、糸魚川運輸長は、この講演の翌日『糸魚川運輸長室』の看板の横に同じ大きさで『生産性運動糸魚川支部』の看板を掲げました」

引用終わり

という風に、生産性運動は徐々に広がりつつあり、金沢管理局管内のように話が進みやすい職場もありました。
また、昭和45年11月14日に鉄道管理局能力開発課に配置となった青年課員の会議が本社で行われ、そこに磯崎総裁がサプライズ出演したそうで、ここにも当時の総裁の意気込みが見えそうです。
青年課員に対して、「諸君が新しい国鉄の管理組織を作るのであり、新しい労使関係の起爆剤になってくれ」と発言しています。
ということで、管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。

 

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