日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第五話

>国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。
しばし開けてしまいましたが、久々に投稿させていただきます。
今回も、「国鉄を売った官僚たち」大野光基氏の本を参照しながら当時の生産性運動を振り返ってみたいと思います

全国行脚を始めた、大野労働課長

生産性運動を導入した、能力開発課長の大野氏は、自らも昭和45年6月頃から中央鉄道学園で週3回程度講演していたそうで、「生産性運動を広めよう」というタイトルで繰り返していたそうです、さらに、7月からは全国に生産性運動の概念を知ってもらうために、全国行脚を始めたとそうです。
そこで、多くの現場の人に話をする訳ですが、上意下達に慣れている人が多く、生産性運動そのものを理解していない人も少なからずいたそうで、「生産性運動も、国鉄再建も自分のこととして考えてください」という話をするらしいのですが、講演会の直後に、「自分には関係ない」とか、「結局、何を講師は言いたかったのだろう」と言った「生産性運動の理念」を理解していない人が多くて困ったと回想しています。
そのような人もいる反面、わずか3時間の講演で自らに落とし込んで行動に起こす人も少なからずおり、そうした人に出会うことを期待して全国に遊説に出かけたそうです。

局長以下全員が感激した金鉄局の講演

金沢では、生産性運動に感激した職員が早速、局長に決心を述べに言ったとか、看板を掲げたという話が出てきますので、少しその部分を引用してみたいと思います。

引用ここから

『能力開発情報』第九八号は金沢管理局での後援会の模様を次のように書いている。
「大野・丸山両氏が講演したとき、500名になんなんとする聴講者の半数の両眼は光っていた。局長も男泣きしました。そして翌日、糸魚川、青海、親不知の各駅長はあまりにも嬉しくて(こんな話は就職以来初めて聞くすごい話と)局長のこところに『わしがやらにや誰がやるんだ』と決心を述べにいきました。また、糸魚川運輸長は、この講演の翌日『糸魚川運輸長室』の看板の横に同じ大きさで『生産性運動糸魚川支部』の看板を掲げました」

引用終わり

という風に、生産性運動は徐々に広がりつつあり、金沢管理局管内のように話が進みやすい職場もありました。
また、昭和45年11月14日に鉄道管理局能力開発課に配置となった青年課員の会議が本社で行われ、そこに磯崎総裁がサプライズ出演したそうで、ここにも当時の総裁の意気込みが見えそうです。
青年課員に対して、「諸君が新しい国鉄の管理組織を作るのであり、新しい労使関係の起爆剤になってくれ」と発言しています。
ということで、管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。

 

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