日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

マル生運動は何時から始まったのか?

生産性運動は、昭和45年3月国鉄本社内で議論され、3月24日に常務会で最終決定がなされ、3月25日に日本生産性本部に文書で3箇年計画書と共に送付されましたので、3月24日を国鉄生産性運動のスタートとみることが出来ます。

なお、生産性運動というと不当労働行為の象徴のように言われたり、国鉄の負の部分だとする意見も多いのですが、生産性運動の基本的な考え方はむしろ、労働者を守る事に主眼がおかれたものでした。

その辺は誤解が多い、というか「生産性運動=不当労働行為」から入る論調が多いためであり、「国鉄を売った官僚たち」 大野光基氏の著書を見ますと、元々の生産性運動の概念は、フィラデルフィア宣言をよりどころにしていると書かれています。

当該部分を引用したいと思います。

生産性運動の基本的な考え方は、国際労働機構(ILO)の宣言をよりどころにしている。
ILOは、1944年4月アメリカのフィラデルフィアで総会を開き、有名なフィラデルフィア宣言を採択したが、その冒頭で「労働は商品ではない」と言うことを謳っている。
当時、労働力は市場において一般の商品と同じように、需要供給によって値段がつけられ売買さえるものだと思われていた。
これに対して、ILOは労働力とは人間そのものであり、人間が売買される商品ではあり得ないことを世界に向かって宣言したのである。この意義は極めて大きい・・・・以下は省略

さて、ここでフィラデルフィア宣言都はどのようなものであったのか、その全文の一部を抜粋したいと思います。


国際労働機関の目的に関する宣言

フィラデルフィア宣言)

 国際労働機関の総会は、その第26回会期としてフィラデルフィアに会合し、1944年5月10日、国際労働機関の目的及び加盟国の政策の基調をなすべき原則に関するこの宣言をここに採択する。

 1 総会は、この機関の基礎となっている根本原則、特に次のことを再確認する。
  (a) 労働は、商品ではない。
  (b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
  (c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
  (d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。

2~5は省略



余談ですが、戦前の日本にも、労働=商品であると言う意識が根強くあり、戦前の野田醤油争議などもありましたが、ことごとく資本家階級に圧殺され、プロレタリア文学に見られるような、労働=商品と言った考え方がありました。
マル生運動から大きく脱線してしまったので、再びマル生運動の話に戻りたいと思います。

この導入までには、かなり生産性本部との間で国鉄当局側の意向と生産性本部の考え方が異なっていたのですが、当時の真鍋職員局長の英断で生産性運動は、昭和45年4月から正式に開始されることになりました。
前回の内容と一部被りますが、前回の内容の詳細と言うことで見ていただければと思います。

この辺の事情を、再び、「国鉄を売った官僚たち」から引用したいと思います。

深沢の言った次の一言は、、胸を突き刺すほどの衝撃だった。
国鉄には哲学がない。国鉄の職場に充満しているのは組合の理念ばかりだ」 
 そして深沢は、四年前から企業単位の生産性研修を始めたこと、アメリカから教育訓練の技法が輸入されたが、いずれも行き詰まり、理念教育がいろいろな企業で行われるようになったことなどの話をした。
 私は早速、このことを真鍋職員局長に報告し、真鍋を入れて三人でもう一度話し合うことにした。
 昭和四十四年九月中旬に深沢は、労働部職員一人をつれて職員局長室に現れた。
 「国鉄の教育を引き受けるについては三つの条件がある。一つは卜。プが不動の信念を持つこと、第二は少なくとも三泊四日が必要なこと、第三は鉄道施設(例えば中央鉄道学園)以外で教育を行うこと、以上の三つは絶対の条件である」と彼は力説した。
 私と真鍋の事前打ち合わせは、中央鉄道学園教育の中に数時間、場合によっては一日程度、生
性教育を挿入しようということだったが、深沢は、
 「それでは絶対に引き受けられない」
 と言って、帰ってしまった。
 私は真鍋に、
「あんな難かしいことを言うのならやめましょう」
 と言った。ところが真鍋は、
「いや、やろう」
と、はっきり言い切った。
 国鉄再建のために生産性教育を導入する方向が次第に固まっていったのは、深沢と会ったのち、しばらくしてからである。それにしても、一体どういう教育なのか、私自身にもまだ見当がつかなかった。私は他社の教育を見学させてくれと頼んだが、社員教育に見知らぬ人が入ってくるのは困る、ということで断わられてしまった。
 そこで、テストケースとして昭和四十四年十一月十九日から三泊四日の運転指導者研修(第一回)を実施した。次ページの図表のようなカリキュラムで東京・代々木のオリンピック記念青少年総合センターで実施された。
 対象は動力車区の助役および指導機関士とし、一回に約四十人ずつ、十二月二十日までに計五回、百九十七人について行われた。



ここで出てくる、深沢という人物は、日本生産性本部労働部長・深沢敏郎氏です。

なお、この生産性教育前に試験的に行われたのが前回に書かせていただいた

「テストケースとして,昭和44年11月19日22日の4日間で運転指導者研修カリキュラムが行われました。」という話になるわけです。

併せてこちらもご覧ください。

国鉄労働組合史詳細解説 34-1



国鉄労働組合史詳細解説 34-2


併せてご覧いただければ、より理解が深まると思います。
更に、より深く理解いただけるように調査研究を続けて参ります。

 

 

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